第3話

文字数 3,292文字

 ローズはフレアをストックトン邸に残し、自分は屋敷の警備要員として隊士を派遣していた湾岸中央署へと向かった。署内は日勤の隊士が去り、交代に夜勤担当の隊士が持ち場についていた。ローズは姿を隠したまま署内を歩く。まだ夜も始まったばかりのため隊士たちは余裕を持っている様子だ。
 今夜は穏やかに夜が更けていくに違いないという楽観的予測も手伝って、その余裕を補強している。その理由は月だ。満月はまだまだ遠い。そのため、今夜は穏やかに違いないという甚だ根拠の薄い希望的観測に基づいた余裕だ。確かに狼人であるフレアにはいくらかその傾向を持った意識の揺れが見られはするが、都市に住む人にどこまで適応することができるのか怪しいものだ。
 件のベレロフォンについて隊士達に訊ねてみると、ビンチ達と同様に半信半疑未満が大半を占めている。警備隊ではこのような脅迫状、犯行予告などを扱うのは珍しくない。高確率で嫌がらせや面白半分の犯行で、実行に移されることはないが、稀に本物が含まれているため油断するわけにいかない。悩ましく苛立つ事案の一つとなっているようだ。
 今回、ベレロフォンの件に関して捜査担当として任命されたのは―夜勤の隊士によると押し付けられたが正しい表現のようだ―ハンネ・ウィルマンという隊士とその相棒だ。彼の住処を訊ねると事務方で聞いてくれと返ってきた。意識に深く潜り込み探ってもよかったが、あやふやな情報では意味がない。ローズは素直に従うことにした。
 事務方は無人で闇に沈んでいた。相談する相手もおらず、仕方なくローズは自分で書類を漁った。幸いに資料の整理整頓は行き届いており、さほど、時間をかけることなくウィルマンなる隊士の住居を特定することが出来た。住所から見てここから東の集合住宅の一室と見てよいだろう。
 集合住宅の住所は港の倉庫街にほど近い場所に位置していた。見つけ出した集合住宅の最上階の一室がウィルマンの居室で部屋はまだ光が灯っている。今夜は窓からではなく玄関から入ることにする。階段を上り玄関へ、扉を内側から開錠し室内へ侵入する。後ろ手で静かに扉を閉め鍵を掛け、人の気配が感じられる窓に面した居間へと向かう。そこには窓辺にテーブルが置かれ、添えられた椅子に男が座っていた。彼がハンネ・ウィルマンに違いない。
「誰だい?今入って来たのは」ローズが二歩も進まないうちに男の声が声を掛けてきた。 
「この部屋で住んでいるのは警備隊隊士なんだ。余計な仕事を増やさないうちに出て行ってもらえないか」
 姿を消したまま部屋の戸口に立つローズに対し、男はやれやれという表情で座っていた椅子から立ち上がった。背丈は高い部類には入らない中年男だ。音にならないため息が聞こえてきた。黒く波打つ髪はもつれて鳥の巣を思わせる。だらしないように見えても鳶色の瞳には鋭さがある。
「物音を耳にして適当な事を言っているわけじゃない」男は部屋の入り口に立つローズを見据えた。気配を感じ取っているだけではない。
「あんたは姿を消して隠れてるつもりかもしれんが、こっちにはしっかり見えているんだ。真っ黒な外套を羽織った黒髪の女の姿が……」
 ローズは姿を消すのを止めた。男に驚いている様子はない。
「こんばんは、ハンネ・ウィルマンさんですね。いつ頃からですか、それが見えるようになったのは」
「気づいたのはまだほんの小さな頃だが、それが普通じゃないと知ったのは十を過ぎてからかな」とウィルマン。「あぁ、あんたは、まさか……」
「その、まさかのアクシール・ローズです。お見知りおきを」ローズは口角を上げた。
「なるほど」ウィルマンは嬉しそうだ。「まぁ、帰る気が無いなら好きな場所に座ってくれ」
 好きなと言われても座れそうな椅子はウィルマンの正面にある椅子だけ、それも外套の重量を気にせず座れば崩れてしまいそうだ。
「あんたが今夜わざわざここにやって来たのは、やはりベレロフォンの件だろうか」ウィルマンはローズが椅子に腰を掛けたのを見計らって声をかけた。
「わかりますか?」
「わかるも何もあんたのような存在がわざわざ俺のような男の元にやって来るとなれば、今はそれしか考えようがない」
 ウィルマンはローズへの情報提供にためらいは無いようだ。ただ、その対価は必要だ。
「俺もあんたと話がしたかったんだ。塔まで出向こうかと思ったんだが、上に止められた」軽いため息をつく。
 なるほど、それがあって塔までビンチ達がやって来たようだ。
「あなたはストックトンさんの死に事件性があると思っているんですか」
「彼の死についてはかなり薄いとは思うが、声明文の狙いがわからない」
「悪戯ではないと……」
「よくある悪ふざけと違ってどこか引っかかる」とウィルマン。「それで目撃者であるあんたと直に会って話がしたかった」
 これらの主張が元でウィルマンと彼の相棒はこの件の担当を命じられたようだ。文句があるならお前たちが当たれというわけだ。
「何なりとご質問を」
 ウィルマンからの質問は大筋でビンチ達と変わらなかった。彼らとの聴取と同じくローズはあの夜の出来事を改めて思い返す。そして、彼女が見て感じた事をそのまま話して聞かせた。ウィルマンはそれに変な相槌を入れることなく黙って聞いていた。ローズから直に事情を聴いたことによりいくらか考察は深まったようだが、納得には程遠い。
「俺から何か聞きたいことは……」
 聴取の後ウィルマンから問われたがローズとしては知りたい情報は既に取り入れている。
「そうですね、犯罪組織であるキマイラについてご存知ですか」
「それがまだ皆目……」この答えに嘘はない。保安課にも問い合わせはしたが、彼らもそれらしき組織については把握していないとの解答が返って来た。隠し事はあるかもしれないが、今のところ有益な情報は得られていない。
「ベレロフォンの犯行はまだ続くと思いますか」
「声明文では言及してはいないが、奴はストックトン氏を獅子の頭と名指ししている。そして、組織としてのキマイラ討伐を目的としているなら……」
「山羊の胴と蛇の尻尾も討伐対象となり得る」とローズ。
「その通り、キマイラの特徴を考えるなら当然その二つが出てくる。残念ながら犯行はまだ続く可能性が大いにある」
 警備隊としては既にその対策に乗り出してはいる。しかし、犯罪組織キマイラが実在するとしても彼らの側から保護を求めてくるわけもなく、警備隊として出来るのは山羊や蛇の紋章に関わる住民に注意を呼びかけることがせいぜいである。

