第4話

文字数 3,703文字

 劇団ウンディーネの公演はプロフディフの北にあるガブロポ湖畔の旅亭ムグラエリアで行われる。本来の意味から外れることのなるがムグラエリアは宿泊施設を備えている。おそらく、高級料理を売りにした宿泊施設という観点で敢えて旅亭を名乗っているのだろう。

 ムグラエリアは湖に面しているため食事に淡水魚や貝などの水産物が主に供されることが多い。湖での釣りや水遊びも楽しみの一つだ。だが、ガブロポ湖には怪魚や水竜が深い湖底に棲みついているとの噂もある。どれもあやふやな目撃談ばかりではっきりとはした証拠が示されたことはない。 彼ら自身もそれを隠そうともしていないところを見ると本気にはしていないのだろう。むしろ、怪魚などを目当てに来る客を期待しているのかもしれない。

 ファンタマ一行が馬車でムグラエリアに到着したのは昼過ぎの事である。御者を務める青年に化けたファンタマと、彼が操る馬車から降りる老婦人アボット、そしてその介添え役を務める使用人ハンナの姿を何人もの泊り客や従業人が目にした事だろう。

 ファンタマは馬車を車止めに回し、馬を厩舎に任せ宿へと向かった。馬は彼がいつも御者を務めている使い魔フェイトンではないことには気づいているようだった。だが、敢えて表には出さずにいてくれた。飼い主であるアボットに免じてのことかもしれない。

 ファンタマは自分の鞄を持ちアボットからあてがわれた部屋に入った。自前の鞄はアボットの屋敷に置いて来た。姿も鞄もその中身もすべて借り物だ。それはいつもの事だ。

 部屋からはガブロポ湖の輝く水面を望むことが出来る。薄くかすんだ対岸は針葉樹林が広がり緑に包まれている。湖は東西に広がり水面から湖底までは思いのほか距離があると聞く。人がこの付近までやって来て暮らし始めたのはここ百年の事らしい。それならば噂にある怪魚が潜んでいても不思議ではないだろう。

 ファンタマは姿を乗馬服からアボット邸のお仕着せに整え外へ出た。廊下歩き二つ隣の扉を叩き、フェイトンの名を告げ反応を待つ。

「開いているわ、入って」アボットの声が聞こえた。

「よく似合っているわ」

 アボットは窓際の置かれた椅子に座っている。ハンナはその場に立ち控えている。ベランダに続く窓が開け放たれ爽やかな風が入ってくる。

「ありがとう」とファンタマ。

 ウンディーネ五体の中にも序列があるらしい。一番はいつもアボットと行動を共にしているハンナだ。彼女が長女と言ったところかと言ったところか、フェイトンは次男で四番目だ。見た目は二十歳前後の青年で僅かに幼さが残る容姿だ。

「夜になってから先方と最初の顔合わせをするとつもりよ」とアボット。「それまでゆっくりと過ごしてもらえばいいわ」

「それなら俺は寛容な主人から自由時間をもらった若い使用人を装って辺りを回らせてもらうよ。どこに面倒な知り合いがいるかわかったもんじゃないからな」

「えぇ、ご自由に。夕食は三人で食べに行きましょう。それまでには戻って来てちょうだい」

「了解」

「先方は夜に談話室に出向くように指示してあるわ。そこで顔を確認させてもらう。商談はそれからのことよ」

「用心深いな」

「当然でしょう。あなたが言った通り、どこの誰が顔を出してくるかわからないわ。特に今回の商談は誰にも邪魔はされたくない」

「やって来る奴の正体はわかっているのかい?」

「この子たちによると両方とも男で古物商を名乗っているわ」

「両方?二人組ではなく二組来るってことか」ファンタマはフェイトンの顔で眉をひそめた。しかし、童顔ではすねたようにしか見えない。

「わたしが撒いた餌に二匹の獲物が掛かって来たってわけ。それで両方とも呼んでおいたわ。どう転んでも、片方は嘘をついているんでしょうけどね」

「そうなるな」

「この際だからその嘘つきにも二度と変な考えを起こさないようにしっかりと教訓を与えておかないとね」

 それにはファンタマも賛成だ。彼もよく教訓を与えている。彼らが再びこの世に現れた時に備えて。


 アボットに告げた通りファンタマは施設内をこまめに歩き回り構造を頭に入れておいた。常に退路を考え行動する必要がある。馬の様子を確かめることを口実に厩舎を訪ね、それから泊めてある馬車なども確かめてみた。幸いに招かざる知り合いを目にすることはなかった。

