その男ヨハン・マトリクス 第1話

文字数 3,511文字

 朝の正教徒第一病院では開院を待ちわびた住民たちが正面受付へと詰めかける。一日で最も賑わう時間である。広い受付前の空間に並べられた長椅子は、患者とその付き添いで満たされ、廊下は診察室へと向かう患者と医療関係者で混雑をする。入院患者の居る病棟も動きが活性化してくる。
 しかし、一日中変化の乏しい区域もある。受付横の大扉を経た先は関係者以外立ち入り禁止の区画となり人気は乏しい。そこは検査、研究部門、様々な薬品や遺体なども含む収納施設が多く含まれ、様々な危険も伴うためおよそ一般人の立ち入る場所ではない。
 フレア・ランドールは病院への届け物とヒンヨ・リヒター医師との献血の打ち合わせと済ませ部屋を出た。病院はフレアの好きな場所の一つである。だが、その理由は決して共感を得られるものではないため、彼女がそれを人に告げることはない。
 朝の陽光が差し込む廊下を裏口へ向かいフレアは進む。廊下に並ぶ閉ざされた扉の向こうがどうなっているのかという好奇心は抑え、出口へと向かう。一度名状しがたい匂いが漂い出している部屋の忍び込んだことがある。そこでは薬品に浸けられた手足や内臓などの身体の断片が並べられていた。思わず見入ってしまったが誉められた行動ではない。
 ちょうどその扉の傍に差し掛かった時に、一人の白衣の男がこちらに向かってくるのが見て取れた。中肉中背の赤い髪で面識のない面差し。だが、新任の医師はよく現れるためフレアは男とすれ違う際に挨拶をしておいた。男も軽く会釈で答えた。
 男とすれ違った後、フレアは感じた違和感を拭い去れなかった。何そうさせるのかフレアは考えてみた。第一はやはり匂いである。焚きこまれたような薬品や複雑な人の匂いが感じられない。そして、新任ならフレアの姿を目にした時の反応が気になった。無関心である。病院内の職員しか訪れることにない場所を歩くお仕着せ姿の女だ。面識がないため事情を知らない職員にフレアが注意を受けたのは二度や三度のことではない。胸騒ぎを感じたフレアは男の後を追うことにした。
 白衣の男は特に急ぐわけでもなく廊下の中央を歩いていく。物陰の少なさに距離を詰めにくかったがリヒターの部屋に男が入ってくことは確認できた。害がなく勘違いなら言い訳を適当に取り繕い帰ればよいと考えた。
 速やかに距離を詰め、室内が見える位置へと移動する。戸口のすぐ先には男が立っているが、リヒターはそれに気が付いていない様子で机に向かい書き物に熱中している。男は左袖口から片刃のナイフを取り出し逆手に構えた。そして、無言で前に足を踏み出した。
 フレアも男の意図を悟り前へ出た。リヒターの注意を促すため、開け放たれた扉を慌ただしくノックした後に男の背に飛びついた。右手からナイフを叩き落し、足を払い床にねじ伏せた。リヒターの眼前のため力加減をしてあるが男は床にくぎ止めされたように動けない。
 物音にリヒターは椅子の上で体を回し振り返った。
「先生、この男に見覚えはありますか?」
 フレアの問いに目の前の光景にリヒターは目を見張る。フレア、男、そして書き物机の傍に転がっているナイフの順で何度も目をやる。
「いや、ない」リヒターは首を横に振った。
「先生、警備隊への連絡をお願いします」
 フレアは呆然としているリヒターを促した。
「あぁ、わかった」
 リヒターは立ち上がり壁の通話機へと向かった。床でおとなしくしていた男はそれを見て暴れ始めた。床に爪を立てもがき、足をばたつかせる。
「やめてくれ。命がかかっているんだ」男は叫んだ。
「何わけのわからないことを言ってるの。人を手に掛けようとしたのはあなたよ。あなたは帝都の大事なお医者様を殺そうとしたのよ」
 フレアが男を抑える手に力をさらに込めた。その力に男は一度呻き声をあげた。だが、火事場の馬鹿力というものか四つん這いまでフレアの力を押し戻した。しかし、それも一瞬のことすぐにまた床に這わされた。
「それはわかっている。俺が悪いのはわかっている。だが、俺が戻らないと娘が殺されてしまう。娘を人質に取られているんだ」
「苦し紛れにつまらない冗談はやめなさい」フレアがさらに力を込める。
「冗談で言えるもんか。あいつは俺の命なんだ。俺はあいつのために今まで泥水すすって生きて来たんだ」
 男はまた起き上がろうとしたが、今度はぴくりとも背中を上げることはできない。荒い息をつきもがくが何もできない。やがて、諦めたかのように男は動きを止めた。最初のように隙を狙う力の溜めをフレアは感じなくなった。
「先生、俺があんたを狙うのは実は二回目なんだ」
 リヒターが男に近づこうとするが、フレアは首を横に振り押しとどめた。
「この前の土曜礼拝、あんたは家族を教会に来てたよな。俺はずっと後ろにいたんだ。家族で並んで座って、そのうち兄弟が喧嘩を始めてそのうち片方が泣き出して、それ見てるうちに手が出せなくなった。俺でもそんな時期はあったんだよ。これまでの相手は同業者のゴロツキだ、ろくでないしだと自分に言い聞かせて、だましだましやってきたが……」
 フレアは男の眼前の床を殴りつけた。
「つまらない泣き言は聞きたくないわ。結局、あなたは娘と引き換えに先生を手に掛けるためにやってきたってわけ?それで娘を素直に返してもらえると思ったの」 フレアの声音が変わった。それは少女の顔をした獣の唸り声。
 男を睨みつける目つきとその声音をフレアは見せることはまずない。この地に来てからは稀なことだろう。
「ありえないでしょう。娘を人質に取られてるなら、あなたがやるべきことはお医者様を手に掛けることではなく、担げるだけの武器を担いで娘を助けに行くこと。そうじゃないの?」
 フレアは一瞬男の拘束を解き、素早くひっくり返し床の上に仰向けに寝かせた。馬乗りになり、両肩を押さえつける。顔を唇が触れそうなぐらいに近づける。
「面白そうじゃない。あなたが行かないといけない場所にわたしも連れて行きなさい。わたしならいい武器になると思うわ」
 フレアは狼人の笑みを浮かべた。これも同様である。

