第3話

文字数 7,071文字

「フレア、あなたはあると思うの?」
 陽が落ちてローズ目覚めの時。
「ないと思います」フレアはローズの髪に櫛を入れている。
 ローズはフレアより頭一つ分以上背が高い、そのためローズは必要な時、力を使いフレアを床から少し持ち上げる。自分の身体を好きに扱われることは、フレアとしてもあまり好まないが、もういい加減慣れてしまった。
「強い匂いで別の匂いをごまかそうとしても、変に混じってしまっておかしなことになるのがオチなんです」
 ローズが見えない手を放し、フレアは床に降りる。
「実際、現場ではあの薔薇もどきの「野生の芳香」の匂い以外に別の物を感じることはできませんでした」
「それでも、あなたは昨夜のモルボルが巧妙なウソ夢ではなく、実際に出現したと思っている」
「はい」
「それって、わたしを凌ぐような力を持つ者が、貴族の奥様、お嬢様方にモルボルのウソ夢を見せて回っているという話と同じぐらい奇抜だということはわかっているの?」
「もちろんです」化粧道具を片づけ、下着や寝間着を籠に纏める。「家人や使用人に見つからず屋敷に侵入し、お嬢様の目の前にモルボルを出現させその後、痕跡も残さず立ち去る。それがいかに無茶苦茶なのかはわかっています」
「よろしい。モルボルが実在したかは別として、問題はわたしも含めて皆がモルボルについてどれぐらいのことを知っているかに尽きるわね。昨夜見た物が本当は何であるのか」
 ローズは凝った装飾が施されたお気に入りの椅子に腰を掛けた。目の前のテーブルにはフレアが人の体温まで温めた血液が入った化学樹脂製のパック三つとストローが置かれている。異世界からの渡来人がもらたした技術により、ローズは食事のために人を手に掛けること、そして食事のために口元を汚すことがなくなった。
「わたし達が知っているのはモルボルが海にいるタコのような姿で、多くの触手のような蔓で地上を這いまわる事、耐えがたい悪臭を放つことぐらい、しかもその多くは伝聞でしかなく、ほとんどの人は実際にその姿を見たことすらない」
 血液パックにそっとストローを突き刺す。化学技術に万歳、そして献血者に万歳。
「フレア、あなたはモルボルを知っていたようだけど、実際に見たことはあったの?」
「いいえ、話で聞いたり、絵で見たりはしていましたが、実際に見たのは昨夜が初めてで思ったより小さい物だなと……」
「そうでしょう。わたしも郊外の植物園で目にしたことがあるだけです。見上げるほどの大きさと、その禍々しい雰囲気には圧倒されました。たしかに緑の化け物にふさわしい姿です。他は、あのよくいわれる匂いは思っていたほどではなかった。そこで園の方に尋ねてみると、あの悪臭は餌と育つ土壌に由来するもので、ある程度抑えることは可能とのこと。匂いも人には不快でも獲物を引き寄せるためには必要らしいわ。まぁ、それも幼体の頃はほぼ無臭、そして他の植物と交雑することによって驚くほど臭気が変化することがある。思わぬ変種が生まれることがあると、思ったっていたより複雑な生き物だわ」
「昨夜のモルボルが幼体だったとすれば……」
「悪臭がなかったのは納得できるけど、出現についてはまだ謎ね」
「幼体がいれば親がいますよね。どこにいるんでしょうね?それとどんな風に増えるのか」
「興奮した時に出すガス、吐息と呼ばれているものね、そこに種子に当たる物が含まれているらしいわ。栄養豊富な場所に落ちれば発芽、成長ということらしいけど……」
「その種子を狙った場所に持ち込んでばらまいたとしても……」
「ほとんど意味はないでしょうね」
「あーん、他のお嬢様奥様にも話が聞けたらいいの」
「むずかしいわね。相手は旧市街の貴族よ。わたし達が聞きに行けるわけもない。それに今はどこで特化隊が見張っているかわからないし……あっ、でも……、そういえば、ちょっと待ちなさい」
 部屋の隅に積み上げた新聞が騒ぎ出した。新聞は読み物としては微妙だが、焚きつけ、梱包材、防寒材、ペット用品などとしては一級品である。
 やがて積み上げられた新聞の中から一部が滑り出しテーブルへ飛んできた。
「あてになるかわからないけど、路上で倒れていたところを捕まった香水泥棒の記事が載っていたわ。そいつは何者かに襲われてぬるぬるした何かで首を絞められたと騒いでいるようなのよ。何か参考になることが聞けるかも知れないわね」

