伝説の男 第1話

文字数 4,036文字

 今夜から帝国歌劇場で始まった公演は「ビビアン・クアンベル生誕百二十年記念公演」である。歌劇場入り口には巨大な横断幕が揚げられ、場内の売店などでは記念の冊子や小物が売られ、食堂でも記念の献立が出されている。

 ローズとしては便乗商品には興味はないが芝居には惹かれる。フレアがまた「誰が駒鳥を殺したか」ですかという気持ちもわかる。前公演から大して時間が経っていない。だが、演者や脚本家や舞台監督などは前回と総入れ替えとなっているため、同じ演目であっても扱いは別物となって興味は湧いてくる。

 フレアが指摘する通りビビアン・クアンベルの芝居は珍しくはない。そして、前回の公演から一年も経っていない。それはローズもよくわかっている。だが、公演があるとなれば見たくなる。劇場側もわかっていて何かと理由をつけて人を集めたいのだ。

「百以上あるお芝居の中でなぜあの作品が選ばれたんでしょうね」

 芝居の帰り道、鉄馬車の上でフレアはいつになくローズへ質問を投げかけてくる。

「それは……」

 それについてはローズも考えを巡らせていた。

「まぁ、今回はお祭りのようなものだから、誰でも知っていそうな人気の作品、悲劇ではなく喜劇に絞る……としても十は候補を挙げられるわ」

「わたしはやらかした騎士が遠方に送られて、大人しくしているように命じられたのに事件に巻き込まれて、いやいやながら解決するお話がいいですね」

「それは「西方にて」ね。目立っちゃいけないのに頼られてしまう。しばらく観てないわね」

「あれは大笑いしましたね。気の毒には思ったけどだったけど」

「どれも僅差のはずなのよね」

「何が違ってるんでしょうね」

「あぁ……」ローズは軽くうめき声をあげた。「あのお芝居は唯一無二なのよ」

「どういうことですか?」

「喜劇仕立てにしてはいるけど、ビビアンが体験した事実に基づいて書かれたお話なの彼女にとっては大事なお話。特に秘密でもなく、彼女が晩年にそれを打ち明けているわ」

「へぇ……」

「わたしが彼女自身から聞いたのはそれよりずっと前のことだったけど……」

 興味を抱く人が現れれば塔へ招くか、その住処に出向くか。その行動はローズが帝都にやって来る前から変わらない。西から来たビビアン・クアンベルが活躍していたのはローズが帝都に居着いて百年経った頃だった。

 この頃になるとローズが帝都に訪れた当時を知る者はごく僅かしかおらず、誰もが帝都とローズが作り出した方便を鵜呑みにしていた。

 すなわち「アクシール・ローズなる吸血鬼はきわめて強大な力を有してはいるが、その力がこちらに向けられることはない。彼女の犠牲になるのはよそ者と呼ばれる類のはぐれ者であって我らが餌となる事はない」との弁である。

 ローズとの共生は帝都としては苦肉の策であったが、今では十分の価値はあったと思っている。彼女と本気で事を構えるならば多くの犠牲をだし、帝都が焦土と化す可能性もあったからだ。帝都の懸念は杞憂に終わり、彼らの方便によってローズは伝説の魔獣のように、噂には聞くがまずその脅威を目にすることのない存在へと変わっていた。

 ローズも特に何の策も取らず自由に行動していた。歌劇場でも雪のように白い肌の女が隣に座っていても気にする者はいなかった。当時の旧市街にはアクシール・ローズの名を知る者は多数いたが、その姿を知る者は僅かだった。鉄馬車、仮面、フード付きの外套などの彼女を象徴するような物品を身につけ始めたのはコバヤシとフレアが現れてからのことだ。それまでは人の中に潜み過ごしてきた。

 クアンベルもローズについての他の住人と認識は同様だった。最初の反応は有名な吸血鬼の名を騙り、無断で玄関口から部屋に入ってきた変な女だ。血を吸ったり与えるなどすれば一目瞭然なのだが、そうもいかない。彼女の作品の中にも吸血鬼が登場する戯曲はあった。白塗りの肌で黒髪の女だ。血を吸うわけではないが凶事を告げにやって来る。死に神のような役割だった。

「やはり、窓から入ってきた方がよかったですか」 ローズはクアンベルに問いかけた。

 そこは旧市街の集合住宅の二階でテーブルや寝台、かまど付近もきれいに片づけられている。窓もきれいに磨かれているが、書き物机の上は混沌としている。中央の一部が辛うじて盤面が露出しているだけで後は紙束や本が積まれている。机から滑り落ちたのか床も紙で覆われている。

 ビビアンは文字に覆われた紙が散らばる床の内側にいる。散らばる紙が障壁のようでローズは一歩も足を踏み入れることができなかった。ローズは紙で覆われた聖域の外で軽く浮かんでみたり、幻影を見せてみたりした。ビビアンはそれでようやくローズが噂の吸血鬼と同一の存在であることに納得をした。

