第5話

文字数 3,344文字

 口髭の男の名はアリ・ウセロ、女はユミ・マクラタではなくヤヨイ・イズミと名乗っていた。彼らの名前と泊っている部屋は給仕が持つ注文伝票をハンナが横から盗み見ることで造作なく判明した。ここからはファンタマの出番である。

 夜更けてからファンタマはウセロの部屋へと忍び込んだ。宿の外壁に貼りつき窓の外まで降り、袖口を差し込み上下の閂を抜き窓を開ける。アラサラウスの力で背景に同化して姿を見えにくくしてはいるが、出入りの際は扉を使う必要がある。ファンタマが絶えず緊張する瞬間だ。

 無事室内に忍び込み辺りを見回す。寝台ではウセロがクラバットも外さず、靴を履いたままで眠り込んでいた。ハンナがこっそり酒に入れ込んだ薬がよく効いているようだ。

 探し物に掛かるとしよう。ウセロがアボットの取引相手ならば真偽に関わらず「湖水の輝き」を持っているはずだ。備え付けの収納棚には来訪時、身に着けていた上下衣類などと薄手の外套が掛かっているだけだ。寝台の下は物入れとなっていた。慎重に中を覗いて見ると、奥に押し込まれた革の旅行鞄が目についた。ウセロがいくら薬を盛られて眠り込んでいるとしても、物音を立て引きずり出すのは気が進まない。左右の袖を伸ばし鞄の下に入れ込み、僅かに浮かせて手元に引き寄せた。静かに鞄を取り出し床に置く。

 鞄を縛っている革の帯を外し鍵を外す。中身は下着などの衣類、汗拭きに二つ折りになった物入れ。四つ折りの新聞ほどの大きさで丈夫な革製だ。手に取ると貨幣が詰まっているかのように重みがある。開けてみて納得した。何本もの鋏に櫛に油、乳液といった髪や髭の手入れ用品だ。あのナマズのような太く長い髭のために使うのだ。

「洒落者だね」

 他に細工は見当たらないため物入れは横において先に進む。最奥から柔らかななめし革の袋が見つかった。その中にさっきの物入れより一回りは大きく硬い感触の箱が入っている。それは滑らかな革が張られた木箱で、深い青緑色の珠をあしらった首飾りが収められていた。

「見つかった。湖水の輝き……の紛い物だ」

 紛い物とはいってもそこそこの出来だ。本物を見たことがなければこれで十分通用する。

「いい出来だが、詐欺師は確定だ。こいつはあんたを相手にするべきじゃなかった」ファンタマは囁いた。「どうする?」イヤリングの向こうにいるアボットに問いかける。

「全部元通りにしてそこを出て」とアボットの声。

「いいのか?」

「教訓を与えるのは直に会ってからにするわ」

「なるほどね」



 マクラタもウセロと同様に眠り込んでいた。ファンタマは静かな寝息を立てる彼女の横で探し物を始めた。自前の装飾品を幾らか持ってはいていたが、「湖水の輝き」はそれには含まれていはいない。鞄の底などに隠された仕切りや袋などは見当たらない。例の首飾りは別の場所にあると見た方がいいだろう。

 唯一見つかったのは談話室での鍵となる行動の覚書だ。これは懐から見つかった。座る席、その席が塞がっていた時の対応と演奏者に依頼する曲などが書かれている。このような覚書は素早く始末してしまうべきなのだが、睡魔には勝てなかったか。

「彼女は代理と見ていいだろうな。向こうもまだ直接顔は会わせたくないようだ」

「そのようね」とアボット。

「では、少し驚かせてみようか」

 ファンタマはアラサラウスの周囲と同化している迷彩を解き姿を現した。薄い金色の波打つ肩までの髪に白い肌、瞳は淡いハシバミ色でその面差しはアボットによく似ている。ハンナに教えてもらったネネの姿だ。髪を乱し頭から流れる赤黒い血を少し付け足す。

 ファンタマはネネの姿で眠っているマクラタの上に覆いかぶさった。そして、胸元を強く押さえた。その苦しさに彼女が目を覚ますと、両肩を押さえつけ寝台の上で拘束する。ぼんやりとした目が上から覆いかぶさる血塗れの女の姿を捉え、大きく見開かれた。

