第6話
文字数 3,341文字
マクラタは平静を装い重なられた盆の一つを取り上げ、まだ温かいパンや料理が並べられたテーブルへと向かった。すぐ後ろに男が並んだことを感じ取ったが、気に留めていない体で料理を物色する。
「さっきの女は何者だ?」男が横に並んだ。手にしたトングで酢漬けを皿に盛りつつ、声を潜めて話しかけてきた。
「わたしの姿を見たそうよ。あのお屋敷でね」マクラタは左手のパンから目を離さず答えた。
「面倒はないか?」
「今のところはね」
「後で俺の部屋に来てくれ」それだけ告げると男はマクラタの傍から去って行った。
ハンナの姿で食堂を出たファンタマは、すぐに身に纏っているアラサラウスを周囲に同化させ姿を消した。そしてマクラタの傍へと戻り彼女の監視を始めた。
「マクラタが隣に来た男と言葉を交わした。話は距離があったのでよく聞き取れなかったがね」とファンタマ。
「ハンナを向かわせるわ」頭蓋にアボットの落ち着いた声が響く。「あなたも引き続き監視をお願い」
「了解」
「仰せの通りに」 ハンナの声が響いた。
マクラタと男はそれ以上言葉を交わすことなく離れた場所で食事を終え、別々に食堂から去って行った。ハンナは男をファンタマはマクラタの尾行を担当した。彼女を追い始めてすぐに男が部屋に戻ったとハンナの連絡が入った。部屋がわかればこちらのものだ。男の居場所がわかったことでアボットはファンタマに女をもう一度揺さぶっておくように頼んできた。
「任せてくれ」
ファンタマはマクラタが階段室に消えるのを待った後、姿をネネに変えマクラタの後を追った。靴音を響かせマクラタの注意を引く。靴音を耳にしたマクラタは踊り場で立ち止まり振り向き、そのまま凍りついた。マクラタは無言で自分の横を通り過ぎる夜会服姿のネネに視線を据えたまま、二階の階段室から出るまで見送った。
廊下へと出たファンタマは男の客室係に姿を変え、折り返し一階へと階段を下りて行った。マクラタはまだ動かず踊り場にいた。
「お客様、どうかされましたか?」ファンタマはマクラタに声を掛けてみた。
「あぁ……」マクラタは視線を泳がせ、ややあって「女の人……を見かけなかったかしら」
「どちらででしょうか?」
「あなたが入ってきた二階の廊下で……」
「さぁ、わたしはどなたも見かけませんでしたが……おそらく、その方は三階へ行かれたのではないですか」穏やかに微笑みかける。
「そっ、そうよね。ありがとう」
マクラタは一度頷くと階段を駆け上がり二階の廊下へと出て行った。
「よい一日を」
ファンタマは姿を消したマクラタに声を掛けた。
再び、周囲と同化し姿を消したファンタマはマクラタの後を追った。彼女は二階の廊下を進み、端から二番目の部屋の前で止まり周囲を窺う。扉を数度叩くとほどなく静かに扉が開いた。扉の向こうには男が立っていた。食堂でマクラタに話しかけていた男だ。この部屋で間違いないようだ。
「食堂の男で間違いない」アボットに告げる。
マクラタは男の姿を目にするとすぐさま彼の胸に飛び込んだ。そして強く抱きしめた。男もそれに応じ彼女の背に手を回す。ファンタマはその隙に抱き合う二人の傍をすり抜け室内へと入った。
男はマクラタより頭半分ほど背が高い。黒く若干癖のある髪は細い革紐で後頭部でまとめている。彫の深い顔で目鼻立ちが実にくっきりとしている。男はマクラタを抱いたまま中に引き込み扉を閉めた。
男は抱擁を解くと奥へと歩を進めた。
「ラカワ、いつまで隠れて会わないといけないの?」マクラタは男の背に向け問いかける。
「商談が済むまで我慢してくれ」この問いには何度も答えているのだろう。声音に苛立ちが混じっている。 「あの首飾りはそう簡単に捌ける品じゃないんだ。買い手もごく限られてる。それは何度も言っているだろう」
ラカワは窓辺に置いてある椅子に腰を掛けた。まだ扉の傍にいるマクラタを呼び寄せた。
「食い付いてきた客がいるんだ。うまくやれば莫大な金が入る」