 クリス・バートンは勤務を終え、居酒屋のカウンターで一人で飲んでいた。目の前のグラスに二杯目が注がれた時、店内の男達が騒ぎ出した。騒乱の気配ではなく、明るい歓声が店内に響き渡る。振り返ると予想通りそこにはフレア・ランドールの姿があった。住民は皆、彼女の正体は知っている。三百歳の婆さんであることも承知している。しかし、彼女はアイドル的存在となっている。塔の麓の街はアクシール・ローズの力により守られている。そして、生血を得るためであっても医療機関などには彼女の多額の金が投入され、街は整備されてきた。その結果労働者の街の環境は向上した。そのため住民たちはローズを支持し、そのメイドであるフレアにも好感を持っているのだ。
 この街で生まれ育ったバートンもその一人ではあるのだが、今夜は会いたくはなかった。
「こんばんは、クリスさん」
 フレアは満面の笑みを浮かべ彼の隣の席に座った。
「いっときますが、捜査の進行状況なら話せません!他の奴の所に行ってください!」
 フレアは少し悲しそうな顔をした。
「そんな顔してもだめです。昨夜の歌劇場の件は聞いてます。ですが、協力はできませんとローズさんに伝えてください」
 ローズは興味を持った事件に関して独自捜査を始めることがある。それで事件が解決に導かれることも少なくはないのだが、かき回される帝都警備隊はたまったものではないのだ。
「はい……、じゃあ、これの話をしませんか。この件はもう解決してるでしょ?」フレアはローズから渡された新聞をバートンに渡す。
 顔を少ししかめながらもバートンは新聞を受け取った。やはり逆らえない。
「俺から聞いたとは言わないで下さいよ」酔ってうるんだ目で記事を追っていく。
「これは……、向こうの旧市街の港、……旧市街の港湾地区で、一昨日のことですね。これなら知ってますよ。うちの管轄です。倉庫街の辺りを巡回していた同僚が荷物を積んだ荷車と、そのそばに気を失って倒れている男を発見して保護しました。調べてみると、その男は手配中の窃盗犯とわかったので拘束することになりました。男は罪を認めています。今流行りの香水「野生の咆哮」を倉庫から盗み出したそうです。転売が目的でしょうが、この以上は慎重に捜査中なので、お話はできません」
「わたしも転売先なんて興味はありません。そのコソ泥はどうして倒れていたんです?仲間割れでもあったとか?」
「いいえ、一人だったそうです。いつも誰とも組まず一人で仕事をしている奴なんでそこは信用できると思います。で、本人がいうには移動中に荷崩れを起こして、積んでいた香水の何個かが破損、そして積み直している間に、後ろからぬるぬるした冷たい何かで首を絞められ気を失った、というんです」
「何かってなんです?」
「わかりません」
「わかりませんって」
「現場に残っていたのは荷車の車輪の跡と容疑者の足跡、それとぶちまけた香水の割れた瓶と匂いだけ、奴が主張する犯人の足跡などの痕跡は見つかりませんでした。足元は砂利も曳いてない土がむき出しの地道です。そいつがいたのなら残っているはずです」
「でも、気を失って倒れていたところを発見されたんですよね?」
「そうですね。しかし、何も見つからない、我々は窃盗犯が何らかの発作に襲われたのではないかと……」
「そんなに都合良く?」
「そういうことになりますね」バートンはため息をついて、両手を挙げた。
 勘弁してください。
「しかし、本人は全く納得しない。今もそのいるかどうか分からない奴を探せと騒いでいます。これはそれを聞きつけた記者が面白おかしく記事にしたものです」
「香水はどうなったんですか?」
「盗まれることなくそのまま放置されていました。壊れたもの以外は数が減っていないと奴は言っています。窃盗犯を襲った奴がいたとしても、そいつは香水や他の金目の物に一切手を付けず、奴の首だけを絞めて、後は痕跡も残さず逃げたことになります。それでさっきの発作説です。荷物を整えている最中に何らかの発作を起こして、幻覚を目にして昏倒という流れです。まぁ、念のため襲撃犯についても捜査は行っています」
「なるほど……今もその時の香水は分署に置いてあるんですか?」
