第4話

文字数 3,902文字

 アイリーンが倉庫に帰宅してほどなくパーシコスは目を覚ました。正確にはホワイトが眠りを解いたというのが正しいだろう。彼は目を開けるとすばやく体を起こし、頭を振って周囲を伺った。立ち上がろうとしたが、軽いめまいに襲われたらしく右手で顔を押さえ、左手を体の脇についた。数日間食事を口にしていないための体調不良と記憶の混乱におそわれているようだ。状況を察することに必死になっているが、情報が乏しく抜けた隙間が大きすぎて収拾がつかない。

 通常なら死を免れない傷を負い、数日間床に伏していたのだから無理もない。なぜ目の前に二人の女がいるのか。どのような成り行きで床に伏しているのか。皆目見当もつかないようだが、とりあえず追手からは逃げ延びたことに安堵した。落としどころをそこに決め気を落ち着けることにしたらしい。

「ここはどこだ?」 パーシコスは寝台から二人を見上げ尋ねた。

「我ら母娘の住処だ。害になる者はおらん。安心するといい」

 ホワイトとアイリーンの派手な身なりと横柄な物言いから裕福な家庭に匿われたかと考えを巡らせる。

「……俺はどうしてここにいる。追手はいなかったか?」 問いから強い警戒心がにじみ出ている。

「娘のアイリーンがな」ホワイトは寝台の脇に立つアイリーンを手で示した。「通りに倒れているお前を見つけて連れ帰ったのだ。傍には誰もおらなかったそうだ。治療は済ませてあるが二、三日は動きに不自由はあろう。ゆっくりしておれ」

 パーシコスの脳裏に路上に倒れる時の記憶が蘇る。矢の毒が回り体が麻痺し動きが取れなくなった。刺客が手にする短剣の刃が胸に突き刺さる。あれは思い違いだったか。パーシコスは慌てて寝間着の上着を裾からまくり上げた。肋骨の上乳首の傍に治癒した傷の盛り上がりがあった。

「受けた傷は塞いでおいた。跡もきれいに消しておきたかったがそこまでやると、お前が人ではなくなってしまいそうでやめておいた。そこまでで精いっぱいだ。許してくれ」とアイリーン。

「いや、助かった、ありがとう」言葉の意味が今一つ呑み込めないままパーシコスはアイリーンは礼を言った。

 傷がここまで回復するとなるといったいどれぐらいの間眠っていたのか。パーシコスの意識に焦燥が走る。パーシコスの意思が言葉にして発しているかのように明確にホワイトに伝わってくる。

「眠っていたのは三日ほどだ。心配するな」とホワイト。
 
「アイリーンは特別な治療法を身に着けておってな。察するように魔法が関わっておる。そのため使い過ぎると精霊による障りが出かねない。呪いを知っておるだろう。薬も度が過ぎれば毒となる。それと似たようなものだ」

「なるほど……」

 パーシコスはとりあえず治療の原理については納得したようだ。力を使い落ち着かせる必要はなさそうだ。次は何か。

「ありがたいが、こうしてはおれん。ヴァルヤネン様の元に行かねば、御身に危険が迫っていることをお知られせねば……」

 パーシコスは寝台から立ち上がったが、ホワイトに肩を軽く押されただけでふらつき座り込んだ。

「そんな体でどこへ行くつもりだ。女の力にも抗えんほどに弱っておるのだぞ。その御仁の居場所はわかっているのか?」

 いよいよヴァルヤネンの名が出たところでホワイトはパーシコスの意識をのぞき込んでみた。

「……いや、わからない」

 言葉に嘘はない。隠し事もない。本当にパーシコスもヴァルヤネンの居場所は知らなかった。知っているのは行動計画だ。彼の主人ヴァルヤネンはマラトーナに出場し、その後で帝都の商工会と商談を持つ予定だ。所領で産する毛織物の売り込むためだ。パーシコスにしてもヴァルヤネンを探し出す方法といえば、街の宿を訪ね回るつもりだったようだ。それではこちらと変わらない。宿ならアイリーンが散々訪ね歩いている。

 アイリーンに目をやると彼女にも落胆の色が見えた。ヴァルヤネンの居所が掴めると思っていた。しかし、皮肉なことに判明したのはこちらの方がまだいくらか先行しているという事実だ。

「これも何かの縁だ。お前の主人ヴァルヤネン殿の探し出すのはこちらも協力しよう。頼りになる知り合いもおる。そちらに相談してみよう」

「……」パーシコスは無言で頷いた。

「では、まず何か食べるとよい。ヴァルヤネン殿を守るにしてもお前の体を元に戻さん限りどうにもならん」

 ホワイトは頷きアイリーンに目をやった。

「はい」

 ほどなくアイリーンが湯気の立つ鉢と匙が載った盆を階下から上がって来た。

「麦の粥だ。大してうまくもないかもしれんが、お前は数日何も食べず寝ていた身だ。まず腹に入れるのこれがいいだろう」

 パーシコスはアイリーンに渡された熱い粥をホワイトの説明もそこそこに食べ始めた。軽く塩を振っただけで他に具は入っていない、平たく潰した麦を水で煮込んだだけだ。パーシコスが目を覚ます前に温めておいた。彼は黙々と粥を口に入れ一杯、二杯と食べ進め鍋に用意した粥全部を食べ切った。