この表現は正しくない。釣り人はアボットであり、彼らは釣られた獲物だ。今は獲物を慎重に手元へ引き寄せている段階だ。
「こんな面倒な立ち回りをしているのは、何度も言っているように用心のためだ。新聞にも出ていたように幻の一品なんだ。あの事件に関しては捜査局も動いている。先方が回りくどいことをするのもそのせいだよ。ここで商談を反故にされたら目も当てられない」
「もっと簡単にならないの?」
「前にも言ったように買い叩かれてもいいならな」
「……それはね」
「それなら黙って俺のいう事を聞いてくれ。あともう少しなんだ。わかったな」
「えぇ……」
面白い。二人の仲は良好でもこの取引に関しては幾分かの温度差が生じているらしい。つけ入る隙は十分にある。
「ところでユミ、さっきの女は何者だったんだ」
「さっきの……女って」マクラタは動揺し言葉を詰まらせた。
「……食堂でお前に話しかけてた女だよ。舞踏会で一緒だったとか」
「あぁ、彼女の事ね」マクラタは安堵の息を吐いた。「彼女もあの屋敷で働いていただけの事よ」
「お前、何か隠してないか?」 ラカワは訝しげに目を細めた。
「何も隠してなんかいないわ。とっさに誰の事かわからなかっただけ、それだけよ」
正確にはどちらの女の事だろう。さっきと言われてマクラタの意識にはネネの姿が先に浮かんだに違いない。昨夜からの小芝居の効果は出ているようだ。
「それならいいんだが、どうしてそんな女がここにいるんだ。仕事はどうした?」
「自分が彼女をネネを助けたのに……逆に立場が悪くなって、気分が悪くなって辞めたとか言っていたわね」
「辞めた理屈は通っても、ここにいる理由にはならないな」
「……それもそうね、無視した方がいい?」
「それが無難だろうな。だが、無理に追い払って目立つような真似はやめた方いい。どこで誰が見ているかわからないからな」
「そうするわ」
「商談までは休暇旅行を楽しみに来た宿泊客を装う必要がある」
以後、ラカワはマクラタを簡単な打ち合わせを済ませただけで、マクラタを部屋から送り出した。ファンタマは侵入時と同様にラカワが扉を開けた際にすり抜け外へ出た。別れ際も彼らが抱擁を交わしていたため十分な時間を稼ぐことが出来た。二人は未来に甘い期待を持っているようだが、それはやって来ることはないだろう。アボットのような魔導師の怒りを買うような真似をしたのが運の尽きだ。
ファンタマがラカワの部屋での仕事を終え、フェイトンの姿でアボットの元へ訪れると、そこには茶を飲むアボットと床に転がるウセロがいた。 傍にはハンナが控えている。
「よく寝てるわ。それだけよ」アボットは床に転がるウセロを見下ろして言った。
「この首飾りもよく出来ているわ」アボットが指差した先のテーブルには例の紛い物が置かれている。「誰が作ったのか調べておかないとね」 眉間に皺が入る。
決して褒めているわけではない。偽物を作った職人の今後の無事を祈るのみだ。
「だろ、こいつの失敗はこの首飾りをあんたに使おうとした事さ」
「まぁ、これはお詫びの品として貰っておくとして」とファンタマ。「こいつの扱いはどうするつもりだい?」
「ハンナに任せて彼女たちの世界に置いてもらうつもりよ。ここじゃ隠しておく場所もないから」
「なるほど、それなら下手に騒がれることもないな」ファンタマはアボットに向かい頷いた。
「これで次の段階に余裕を持ってかかることが出来るよ」
「どうするつもりか聞かせてもらいましょうか」 とアボット。
「鎖は弱い環から切れると聞いたことがある。それを実践してみようと思う。狙うのはマクラタの方だ。ネネと一緒に追いつめてみるよ」
「いいわね」アボットの口角が上がる。
「それからラカワの部屋を調べるのにあいつを外に連れ出す必要がある。それを手伝って欲しい。二人で外に呼び出してもらえないか」
「お安い御用よ」
「ついでにその首飾りを貸してもらえないか、罠に使えそうだ」