 ローズがウィルマンの部屋を出た頃、そこから西の住宅街に居を構えるクオファラ家から警備隊へ階段からの転落事故との通報が入った。通話機にて一報を入れたのは当主のアレックスで転落したのは彼の母であるローラである。
 警備隊がクオファラ家に到着した際にはかかりつけ医のタトヴァラが彼女に寄り添っていた。医師によるとローラの死因は二階から階段を踏み外しての転落によるものだ。加齢により骨の老化が災いしたようだ。階段から転げ落ちたため、手や足の傷は言うの及ばず全身に損傷を受けているが、中でも致命傷となったのは頸部の骨折である。第一発見者であるアレックスが気づくのが早くとも、残念ながら彼に手の打ちようはなかっただろうとのことだ。手摺や踏み段に血液の付着が見られるため彼女がこの階段を転がり落ちたのは間違いないとみられた。
 アレックスによると書斎で書類をまとめている折に不審な物音を聞きつけ廊下へと出た。ほどなく二階への昇降階段のすぐ傍で母ローラが倒れているのを発見した。そこで他の家人や使用人を呼び、タトヴァラ医師と警備隊へも連絡をしたという。事故当時二階にはローラ以外に誰もおらず、二階で争った後もなく彼女自身も足が弱っていたなどの事情もあり転落事故との結論が濃厚となっている。
 山羊の家紋を掲げるクオファラ家でのローラの死は翌日までは不幸な事故として扱われていた。つい最近まで帝都の商工会の会員として活躍していた彼女に疑惑を抱くものなどいるはずもない。だが、翌日になり事情は一転する。
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