「もううちの署にはありません。今日昼間に特化隊が署にやってきて割れた瓶まで全部持って行きました」
「特化隊が全部?」
「全部です」
 なぜか、ぬるぬるに「野生の咆哮」はついて回るようだ。そして流行りの香水には強面の男達までが関心をもっているようだ。あとそれについて情報を持っているとすれば誰がいるか、フレアは少し考えてみた。

 床下から遠雷のように響き渡る重低音の波。真夜中を過ぎ、朝が近づいてきているというのにダンスホール「スイサイダル・パレス」はまだ多くの人で満たされている。
 フレアは壁掛け時計に目をやった。もう夜明けが近い。ローズが眠る時間となるが、あの方のこと自分で寝間着に着換えて勝手に寝室へ入ることだろう。この千年その方が多かったはずだ。フレアとしては目下の仕事と興味はこちらにある。
 フレアが来客用の応接室に通されてまもなく店主のジョニー・エリオットが現れた。スキンヘッドで左目の周囲に龍の刺青を施している大男である。今は営業中の時間は賓客対応のためか仕立ての良い上着を羽織っている。この店は新市街東部の危ない地区にあるがお忍びで貴族や金持ちなどもやってくるのだ。
「こんばんはお嬢さん、今日は何の御用ですか?」エリオットは上着を脱ぎ、襟元を緩めた。
 脱いだ上着をフレアの対面のソファーに投げ放ち腰を掛けた。
 エリオットはこのちょっと危険で猥雑な東港湾地区を仕切る人物の一人で、ローズの地所の多くも任されている。
「流行り物のことはここで聞けば教えてもらえるだろうと思って来たの」
「ありがとうございます。しかし、何のことです?豚はから揚げより生の内臓の方がお好みでしょう」
「香水よ。コンド・マーコットの「野生の咆哮」ここで扱っていれば助かるんだけど……大流行なんでしょ。必要なんだけど、さすがにお店で並ぶ気にはなれなくて……」
 窃盗犯が転売先を考えるならこの辺りである。
「わかります。お忍びで来た方々に配るための置いといた物がいくらかあります。お分けすることはできます。ですが、ローズさんがどういうおつもりかはわかりませんが、お使いにならないことをお勧めします」
「どういうこと?」
「使っているうちに化け物が出ただの、何かに首を絞められて気を失っただの妙な噂が出始めたんです。ここにも目の前に化け物が湧いて出たって、男爵家のぼっちゃんが怒鳴り込んできましたよ。香水を渡した女と一緒にいたところに化け物と出くわしたもんだから、香水に何を混ぜたとブチ切れて、剣を片手に店に飛び込んできました」
「それでどうなったの?」フレアは噴き出しそうになるのをこらえて言った。
「なんとかなだめて帰ってもらいました」
「前からいろいろあったのね。表ざたにならなかっただけで?」
「事情が悪かったんでしょう。正気を疑われるのを恐れたですよ。何より体面を気にする人達ですから、こぼれた香水から化け物が湧いたなんて口が裂けても言えませんよ」
「ふーん、でもね本当に香水から湧いて出て来たのかも、どうしてかはまだ分からないけど……」フレアがつぶやいた。
「へっ?」
 エリオットはフレアの口からイカレた貴族と同じセリフを聞くとは思わなかった。
「香水の混ぜ物に酔って幻覚でも見たんだろうと思ってましたが……何か危ない物を混ぜてそうな流行り方ですからね」
「それはないと思う、わたしや他の人たちはともかくローズ様までその化け物を見てるのよ。そして触ってる」
「えぇぇ……?」
「まぁ、そう思うわよね」
 フレアはエリオットに昨夜からの出来事をかいつまんで話した。劇場での出来事から朝の病院、さっきの居酒屋での話まで……
「ローズ様を凌ぐような能力を持つ者の登場かと思っていたら、本当に化け物が現れてる?でもなぜかまったくわからない。どうにもおかしな話になってきてるの」
「何が現実なんでしょうね?人でローズさん以上の力が使える、そんな御人が存在するのか……」
「少し前までは、一人いたそうよ」
「今はどうしてるんです?」
「消息不明らしいわ」