「どうぞ、ご自由に」
アボットが手を軽く動かすと、テーブルから浮き上がった首飾りがファンタマに向かって飛んだ。
「さっきの女は何者だ?」男が横に並んだ。手にしたトングで酢漬けを皿に盛りつつ、声を潜めて話しかけてきた。
「わたしの姿を見たそうよ。あのお屋敷でね」マクラタは左手のパンから目を離さず答えた。
「面倒はないか?」
「今のところはね」
「後で俺の部屋に来てくれ」それだけ告げると男はマクラタの傍から去って行った。
ハンナの姿で食堂を出たファンタマは、すぐに身に纏っているアラサラウスを周囲に同化させ姿を消した。そしてマクラタの傍へと戻り彼女の監視を始めた。
「マクラタが隣に来た男と言葉を交わした。話は距離があったのでよく聞き取れなかったがね」とファンタマ。
「ハンナを向かわせるわ」頭蓋にアボットの落ち着いた声が響く。「あなたも引き続き監視をお願い」
「了解」
「仰せの通りに」 ハンナの声が響いた。
マクラタと男はそれ以上言葉を交わすことなく離れた場所で食事を終え、別々に食堂から去って行った。ハンナは男をファンタマはマクラタの尾行を担当した。彼女を追い始めてすぐに男が部屋に戻ったとハンナの連絡が入った。部屋がわかればこちらのものだ。男の居場所がわかったことでアボットはファンタマに女をもう一度揺さぶっておくように頼んできた。
「任せてくれ」
ファンタマはマクラタが階段室に消えるのを待った後、姿をネネに変えマクラタの後を追った。靴音を響かせマクラタの注意を引く。靴音を耳にしたマクラタは踊り場で立ち止まり振り向き、そのまま凍りついた。マクラタは無言で自分の横を通り過ぎる夜会服姿のネネに視線を据えたまま、二階の階段室から出るまで見送った。
廊下へと出たファンタマは男の客室係に姿を変え、折り返し一階へと階段を下りて行った。マクラタはまだ動かず踊り場にいた。
「お客様、どうかされましたか?」ファンタマはマクラタに声を掛けてみた。
「あぁ……」マクラタは視線を泳がせ、ややあって「女の人……を見かけなかったかしら」
「どちらででしょうか?」
「あなたが入ってきた二階の廊下で……」
「さぁ、わたしはどなたも見かけませんでしたが……おそらく、その方は三階へ行かれたのではないですか」穏やかに微笑みかける。
「そっ、そうよね。ありがとう」
マクラタは一度頷くと階段を駆け上がり二階の廊下へと出て行った。
「よい一日を」
ファンタマは姿を消したマクラタに声を掛けた。
再び、周囲と同化し姿を消したファンタマはマクラタの後を追った。彼女は二階の廊下を進み、端から二番目の部屋の前で止まり周囲を窺う。扉を数度叩くとほどなく静かに扉が開いた。扉の向こうには男が立っていた。食堂でマクラタに話しかけていた男だ。この部屋で間違いないようだ。
「食堂の男で間違いない」アボットに告げる。
マクラタは男の姿を目にするとすぐさま彼の胸に飛び込んだ。そして強く抱きしめた。男もそれに応じ彼女の背に手を回す。ファンタマはその隙に抱き合う二人の傍をすり抜け室内へと入った。
男はマクラタより頭半分ほど背が高い。黒く若干癖のある髪は細い革紐で後頭部でまとめている。彫の深い顔で目鼻立ちが実にくっきりとしている。男はマクラタを抱いたまま中に引き込み扉を閉めた。
男は抱擁を解くと奥へと歩を進めた。
「ラカワ、いつまで隠れて会わないといけないの?」マクラタは男の背に向け問いかける。
「商談が済むまで我慢してくれ」この問いには何度も答えているのだろう。声音に苛立ちが混じっている。 「あの首飾りはそう簡単に捌ける品じゃないんだ。買い手もごく限られてる。それは何度も言っているだろう」
ラカワは窓辺に置いてある椅子に腰を掛けた。まだ扉の傍にいるマクラタを呼び寄せた。
「食い付いてきた客がいるんだ。うまくやれば莫大な金が入る」
この表現は正しくない。釣り人はアボットであり、彼らは釣られた獲物だ。今は獲物を慎重に手元へ引き寄せている段階だ。
