第6話

文字数 5,213文字

 あの方は記憶はまだ戻らないようだが、力は徐々に戻ってきているようだ。頭の中を少しのぞいただけでこちらの気配に気づいた。見つからなかったのは壁に同化して隠れているということまで知恵が回らなかった過ぎない。このまま記憶が戻らないまま力を取り戻したなら、面倒なことになりかねない。混乱し力を暴走ということになれば、とても制御することはできないだろう。今のおだやかなルリ姫様でいるうちに事を動かさないとならない。相手は言葉一つで自分を制することができるのだから。
 アイリーンは壁から人型に戻り、姿を男性看護師に変え中庭へと出て行った。

 丸屋根の小屋、その小さな石造りの建物の中には、地下に続く階段があるのみで、他には何も置かれていない。窓もなく陽光も入り込むことはないが、どういう仕掛けなのかわらないが、室内は光で満たされている。壁自体が光を発しているのだ。階段を降りた先では重厚な扉の前に二人の警備員が控えていた。彼らの立ち会いの元、わたしは扉を解錠し内部へ進入する。内部は妙なローブを纏った者達が忙しそうに働いていた。わたしも同じローブを身に着替え、更に深層へと向かう。
 何度か同様の扉を越え最深部へと到着した。そこは他の部屋より少し室温が低く、光も落とされていた。中央に広い通路があり、その両側に背の高い円筒形の水槽が一列並んでいる。中で寝ころぶには窮屈だろうが、立ち泳ぎで浮かべば余裕がある程度の大きさだ。水槽の多くは空か巨大な魚卵を思わせる物体が中に浮かんでいる。その中に異質の存在が一つあった。わたしはその前に立ち止まる。水槽の中に浮かんでいるのは一糸まとわぬ裸の若い女性。彼女は眼を閉じ、まるで眠っているように見える。その容姿はあの若い女看護師そのものだった。

 奇妙な展開の夢にも関わらず、ルリは全てを自然に受け入れることができた。水槽に浮かぶ若い女性の容姿についても驚くことはなかった。現実が夢に影響を与えたわけではないと確信している。では、彼女は何者か?人は女の腹から生まれ、そして育つもの。巨大な水槽で作られるものではない。そして、それが封筒を届けに来るなど常軌を逸している。封筒の差出人ロマン・フェルとは何者か。自分の何を知っているというのか。
 ルリは悪夢にうなされることはなくなったが、昼食後の散歩は夢に関する考察の時間となってしまい、以前ほど楽しめなくなっている。自分が何者なのか?それが以前にまして気になる。毎夜訪れる夢の世界が自分の創作によるものなら、それはそれで楽しめる。しかし、ルリとしてはあの夢は過去のある時点での記憶の再現のように思えてならない。
 思い悩んでも解決することはない。彼女は静かに待つことにした。
 だが、待つ暇などなくその時は訪れた。先日も体験した奇妙な刺激、誰かに頭の中を覗かれている。そんな感覚に再度陥った。それを頭から振り払い辺りを窺った。落ち葉を払う掃除婦や行き交う療養所職員、散歩する患者の向こう側にあの看護師が立っていた。
 今日はルリと目があっても彼女は立ち去ることなく、その場にとどまっている。ルリは椅子から立ち上がり看護師の元へと向かった。
「こんにちは。もうずいぶん御力が戻って来たようですね」近づいてきたルリに看護師は微笑みを浮かべた。「わたしに気づいたばかりではなく、その力まで振り払った」
「あなたは何者です?わたしのことをよく知っているようね」
「わたしはアイリーン。この名前はあなたから頂きました。少し歩きませんか?」
 アイリーンは東病棟の裏に向かい歩き出す。ルリもそれに続いた。
 しばらく黙りこんでいたアイリーンは病棟の裏側まで来てようやく口を開いた。
「わたしはあなたの娘です。といっても、あなたがその腹を痛めたわけではないことはおわかりですよね。あなたがわたしをこの世界に呼び、その力と英知を持ってこの姿を与えた。あなたのことをまたお母様と呼んでもいいですか?」
「それは……」
「そうですか。では今はまだやめておきましょう」
 ルリの脳裏に夢の光景が浮かんでくる。巨大な水槽に裸で浮かぶ彼女の姿。厳重な管理が敷かれた地下施設、広大な建物群。
「あなたを破壊神と呼ぶ者もいた。しかし、それはあなたの力に嫉妬する者の戯言にすぎず、むしろ創造主という表現の方が適切でしょう。あの何もない砂漠のほとりに楽園を作り上げたのですから」
「楽園?あの白い宮殿のこと?」
「宮殿……、そうですね。あそこはあなたの宮殿、そして研究施設でした」
「どういう研究?」
「新たな生命を生み出す研究です。その過程でわたしが作り出されました。まだ、既存の生き物の改編や掛け合わせまでで無からの生成には成功していません」
「なるほど、わたしのことをよく知っているのはわかったけど、あなたはわたしにどんな用があるの?なにがしたいの?」
「わたしもつい最近まで眠っておりました。目覚めてみればこの世界は様変わりしていました。ようやく探し出したあなたは過去をまだ思い出せない様子、それにもかかわらず力の方は回復傾向です。今の状態では不意の暴走もあり得ます。そろそろここから出ていく時期だと思われます」
「あなたはわたしをここから連れ出したい?」
「はい、可能な限り穏便に済ませたいと持っています。わたしにはそのお手伝いができます」
「わたしが嫌だと言ったら?」
「もちろん、わたしはそれに逆らうようなことはしません。ですが、もし興味を持っていただけたなら、以前お渡ししたイヤリングを介して連絡してください。お待ちしています」
 そこで立ち去ろうとしたアイリーンにルリは最後の質問を投げかけた。
「そういえば、ロマン・フェルというのは何者?」
「ああ、彼はわたしに帝都で行動するための姿をもたらした協力者です」
 アイリーンは頭を下げ礼をした後、来た道を戻っていった。ルリはそのまま歩き休憩中のヨシ達とすこし談笑した後部屋へと戻った。

