第7話

文字数 4,552文字

 あまり評判が芳しくない隣人ロマン・フェルの久しぶりの帰宅、派手な色のローブを身に着けた女性を伴って裏口からの帰宅は、近隣の住民の関心を少なからず惹くこととなった。裏口の影やカーテンの隙間から様子を覗いていたのは使用人ばかりではなく家人まで含まれていた。
 フェル姿のアイリーンもその気配は十分感じていたが、無視することにした。彼らに何ができるわけでもない。それにここには衣装などを取りに来ただけで暮らすわけではないのだ。扉から入ってすぐの厨房はカビ臭く、何もかもがくたびれ、整理が行き届いていない。ここに住むとすればゴミ掃除から始めないといけないだろう。
 ルリはその雰囲気に鼻を刺激され中年男性のようなけたたましいくしゃみを三回ぶちまけた。
「あなた、よくこんなところに住んでましたね」まだ鼻がむずむずする。
「わたしが住んでいたわけじゃありません」
「……そうだったわね」
 彼女はフェルの姿はしてもフェルではない。
 ルリはここまで来る間アイリーンに過去のルリの暮らしぶりなるものを聞かされた。どの話も突拍子もないホラ話にしか思えない内容だったが、なぜか彼女はそれを素直に受け入れることができた。
「彼も以前は女がいたようですが、最近は使用人もいない一人暮らしだったようです。この前の件で彼自身がいなくなってからは、この屋敷によりつく者もいなくなりました。そのためこのような状況に陥っているのでしょう」
 フェルの声と姿で他人事のように話すアイリーンは、自分がその原因を作り出した張本人であることをまるで気に留めていないようだ。
「それでこのようなゴミ屋敷に何の用があるのです?」
「その物言い、いよいよ調子が戻ってきたようですね。あなたが外を歩くための服を探しに来ました。いつまでも寝間着姿でいるわけにいかないでしょう」
 厨房を出て廊下、階段にも薄らと埃が積もっていた。男姿のアイリーンの一歩一歩が細かな埃を巻きあげていく。足元が素足で底の薄いサンダルのルリは歩くことをためらわれた。
「こちらです」階上からアイリーンの声が聞こえた。言葉は穏やかでも明らかに早く登ってくるように催促している。
 やむなく、ルリがローブと寝間着の裾を両手でたくし上げ、急ぎ足で二階に登ってみると、アイリーンは二階に並ぶ扉の前に待機していた。ルリの姿を確認したアイリーンは手招きをした後軽く礼をし部屋に入っていった。
「ここは……」
「寝室です。幾らか服が見つかるでしょう」アイリーンの言葉通り、窓の傍にベットが一つ置いてある。ガラス窓が大きいのはいいが、面しているのが狭い路地のため向かい側の住居からは丸見えとなってしまう。
「壁の一部がクローゼットになってます。幾らか女性用が収められてますから、お身体に合う物を探しますが、その大きな乳房少し小さくできませんか?」
「無理ね。自分で調節できるなら男も女も大喜びよ」
「そうでしたね。人は不便ですね」アイリーンはベッドとは反対側にあるクローゼットへと向かった。
 ルリもそれに続き右足を一歩踏み出した瞬間、窓の向こう側に強い殺気を感じた。とりあえず三人。ルリは反射的に窓に向かい右手をかざした。それに伴い彼女の眼前に光の障壁が展開し、その出現圧に押され床の埃がもうもうと巻きあがる。ルリ自身がその光景に戸惑う暇もなく、全ての窓が木端微塵に砕け、室内に向けて猛烈な勢いで弾けた。おびただしい数の木片、ガラス片がルリに襲いかかるが、事前に構築された障壁に阻まれ、それらは力を失い床に落ち、彼女まで到達することはなかった。だた、障壁表面に土砂降りを思わせる波紋模様が描かれただけだった。しかし、障壁の外で離れた場所にいたアイリーンはおびただしい数の破片を全身に受けその場に崩れた。
「アイリーン!」ルリは思わず叫びを上げた。
 フェル姿のアイリーンは仰向けで倒れたまま血の海に浸ってピクリとも動かない。身体から噴き出す鮮やかな血は床に広がるばかりである。
「ご心配なく、この場はわたしが押さえます。下で待っていてください。すぐに追いかけます」頭蓋内に落ちついたアイリーンの声が聞こえた。
「先に行ってください」アイリーンが告げる。「これから先はあまり見せたくないのです」
「わかったわ、無理はしないで」ルリはためらいながらも来た道を引き返した。
 ルリが姿を消すと同時に窓辺から男が二人、少し遅れて女が一人飛び込んできた。女は魔導師のようだ。よく陽に焼けた男女でターバンにマフラー、砂避けゴーグル、帝都の住民が漏れなく砂漠帰りと呼ぶような服装だ。彼らは血まみれの男に一瞥をくれただけで部屋の扉へと向かった。
「待ってくれ」
 突然の呼びかけに彼らは足を止めた。血まみれの男が転がっているだけの部屋を見渡す。
「痛かったぞ。一瞬死んだじゃないか。まったく人の身体はもろすぎる」
 三人組は声こそあげなかったが、衝撃を受けたのは表情に十分現れていた。それも無理はない。血の海の中に浸っていた男が悠然と立ち上がり話しかけてきたのだ。
「そんなにおどろくことか。そうか、人は一度死ぬともう動かないんだったな」アイリーンは喉に詰まった血を足元に吐き出す。吐き出された血は自ら這い動き大きな血だまりと一体化する。そして身体は唾でも吐き出すかのように木片やガラス片勢いよく排出する。
「まぁ、お母さまにもうまく出て行ってもらえたことだし、これでお前達を心おきなく始末することができる」
 彼らが反応するまもなく、床に溜まっていた赤黒い血が十数本の細剣となり、彼らの胸部を刺し貫いた。そして、アイリーンの銀色の指十本にによる追撃。それらにより彼らは床に止め付けられ、倒れることもできず息絶えた。
「力が戻って来たとはいっても、今の状態ではとてもじゃないが、お前達の姿は見せられたもんじゃない。刺激が強すぎるんだ」一人の男の頭が同意するかのように上下に揺れた。「わかってもらえたようだな。助かるよ」
 アイリーンの血が再び液体となって身体へと戻り、指を引き抜きぬいた時、彼らはようやく自由を取り戻し静かに床に倒れた。