「こんな面倒な立ち回りをしているのは、何度も言っているように用心のためだ。新聞にも出ていたように幻の一品なんだ。あの事件に関しては捜査局も動いている。先方が回りくどいことをするのもそのせいだよ。ここで商談を反故にされたら目も当てられない」
「もっと簡単にならないの?」
「前にも言ったように買い叩かれてもいいならな」
「……それはね」
「それなら黙って俺のいう事を聞いてくれ。あともう少しなんだ。わかったな」
「えぇ……」
面白い。二人の仲は良好でもこの取引に関しては幾分かの温度差が生じているらしい。つけ入る隙は十分にある。
「ところでユミ、さっきの女は何者だったんだ」
「さっきの……女って」マクラタは動揺し言葉を詰まらせた。
「……食堂でお前に話しかけてた女だよ。舞踏会で一緒だったとか」
「あぁ、彼女の事ね」マクラタは安堵の息を吐いた。「彼女もあの屋敷で働いていただけの事よ」
「お前、何か隠してないか?」 ラカワは訝しげに目を細めた。
「何も隠してなんかいないわ。とっさに誰の事かわからなかっただけ、それだけよ」
正確にはどちらの女の事だろう。さっきと言われてマクラタの意識にはネネの姿が先に浮かんだに違いない。昨夜からの小芝居の効果は出ているようだ。
「それならいいんだが、どうしてそんな女がここにいるんだ。仕事はどうした?」
「自分が彼女をネネを助けたのに……逆に立場が悪くなって、気分が悪くなって辞めたとか言っていたわね」
「辞めた理屈は通っても、ここにいる理由にはならないな」
「……それもそうね、無視した方がいい?」
「それが無難だろうな。だが、無理に追い払って目立つような真似はやめた方いい。どこで誰が見ているかわからないからな」
「そうするわ」
「商談までは休暇旅行を楽しみに来た宿泊客を装う必要がある」
以後、ラカワはマクラタを簡単な打ち合わせを済ませただけで、マクラタを部屋から送り出した。ファンタマは侵入時と同様にラカワが扉を開けた際にすり抜け外へ出た。別れ際も彼らが抱擁を交わしていたため十分な時間を稼ぐことが出来た。二人は未来に甘い期待を持っているようだが、それはやって来ることはないだろう。アボットのような魔導師の怒りを買うような真似をしたのが運の尽きだ。
ファンタマがラカワの部屋での仕事を終え、フェイトンの姿でアボットの元へ訪れると、そこには茶を飲むアボットと床に転がるウセロがいた。 傍にはハンナが控えている。
「よく寝てるわ。それだけよ」アボットは床に転がるウセロを見下ろして言った。
「この首飾りもよく出来ているわ」アボットが指差した先のテーブルには例の紛い物が置かれている。「誰が作ったのか調べておかないとね」 眉間に皺が入る。
決して褒めているわけではない。偽物を作った職人の今後の無事を祈るのみだ。
「だろ、こいつの失敗はこの首飾りをあんたに使おうとした事さ」
「まぁ、これはお詫びの品として貰っておくとして」とファンタマ。「こいつの扱いはどうするつもりだい?」
「ハンナに任せて彼女たちの世界に置いてもらうつもりよ。ここじゃ隠しておく場所もないから」
「なるほど、それなら下手に騒がれることもないな」ファンタマはアボットに向かい頷いた。
「これで次の段階に余裕を持ってかかることが出来るよ」
「どうするつもりか聞かせてもらいましょうか」 とアボット。
「鎖は弱い環から切れると聞いたことがある。それを実践してみようと思う。狙うのはマクラタの方だ。ネネと一緒に追いつめてみるよ」
「いいわね」アボットの口角が上がる。
「それからラカワの部屋を調べるのにあいつを外に連れ出す必要がある。それを手伝って欲しい。二人で外に呼び出してもらえないか」
「お安い御用よ」
「ついでにその首飾りを貸してもらえないか、罠に使えそうだ」
「どうぞ、ご自由に」
アボットが手を軽く動かすと、テーブルから浮き上がった首飾りがファンタマに向かって飛んだ。