 その日の夜ルリはアイリーンから渡された後、放置していた封筒を家具の引き出しから取り出した。
 イヤリングを介してと言われて、最初に思い出したのは封筒に入っていた簡素なつくりのイヤリングである。涙型の黄色い石が耳への留め具に輪一つで繋がれているだけの意匠で、封筒を受け取り中身を確認したとは放置していた。
 アイリーンの言葉の意味は今一つ理解できなかったが、ルリはそれを耳に着けてみることにした。意識が何かと接触する刺激を感じたため、すぐに外そうかと考えたが少し様子を見ることにした。無音ではあるが何かと繋がった感触もつかの間、ルリの頭蓋内に女の声が入り込んできた。
「こんばんは、お待ちしておりました」
 突然の声にルリは声をあげそうになった。周囲を見回すが人の気配はない。
「この声はイヤリングを介してあなたの頭の中に届けています。まわりに漏れることはありません」
 少し歪んでいるが、アイリーンと名乗った女の声に間違いないようだ。
「わたしの声が聞こえていたら頬を指で軽く叩いてください」
 ルリは人差し指で頬骨のあたりを軽く二回叩いてみた。
「わかりました。では、わたしの提案を検討の余地ありとしていただいたと理解していいですね?」
 ルリは頬を軽く二回叩いた。
「はい、では説明にはいらせていただきます」