「ふーん、ですけどね。本物といっても、香水を売ってるコンド・マーコットって奴はただの胡散臭い小物ですよ。化け物の召喚なんてとんでもない。香水の瓶にそのモルボルって化け物を仕込むようなことはとてもできそうにないです。新聞記事や広告にはケオー技術大学元教授とかいろいろえらそうなこと書いてますが、スラビヤの出身の奴が言うには「そんなもんねえよ!」ってことです。こっちにきたのもいろいろやらかして逃げてきたんじゃないかって話で、間違いなくインチキ野郎です」
「よく知ってるわね」フレアは笑い出した。これなのでこの男に会う価値は十分にある。
「いろいろ、ムカつきましたから、調べました。しかし、奴に無理だとしたら、まだ後ろに誰か黒幕がいるってことですか?」
「そういうことになる……のかしら?」

 塔の地下区画はローズの錬金術工房と魔導書保管庫となっている。高位魔導師であると同時に錬金術師であるローズはそれらの危険性を十分に熟知している。そのため人気は少ないが、狩り場近いという立地の場所に厳重な防御を施した要塞を建設したのだが、結果は見てのとおりである。人々は臆することなく要塞の傍に住居を建てた。ローズ、帝都双方が読み違えたのは人々のしたたかさだろう。
「これが例の香水?」
 錬金術工房の巨大な実験台の上には二十本入りの箱とバラ八本霧吹きのついた緑の小瓶が置かれている。
「はい、エリオット様から格安で譲っていただきました」
「格安?抜け目のない男ね。まぁいいわ」
 ローズはその中の一本を手に取り、天井の照明にかざし中を透かし見た。それを繰り返し香水の選別を始めた。香水は二十六対二に分けられた。ローズは二本のうちの一本を手に取り再度内部を覗いた。
「見てなさい」そういうとローズは手にした香水を肩越しに後方へと軽く投げた。
 弧を描き飛んだ小瓶は床に落ちて砕け、中身は床へと広がった。辺りに薔薇もどきの芳香が立ち込める。二人はその光景を眺めていた。無言の時が過ぎ、何も起こらないのかと思った頃、突然床面が湧き立ち、それが速やかに歌劇場で見た半透明で薄緑の小型のモルボルへと変わった。それはローズへ触手を使い絡みついていく。
「思った通りね。ほっておきなさい。すぐに消えます」絡みつく触手を剥がそうとするフレアを制止した。
 その言葉通りモルボルは弾けて、緑の液体となり靄となり消えた。歌劇場で見た光景そのものの繰り返しである。
「コルセットやスカートはどうなってる?」
 フレアはローズが身につけているコルセットドレスの腰や尻、そして裾などを触り点検した。
「湿りも何もありません」
「匂いはどう?」
 コルセットの背に鼻を近づけてみた。
「香水の匂いだけです」
「でしょうね。これを御覧なさい」ローズはフレアに取り分けた残りの一本を手渡した。
「よく御覧なさい。中に黒く小さな影があるでしょ?」
 フレアがそう言われて瓶を覗き込むと、中に薄く黒い点が見つかった。それはピクピクと脈動すると少し移動した。
「ひっ!」驚いたフレアは瓶を取り落としそうになった。
「それが前に話したモルボルの吐息と共に吐き出される種のようなものね」ローズは声を出して笑った。「一緒に混ぜられているアルコールや油を養分にして生き延びて、瓶が壊れるか何かの衝撃で発芽して爆発的に成長、しかしその養分をすぐに使い果たし塵に帰る。そういうところね」
「狙った人に種入りの物を渡していた?」
「それはないわね。それならエリオットの客が巻き込まれるはずがないわ。彼が持っていた物はどうせ、誰かが盗んだか横流しでうまく手に入れたものでしょ」
「そうでしょうね」
「相手は選んでない。この香水が売られていたのは旧市街のいくつかの高級店。お客は貴族とお金持ち、当然被害を受けるのは?」
「貴族とお金持ち」
「それが貴族や金持ちばかりが被害を受けるという話の種明かしね。結局わたしを越える者なんて初めからいなかった。稀代の召喚士も存在しない」ローズは言葉を発するごとにいらだちを募らせていった。「いても、今回は関係なし。マーコットはいい加減な香水を売り、それが多くの騒ぎを巻き起こした。ただそれだけ」
「でも、なんでマーコットはそんな面倒な物を香水に混ぜたんでしょうね?」
「それは本人に聞きに行きましょう。居場所はわかってるわね?」
「はい、その情報はエリオット様がおまけに付けてくださいました」
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