「ありがとう。こんなうまい粥は初めてだよ」パーシコスはアイリーンに鉢と匙を手渡した。

「おかげでなんというのか体から力が溢れてくるようだ。どういう作り方をしているのだ」

「押し麦はそれなりに良い店で買い求めたが、それをただ普通に煮込んだだけの粥だ」とアイリーン。「それを極上のものと感じたのは、お前の体が酷く乾いていたためだろう。わたしも長い眠りから覚めた最初の一杯は格別だった」

 ホワイトはそれ以上話さないようにアイリーンに目で促した。最初の一杯が人の血や体液だったことは黙っていた方がよい。それが悪行三昧の悪党から奪ったものであってもだ。パーシコスの体調が回復したのは粥よりもアイリーンが体を繋げた折に与えた血のおかげだろう。ほんの僅かな量に過ぎないが彼女の血はパーシコスの体を持ち直すために奮闘している。それらが飢えて糧を求めているのだ。飢えが高じれば暴走し兼ねない。人でなくしまうというアイリーンの言葉は言い過ぎではない。

「そろそろ、ヴァルヤネン殿が狙われているわけなど話してはもらえないか」

「どう言い訳をしようと利権の問題だ。金の問題に尽きる。集約している利権を守りたい者とそれを解放し販路を拡大し振興に役立てたいと考える者の戦いといったところかな」

 パースコスは大きなため息をついた。私利私欲が絡んでの争いに情けなさを感じているようだ。

「本来の目的はこの帝都の商工会との商談にあるのだが、どうにもあの方には奇矯なところがおありで商談の直前にマラトーナ大会があると知るや、それへの出場を決められた。元よりの健脚で本国コリントンでもマラトーナではよい成績を残されている。そちらでは誰も心配はしていない。悪くても転んで足をくじく程度だろうと思っている。だが、この期に乗じてヴァルヤネン様を亡き者し、商談を御破算にしようという企みが露見した」

「どういうことだ」とアイリーン。眉を顰める。

「マラトーナ競技中にヴァルヤネン様を殺め、それを帝国側に擦り付け商談の芽から摘もうという企みだ」

「それがうまくいくと思っているのか」愛らしい顔が侮蔑に歪む。

「それが視野狭窄というものだ。欲に駆られて先が見えなくなり暴走する。傍からは愚か者んとしか見えん」とホワイト。

「その通り、そんな輩が諸所の状況から見て身近にいそうなのだ」パーシコスはまたため息をついた。「情けない」

「少し気をもんでいたのだが、ヴァルヤネン殿と思わしき人物の死亡の報が無いのはそのためだな。宿などで亡くなられたのなら商談は延期となるだけ、公衆の面前での大きな騒ぎが欲しかったのだろう。そして、騒ぎに乗じて関係の悪化を図ろうと考えたか」

「また、短絡的な」アイリーンが吐き捨てる。

「しかし、あなた方はヴァルヤネン様の事をなぜ知っているのだ。俺は何も話していないかったはずだが」

 落ち着けば発生する当然の疑問だ。

「わたし達はほかならぬ、お前から聞いたのだ。お前は床で眠りながらもずっとヴァルヤネン殿の事を気遣っていた。その身を案じて駆けつけることを願っていた。そこでアイリーンはヴァルヤネン殿を探して宿を巡っておった」

「見つけることは出来なかったがな」アイリーンが肩をすくめる。

「なぜ、見ず知らずの俺にそこまでことを……」

 パーシコスの当惑がホワイトにしみ込んでくる。

「言ってしまえばただの気まぐれだ。我ら母娘は帝都では隠者のような暮らしをしておる。少々暇と力を持て余しておってなそこにお前が現れた。少し暇つぶしにあの御仁の行方を追ったまでの事、それだけの事だ。気にすることはない」

「何とも奇妙な巡り会わせだな。何に感謝すればよいのやら」パーシコスは小さく笑いを上げた。

「それなら知り合いの神にでも礼を言っておけ」とホワイト。「しかし、我らの手ではヴァルヤネン殿を見つけ出すことは出来なかった。お前は何か心当たりはないか。彼が考えそうなことだ。何か思いつかないか」

「ヴァルヤネン様のお考えか……」

 パーシコスは思案を巡らせる。

「聞いておったか」アイリーンはイヤリングを通じ語り掛けた。

「聞いてるよ。若様自ら毛織物の売り込みか、それにこっちも一枚乗せてもらえばいい儲けになりそうだ。そうなると競技中に騒ぎを起こされちゃ、何もかも大損だ。街中で面倒事を起こされたんじゃ後にも響いてくる。意地でも阻止しないとな。人手を出す。全面協力する」

 静かな怒りと期待が混じったエリオットの声がアイリーンの頭蓋に響いた。
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