「ネネ……」マクラタは呆けた顔で呟いた。

 一呼吸も置くことはなく彼女は自分が陥っている事態を理解した。それから逃れるべく必死になってもがき体を捩る。懸命に拘束を解こうとするマクラタの力は凄まじくアラサラウスの力がなければ手を焼いていただろう。十拍ほどマクラタを押さえ込んでから、ファンタマは姿を消しつつ飛び上がり天井に貼りついた。

 突然、拘束を解かれたマクラタは勢いよく寝台から飛び起きた。荒い呼吸を繰り返す胸を片手で押さえつつゆっくりと首を左右に振り辺りを窺う。そして、最後に天井を恐る恐る見上げた。

「ヒッ……」マクラタは小さな悲鳴を上げた。天井で陰影が作り出す幻を見たか。

 彼女は思わず視線を逸らせだが、意を決してもう一度視線を上方に向ける。何もない。何の変哲もない天井だと自分を納得させるように頷く。ほどなくマクラタは再び寝台に横たわった。

「ネネ……」もう一度呟いた後に彼女は眠りに落ちていった。



 翌朝、マクラタは目覚めてからも悪夢の残滓を払えぬままでいた。血を流しながら無表情で自分の上に覆いかぶさるネネの姿は、夢でありながらも凄まじい迫力を持っていた。ありもしない幻影を相手に拘束を解こうと身を強張らせたせいだろう全身がだるく重い。両肩は傷みさえ感じる。

 ネネが夢に出てきたのは首飾りの取引のせいだろう。あの時の記憶が彼女を蘇らせたのだ。彼女も抵抗などせずあっさり首飾りを渡してくれればあんな目には遭わなくても済んだのだ。

 マクラタとしては寝台に横たわって過ごしたがったそうはいかない。ここまで気が重い朝食はなかったが出向かないわけにはいかない。朝食は一階の食堂と聞かされていた。夕食時と違い湖を望むテラスに面した明るい広間で供されるとの説明だったが、マクラタとしてはそんな講釈はどうでもよかった。

 食堂の手前の廊下でマクラタを一人の客が彼女を追い抜いて行った。肩までの銀髪で背中が大きく開いた深い群青の夜会服を着た女である。

「……」マクラタは思わず息を飲んで立ち止まった。

 あのいで立ちには見覚えがあった。例の舞踏会でネネが身に着けていた夜会服だ。昨夜覆いかぶさってきた時に着ていたのもあの服だった。夜会服の女は食堂へと入っていく。その瞬間に見えた顔は間違いなくネネだった。

 その真偽を確かめるためマクラタは走り出した。食堂へと飛び込み辺りを窺う。食堂に入ったばかりのはずのネネの姿はなかった。いるのは朝食にやって来た他の泊り客ばかりだ。朝食とあって皆、部屋着と変わらぬ身軽な服装だ。木製の盆を片手に横長のテーブルに並べられたパンや総菜、チーズなどを選んでいる。夜会服の女などどこにもいない。

「ユミさん、ユミさんでしょ。おはようございます」

 マクラタが食堂入り口付近で立ち止まっているとお仕着せの女が声を掛けてきた。黒髪で青い目の女だが覚えはない。仕立ての良いお仕着せで数種類のパンが入った籠を胸に抱えている事から誰かの使用人なのだろう。マクラタにわかることはそれぐらいだ。笑みを浮かべ話しかけてきたことから自分の事を知っているのか。それとも勘違いか。

「わたしはハンナ、ノギロン家で一緒でしたよね。わたしもあのお屋敷で働いていたんですよ。大変でしたよね。あの舞踏会での騒ぎ……」

 人違いではなさそうだ。

「ネネ様が倒れていたのを発見したのはわたしだったんですよ。わたしがお助けしたのにわたしが悪いように言われるのようになってしまって、せっかくいいお宅だと思っていたのに気分悪くなったので辞めました」

 ハンナは肩を落とした。

「でも、ですね……」ハンナはマクラタに顔を寄せ、声を潜めた。

「それでよかったのかもしれません。あのお宅、ちょっと怖いところがあったようなんです。呪いというのか、何というのか……あっ」

 そこまで言うとハンナは弾けるように後ろに退いた。

「ごめんなさい。朝食に来たんですよね。お邪魔しちゃって、またお話してくださいね」

 ハンナは声を掛けてきた時と同様に一方的に別れを告げ去って行った。マクラタはしばし放心していたが、気を取り直し、積み上げられた食物に群がる飢えた泊り客の集まりに参加するために歩き出した。
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