第2話

文字数 3,212文字

 就寝の鐘が鳴りしばらく経つ。スレッティー・レインホルツは寝台から起き上がり、部屋の扉の前に足音を控え忍び寄った。巡回の夜番の気配はない。窓から見える中庭にも動く灯火は見当たらない。窓際から体を退き湧き上がる緊張感を押さえるために大きく息をつく。ややあって、寝台の傍で屈みこみ、隠してあった旅行鞄を音を立てないように引きずり出した。この鞄で実家からこの学生寮までやってきた。オーラの元へ赴く旅に必要な物は先に詰め込んである。武器なら呼べば手元にやって来る。路銀に不安はあるが、いざとなれば歩いて行くつもりだ。
「やはり、出て行くつもりなのですね。間に合ってよかった」
 不意に頭の中に女の声が響いた。あまりに鮮明なために周囲を見回した。誰も傍にはいない。夜中に外出着で旅支度だ。このような姿を見られては万事休すもいいところだ。
「そう思って、肉声は控えています」
 部屋の扉が音もなく開き、黒い外套を纏った女が入ってきた。スレッティーがその人影を女と判断したのは頭に響いた声音からだ。豪奢な刺繍が入った外套の上からは身体の線は窺えず、頭部は頭巾と仮面で隠れている。スレッティーが見て取れるのは口元の青白い肌だけだ。魔導師であることは確かだろう。それもかなり腕が立つ。
「こんばんは、スレッティー・レインホルツさんですね」
 なぜ、自分の名を知っているのか、ここを出て行く事情まで知っているようだが、どこかで会ったことがあるのか。武器は必要か。いざとなれば声に出さなくとも「神槌マサカキ」は呼び出す事は出来る。 
「お手柔らかにその武器はわたしにも効きます。外で話しませんか。あなたの事情は知っています。ここでの立ち話は気が気ではないでしょう」
 和らな声が響く。こちらの考えはお見通しのようだ。
「お顔を拝見するのは初めてですね。この前は馬車ですれ違っただけでしたから」
 馬車ですれ違ったという言葉からスレッティーの記憶が想起された。鉄馬車、黒い外套、仮面の女、それらが繋がり一つの答えが導き出される。
「アクシール・ローズ?」
「その通りです。お見知りおきを」
 薄紫の唇の口角が上がり口元から鋭い牙が覗いた。