 何があったのか。階上へ突入した殺気はアイリーンの宣言通りすみやかに消えた。療養所の警備員のように話し合いが通用するとは思えない相手をどのように黙らせたのかは、ルリは気にしないことにした。
 上が片付いてもまだ、呑気には構えてはいられないようだ。気配はあれだけではなかった。前後を挟まれている。厨房の扉の向こう側、玄関側それぞれ殺気をみなぎらせた襲撃者が二人づつといったところか。
「アイリーン増援が来たわ。表と裏で挟まれてる」
「わかりました。すぐそちらに行きます」
 アイリーンの返答を合図にするかのように厨房の扉が開き、大型のナイフを手にした男達が廊下へと躍り込んできた。彼らが手にしているたナイフは一振りで腕が落とせそうだ。背後でも激しい物音がしている。襲撃者は力技で玄関扉を突破しようとしている。
 この非常時においてルリは自身の動作権限を何者かに奪われた。危険な男達を前にルリは指一つ動かせなくなってしまった。夢と同じようにただ目の前で展開する情景を観察するだけの立場に追い込まれた。
 だが、これにより危機に陥ったのはむしろ男達の方だった。彼らはルリの中身が入れ替わった知る由もない。男達はルリに警戒する様子もなく間を詰めてくる。そして、男の一人は彼女がまるで動かない案山子であるかのように無警戒にナイフで切りつけた。
 ルリはそれを油断なくかわし大型のナイフをもぎ取った。その折、男の肘関節が耳障りな音を立て、あらぬ方向に大きく曲がり折れたが、彼は気にならなかっただろう。ナイフは良い物だったのだ。布が何層にも重なるアクトンを、瞬時に突き通し、その刃が胸の奥に達するほどに。おかげで彼は腕が折れたことによる激痛を感じることなくこの世から去っていった。
 男は一度大きく痙攣した後、完全に動きを止めた。ナイフが胸から抜かれると男は静かに埃まみれの床に横たわった。ここまで手を二回打つほどの時間しかかからなかった。
 ルリはもう一振りのナイフを同様の手段で手に入れると玄関側へと向かった。

「ひどいもんだな。どこまでわかってる?」これが現場を目にした特化隊隊長オ・ウィンの第一声だった。
 帝都旧市街であっても喧嘩や乱闘騒ぎは毎日のように起きている。その果てに殺人事件という展開も珍しくはない。旧市街でも暗躍するゴロツキ集団は多数存在し、その点には置いては新市街と大差はない。連中の後ろについているのがアクシール・ローズか不良貴族の違いだけだ。しかし、今回は常軌を逸している。
「ざっと聞いたところでは、この屋敷に攻め込んだ連中が居合わせた何者かに殺害されたようです。見つかったのはこの二階で三人、下で四人。ここの三人は指程度の太さで鋭利な針のような凶器で胸の周辺をめった刺しに、下の四人はそれぞれの胸に大振りの刃物を突きこまれていました。あぁ、後、持ち主不明で血まみれの衣服が発見されました。その該当者はまだ見つかっていません」
「お前の見立てはどうだ。それで確かなのか?」
「遺体が運ばれる前にこの目で確認しましたが、間違いないでしょう。下の被害者はとどめに雷撃も食らってます。胸の傷に軽いやけどがありました」デヴィット・ビンチは副官のエリン・エブリ―と共に部屋の戸口に立つオ・ウィンに告げた。
「間違いなく手練だな」
 室内には数か所血だまりが見られ、その上に木片、ガラス片が散乱している。その周辺を警備隊の分析官達が情報収集のため行きかっている。
「窓が壊れているが爆発があったのか?」とオ・ウィン。
「その窓が突入口のようです。上にいた三人はこの窓を破壊し、魔法で跳躍、部屋に飛び込んだようです。物音を聞きつけた向かい側の使用人が様子を目撃し、警備隊に通報しました。使用人たちはその後は警備隊が駆けつけるまで、火掻き棒や何やら手に隠れていたそうなので何も見てないそうです」
「しかたないな。下手に動かれても危ないだけだ、ロマン・フェルとの関わりは?」
「まだ分かりません。近所での奴の評判は芳しくありませんが、こんな事件を起こすほどの力はなさそうです。しかし、ここは奴の自宅です。何も関係がないとは思えません」
「フェルという男、思いのほか面倒な奴かもしれんな。そいつがルリに関心を持っていたときた」
「当の本人達は今どこにいるのか?」エブリ―がため息交じりに呟いた。
「それを知るために、ここに来てみればこの騒ぎだ。これが知れたらフェルは寄りつかんだろうな」
「誰かフェルの立ち回り先に心当たりがある者がいるといいんだが……」
「それについては今、アトソンが近所に聞き込みにまわっています」
「お前も手伝ってやれ。あいつではこの辺りはまだ慣れんだろう」
「俺もですか」ビンチは眉をしかめた。
「ルリ姫様のお守の域を越えて、奴は俺達の庭に入って来た。面倒でも追わにゃぁならん」
 エヴリーはため息をつき、ビンチは静かに頷いた。
「了解です」
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