 本館へと戻り、玄関広間に並べられた小洒落て柔らかな椅子に腰を掛け、煌めく湖面を眺めつつ来客の往来を観察する。

 客層は料理を売りにしているだけあって余暇目的の宿泊客が大半のようだ。自前の馬車でやって来た常連の二組は獲物から除外でかまわないだろう。他には今、目の前で受付を済ませているような男女も除外でいいだろう。男は女にいいところを見せつけようと必死になり他の事は考えられる状態ではない。後はアボットのように従者ともにやって来た単身の金持ちか。思いのほか単身の客は少ない。今のところ目にしたのは男女合わせて二人だ。

 そろそろ、物珍しそうに煌めく湖面を眺める青年を装うのに飽きてきた頃、受付の傍に置いてあった銅鑼の音が響いた。夕食の時間が近い。次の鐘が鳴るまでに身支度を整え食堂に集合だ。ファンタマは椅子から立ち上がりアボットの部屋へと向かった。

 食堂で出されたのは周知の通り、目の前のガブロポ湖で取れた魚と貝主体としたソテーやシチューなどが出された。以前食べたウルバト湖の鱒の方がうまく感じたが、それは自分が釣り上げたという思い入れも加味されているからだろう。だが、ファンタマとして都会かぶれした味付けよりも、素朴で力強い辺境の村クルクラレの味の方が好みなのは確かである。

 ファンタマはアボットと差し障りのない会話を交わしつつ、他の泊り客の姿にも目を通しておいた。現れた二十人ほどの中で嫌な知り合いや同業者の顔は見当たらない。何よりだが、それで安心できるわけでもない。

 食堂からアボットの部屋へ戻る途中にファンタマとハンナはお互いの姿を取り換えた。いよいよお芝居の開始だ。ハンナになり替わったファンタマはアボットと共に談話室へ、フェイトンに姿を変えたハンナはそのまま自室へと戻っていった。



 柔らかなピアノの音色が響く談話室の奥でテーブル席で、ゆったりとした背もたれに体を預けそれに聞き入る老婦人と、椅子に腰を掛けてもなお背筋を伸ばし緊張を解くことのない使用人の女、周囲からはアボットたち二人はそう映っていただろう。ハンナは姿を消し傍に寄り添っている。付近に奇妙な気配を感じた客もいたかも知れないが、ここは人が行きかう社交場だ。彷徨う精霊などの噂は絶えることはない。これもその一つと理解することだろう。

「右前のテーブルに一人で座っている男を御覧なさい」ファンタマの頭蓋にアボットの声が響いた。

「変わった細工髭の男かい?」

「そう、あの凝った口髭の男よ」

 ファンタマはアボットから通信用イヤリングを渡された。国境を越えリヴァ・デルメルまで赴き手に入れたらしい。優れものなのは知っているが普段一人で動いているファンタマとしてはどうにも使いづらい。つい喉を使い言葉を出てしまいそうになる。それにあの人造魔器が感情も幾分か伝わってしまうことも好きになれない。

「あの男が例の売り手の一人か」

 アボットが指定した席に着いているのは略礼服に身を包んだ小柄で黒髪の男だ。少し髪は薄くなっているが、それでもきちんと油を塗り整えている。指定された席に座っているとしてもそれで確定というわけではない。大事なのは次の段階だ。男は軽く手を上げ待機していた給仕を呼び寄せた。身体を折り曲げ耳を傾ける給仕に男は注文を告げている。二度軽く頷いた給仕はピアノの演奏者の傍らに立ち寄った後、厨房へと入っていった。

 演奏者は分厚い楽譜を繰り頷くと新しい曲を演奏し始めた。

「ソケン・マルケン、貪欲。いい曲よね。彼で間違いなさそうね」

 ほどなく男が注文した酒が届き彼は演奏者に向けて乾杯をした。

「合格」とアボット。

 楽曲が終わる間際に黒い夜会服の女が談話室に入って来た。背は高く細身の女だ。肩までの茶色い髪で前髪は目元で揃えてある。見た目はハンナより少し年上に見える。

「あの女、わたしの見立ては正しかったようね」

「女がどうした?」

「彼女がユミ・マクラタ」アボットは視線だけを談話室を歩く女に向けた。「ハンナによると彼女が例の臨時雇いらしいわ」

「そんな女がこの宿に現れたか」

 女は僅かに首を横に振り辺りを窺い、空いていたテーブル席に座った。

「もう一組も男じゃなかったか。彼女がそいつと繋がりがあるという事か」

「恐らくね」

 女は席に座ると先の男と同様の手順で飲み物を注文し、演奏を依頼した。

「用心のために代理で様子を見にきたのかもしれない」とアボット。「ともかく、マクラタとそっくりな女が今日この部屋に現れるなんて、偶然にしては出来過ぎよ。様子を見ていましょう」

「了解」

 だが、女は席を立つまで一人きりで給仕以外に彼女に近づくことはなかった。
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