 スレッティーは躊躇なくローズと共に部屋の外へと出た。闇に沈んだ校内にを歩いている間、先導していたのはスレッティーだった。それに付き従っていたのはローズの方だ。ローズは一心不乱に校門へと向かう彼女の後に付き、不意に現れる学校関係者や学生に備え、辺りの気配を窺っていた。
 校外へと出てローズが闇の先を手で示しても彼女は何の恐怖も抱かなかった。スレッティーがローズの正体を知らないからではない。帝都に住む住人としての常識範囲の知識はあるようだ。つまり、逆らわない限りは襲ってくることのない奇妙な吸血鬼だ。
 彼女の頭の中にあるのは、なぜ有名な吸血鬼が自分の前に現れたのかはわからないが、さっさとこの女との用を済ませオーラの元へ駆けつけようという事だけだ。
 ローズと共に街路を歩き、ほどなくフレアが待機する鉄馬車の元へ到着した。今夜は幌は降ろされ客車の中はうかがい知れない。スレッティーはフレアが扉を開けた車内へと躊躇することなく入っていった。抵抗は無意味だという事も心得ているようだ。。奥の席に腰を降ろし、足元に鞄を置いた。
「それで、わたしに何の用ですか?」
 スレッティーは客車へ乗り込んできたローズが腰を降ろす前に声をかけた。
「それはレインホルツさん、あなたとこの前会った時の事が忘れられなかったからです。あなたほどの女性に全てを投げうってまで駆けつけさせようとする女性とは何者なのかと興味が湧いてきまして……」
「スレッティーで結構ですよ、ローズさん」とスレッティー。「興味とは何です?特に何者でもない、わたしのような女に」
 スレッティーの体格としてはフレアとローズの中間辺りと言ってよいか。棒術に打ち込んでいるとあってよく締まった体つきをしている。肩まである艶やかな漆黒の髪に癖はない。黒い瞳にも十分な力がある。
「競技会の結果は拝見しました。学生の身で僧兵達に混じっての準優勝は大したものだと思いますよ。あなたは事実上女性の頂点に立ったわけですから、何者でもないは謙遜し過ぎでしょう」
「ありがとうございます」スレッティーはいくらか納得はしたようだ。
「そんなあなたがすべてを放り出して駆けつけようとするオーラなる女性は何者なんですか」とローズ。
「それは……」
 スレッティーはローズの口から彼女の名が出て来たことに衝撃を覚えた。しかし、ほどなくこれも納得がいった。あの時は彼女の事で酷く思い詰めていた。その思いが傍を通るだけで感じ取れるほどに溢れ出していたのだろうと。
「オーラはわたしの大切な人なのです。愚かなことにそれに気づいたのは彼女が嫁ぎわたしの傍からいなくなってからの事です。オーラとは身分の違いはありましたが、子供の頃から一緒にいました。大切な友人の一人でした。特別な存在だと気づいたのは彼女から見知らぬ地へ嫁ぐことを告げられた時でした。家を助けるために嫁ぐのだと言っていました。そんな彼女にわたしは何の声もかけることもできず、ただ送り出す事しかできませんでした」
 誰にも話せず胸の中に秘められていた思いだ。相手が初対面の吸血鬼だろうとかまわない。誰かに聞いて欲しいという思いが言葉と共にローズに流れ込んでくる。
「わだかまる思いに折り合いを付けたつもりでいたんですが、彼女から助けを求める手紙を受け取って、居ても立ってもいられなってしまいました。後は寮を出て行くことばかり考えるようになっていました。出て行くことを考え、次には思いとどまる理由を考える、その繰り返し……」
 ふっと言葉がスレッティーの胸に吸い込まれた。彼女はしばし黙り込んだ。再びあの夜のすれ違いに思考が行きつく。
「あの問いは、駆け落ちでもするつもりかという問いかけは、まさかあなたでは……」スレッティーは隣に座っているローズに目をやった。
「そうですね。あまりの思いの強さについ……迷惑でしたか?」
「いいえ、あの言葉で決心がつきました。答えたはずですよ、望むところだと。躊躇していた一線を越える決心がつきました。でも、あなたのせいだとはいうつもりはないのでご安心を」
 そこまでいうとスレッティーは大きく息をついた。
「あなたがそんな方ではないのは承知しています」とローズ。「あなたは先方でオーラさんのために存分に暴れてくださいな。吉報を期待しています」
 スレッティーは話は終わったとばかりに足元の鞄に手をやり椅子から腰を浮かべた。ローズは右手を伸ばしそれを制し、口元に笑みを浮かべる。
「それはそうとスレッティーさん、あなたはここからオーラさんの元へ向かう足はどうするつもりですか。オーラさんがいるのは丸一日かかる場所ですよ。とても歩いて行ける場所ではありませんよ」
「それは……」
「寮を出るにはこの時間しかなかったとしても、無理がありすぎますよ。日中でもそこまで出向いてくれる馬車を探すのも一苦労でしょう。歩いてでもと言ってもオーラさんに会うまでに疲れは果ては元も子もありません」
「それならどうすれば……」
 さっきまでの言葉と相反して留め立てするローズにスレッティーの怒りが込み上げてくる。
「その足についてはこちらで馬車を提供しましょう。そこのフレアも一緒に連れて行ってくださいな」ローズは幌の向こうにある御者席を指差した。
「いい用心棒になりますし使用人としても使えます、それこそ、いざとなればあなたを担いででも先方へ送り届けることが出来ます。もちろんお代は頂きません。わたしはただオーラさんがどんな方か知りたいだけですから」
「そうですか……ありがとうございます」
 路銀は僅かしかない。旅費が浮くのなら贅沢は言ってはいられない。スレッティーは申し出を受け入れることにした。
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