 ビビアンは椅子から立ち上がり床の紙を飛び越え、ローズの傍にやって来た。髪は金色で背はそれほど高くない。きちんと成長を終えることができたフレアといった雰囲気か。彼女はテーブルに添えられた椅子をローズに勧めた。

 彼女はローズに対して幾分か恐怖を抱いてはいるが、それを遥かに上回るのが好奇心だ。噂に聞いている吸血鬼が向こうからやって来たのだ。今後のためにもいろいろと聞いておきたいと考えているようだ。

「何かわたしに聞きたいことはありますか」

 この時にローズが告げた答えは後のクアンベルの作品に大きく影響を与えたようだ。彼女が作り出す吸血鬼などの呪われた者からは死に神の色は消え、狂言回しの役割が強くなった。それについてはローズ自身も影響を受けているかもしれない。

「これまでのわたしは色々と幸運だったは思いますが、すべては祖父のおかげです。田舎娘が読み書きを覚え、芝居のことを知ったのも祖父のおかげなのです」

 話題はビビアンに移り、彼女は柔らかな笑みを浮かべた。

「祖父は仕事に役に立つからと使用人相手に塾を開いていました。読み書きを覚えることができれば立場の昇格もあったため塾は盛況でした。わたしも大人に混じり子供ながらそこで勉強をしていました。そのままならわたしも家業の手伝いに参加していたのでしょうが、使っていた教材に変わった本が混じり込んでいました。オーラ・フリント「東方探検記」の台本です」

「おそらく、それは何十年も前の物なのでしょうね。わたしはその頃はまだ帝都とは折り合いは悪くて公演は見ていないわ」とローズ。

「祖父は先代の曽祖父マティアスと一緒に帝都を訪ねた時の土産の一つだと言っていました。帝都には芝居専用の大きな建物があるのだと聞きました。わたしが見てみたいというと「それならまず知恵をつけなさい。知恵がないとまともに世間を歩くこともできないからね」と言われました」

「よいお考えですね。知恵がないと楽しみも半減してしまいます。ちょっとした洒落を読み解くにも教養が必要となります」

「はい、それはわたしもこちらに来て痛感すると同時に強い刺激になっています」

「そのおじい様は今どうしてらっしゃるのですか」

 それは答えを聞くまでもなくわかった。表情が曇り意識を読むまでもない。

「いまはもういません。今年で亡くなって十五年になります。祖父は反対する両親を説き伏せて、学費やこちらでの生活の援助もしてくれました。こちらに来るときにはオキシデンの港まで来て見送ってくれました。その時が元気な祖父の姿を見た最後の姿になってしまいました。せめて脚本を任されるようになったことを報告したかったのですが間に合いませんでした」

「それは残念でしたね」

「はい、でも帝都に行くと決めた時にはその覚悟が必要だったのでしょう。近々法要のために帰郷します。その際に墓前で近況を報告……するのもよいでしょうね」

 ビビアンは何か思いついたようだ。その相手にはこの初対面の吸血鬼が都合がよいと考えた。ビビアンは黙り込んだがローズはあえて何もしないでいた。ややあって、ビビアンは決心をつけゆっくりと口を開いた。

「祖父は誰もが認める立派な人でした。その反面謎も多い人でもありました。いわゆる流れ者でクアンベル家の人間ではないのです。若い頃にやって来て曾祖父に認められやがてクアンベル家に祖母の婿として入ってきました」

 ビビアンは立ち上がり書き物机に戻った。

「祖父の婿入りには最初こそもめたそうですが、すぐに落ち着いたそうです。当の張本人の祖母にも異論はなくむしろ大歓迎だったようです」

 机の引き出しの一つから封書を取り出した。それを持ちテーブルへと戻ってきた。

「それが今になって何かおかしなことになっているのかもしれません」

 テーブルに置かれた封筒の宛名はビビアンに向けてある。力強い文字だが少し子供っぽくもある。中身を取り出しテーブルに広げた。



ビビアン様へ

ビビアン様もシルヴァン様の十五周忌に参加されるのでしょうか。それでしたら今後のためお話したいことが多くございます。シルヴァン様の過去について私共の考えをお伝えしたいと思います。

では、ブルドゥルでお待ちしております、良い旅を。



「心当たりは?」とローズ。

「クアンベル家をよく知っていそうななので使用人か近しい村の人でしょうか。それ以外はわかりません。祖父の何を話そうというのか。それも疑問です。おかしなことが起こらなければいいのですが」

「不安ですか」

「はい、ですが何があっても受け止めるつもりです」



「予定通り、彼女は実家に帰っていった。わたしが行かなくても彼女は帰ったでしょう」

 ローズは客車にもたれ夜空を見上げた。

「でも、初対面のわたしに手紙のことを話すことで揺れる思いが落ち着いたようだった。縁もゆかりもない吸血鬼だったからこそ話せたのかもしれないわね」

「教会でのざんげのようのものですか」とフレア。

「……それは違うと思うわ、それにそんな柄でもないし」
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