 アイリーンの説明による療養所からの脱出手順は驚くほど単純なものだった。
 昼食後、いつものように散歩に出て、療養所裏手の通用口に止めてある馬車に乗車し、そのまま立ち去る。だた、それだけだ。細かな指示はイヤリングで送るとのことだった。
 翌日ルリは昼食を済ませ、いつも通り中庭へと降りた。そして椅子に座りアイリーンからの連絡を待つ。目の前の光景はいつもと変わらない。人々がそれぞれの理由を持って行きかう。特に強い繋がりがあるわけではないが、この眺めの中から去ってしまうことをルリは少し惜しく感じた。
 妙な感慨に浸りつつ待つこと四半刻ほどアイリーンが接触してきた。
「そろそろ、裏口に向かってください。急がず歩いてきてください。途中で誰かに声を掛けられても極力挨拶程度に済ませてください」
 ルリは立ちあがってから頬を二度指で叩き、裏手に向かい歩き出した。
「無人の裏口に馬車だけが止められているはずです。その馬車に乗車してください。もしそこに療養所の関係者がいるようなら計画は中止です。散歩を続けて部屋まで戻ってください」
 ルリは再び頬を叩いた。
 病棟の角で少し振りむき、後ろの様子を確認してみたが、ルリの行方に関心を持っている者はいないようだ。努めて落ちついた足取りで裏手の通路へと向かう。通路は今日も人気はない、感じられるのは木々の間を駆け回る小動物の気配のみ。
 何事もなく進み、裏口は間近となった。裏口に誰もいないなどあるのだろうかと、いぶかしむルリだったが、確かに無人の通用口に幌付きの馬車が止めてあった。ここには警備員が常に二人は配置されているはずだが、どういうことなのか。そちらの方が気になった。
「その馬車です。乗ってください」イヤリング越しにアイリーンの声は聞こえるが姿は見えない。
 ルリに気が付いた御者が帽子を取り、軽く会釈をする。ルリが客車に乗り込み座席に座った時、長身で灰色の髪の男が一人乗り込んできた。身なりは良く見舞客に紛れてもわからないだろう。
「ロマン・フェルです。お見知りおきを」フェルはルリに対し恭しく頭を下げた。
「あなたが例の歴史学者、アイリーンはどうしたの?」
「わたしは後で駆けつけます。あなたは彼と出発してください」間髪入れずアイリーンの声頭蓋内に響く。
「出してくれ」フェルは静かに告げた。
「へい」
 フェルの声に応じた御者は特に急ぐ様子もなく馬に鞭を入れた。

 魔導騎士団特化隊隊長フィル・オ・ウィンが、旧市街外れの療養所に収容されていた女の失踪に関しての報を受けたのは、昼下がりのお茶の時間だった。いなくなったのは錬金術師モーテン・ブロックの研究所で発見され、ルリと名付けられた女である。療養所からフィックスの一報に彼は口の中の茶を机の上にぶちまけそうになった。
 武装集団に攻め込まれ、拉致されたというわけではなく、彼女が歩いて出て行った可能性が高いとのことだ。
 事が発覚したのは療養所の昼食、休憩時間が終わってから少しした頃のことである。
 ルリが病室への帰りがいつもより遅いことにフィックスは軽い不審を抱いた。彼は帝都より派遣された警備隊士や施設の警備員にルリの所在の確認を求めた。
 その一環でルリの部屋に入った女性隊士が家具の引き出しの中から、療養所から去ることを告げる彼女からの書き置きと、歴史学者を名乗る人物の署名が入った封筒が発見された。双方の筆跡はまったく異なるため別人と考えられる。二人の関係がどうであれ、ルリが療養所から姿を消したのは自身の意思によるものと推測された。
 ルリは療養所内であれば一部の区画を除き制限なく歩きまわることができた。それを逆手に取られた形となったが、事はそれ程単純ではなさそうだ。計画は周到で協力者も多数いるとみられることがフィックスの報告で明らかになってきた。
 今日の昼間、療養所裏手の通用門が僅かな間ではあるが無人の時間帯があったようだ。ルリとその協力者はその隙を狙って外に出て行った。二人いた通用口警備担当の一人は旧市街から派遣された隊士で、彼は上司から急の呼び出しを受け、相棒である施設の警備員のその旨告げた上で席を外した。
 施設の警備員は休憩のための交代要員が思いのほか早くやって来たため、まだ早い時間ではあったが通用口を去ったという。
 通用口が無人であることを発見したのは正式な交代要員である。しかし、彼はそれを大きく捉えずルリが去り、施設挙げての大騒ぎになるまでそれを報告することはなかった。派遣された隊士を呼び出したはずの上司は、施設の空き部屋で昏倒している状態で発見され、早めに来た交代要員は本来休日で出勤していない人物で、自宅にいたことが確認された。このことから一連の騒ぎには声色や変装に長けた人物が関わっていると思われる。
 今わかっていることはこれだけだ。オ・ウィンはフィックスに引き続き、ルリと協力者の行方を追うことを命じた。そしてこちらはロマン・フェルなる歴史学者の元に赴くべく段取りをつけることにした。
「最近、ローズがおとなしくしていると思えば、別の女が面倒を起こすときたか、面倒程度で済ませてくれれば幸いだが……」オ・ウィンは一人ため息をついた。
 オ・ウィンは食べ残しのパイを冷めた茶で喉の流し込んだ。現場に出ることはなくとも忙しくなりそうだ。
 
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