 ヒンヨ・リヒター医師が暴漢に狙われたとの通報を受け、急ぎ駆けつけたデヴィッド・ビンチとニッキー・フィックスの両名だったが医師は思いのほか落ち着いていた。部屋に荒事があったことをうかがわせるのは木の床に入った傷と蹴破られた窓だけである。彼らより先に到着した警備隊は既に活動を開始している。
「物音に振り返ると白衣姿の男が立っていた」
 リヒターは三回目になるであろう暴漢と遭遇時の行動を特化隊の二人に話し始めた。「髪は赤毛だったが顔は憶えていない。情けないことにすっかり気が動転していてね。物音に振り返ったおかげで難を逃れることができたが、もみ合っているうちに転んで、彼女が来なかったら危なかった」
「それはなによりですが。どうしてあいつがここに」
 そもそも彼ら特化隊が呼ばれたフレアが絡んだためである。彼女が動けば彼らも巻き込まれる。
「いつもの配達と献血の打ち合わせだ。わしが思わず上げた叫び声を聞きつけた彼女が戻ってきてくれた。犯人は彼女の姿を目にしてそこの窓から逃げ出した」
「あいつは犯人に手を出さなかったんですか?」
「わしの方を優先したようだ。わしに怪我がないとわかると同じように外へ飛び出していったよ」
「どう思う?」フィックスの声が頭蓋内に響いた。
「どこか妙な気もするが、狂言のわけもない。先生は狙われ、犯人は逃げた。あの女は先生の目を気にして手控えただけだろう。今頃血相変えて犯人の後を追ってるだはずだ」
「悪党がどうなろうが知ったことじゃないが、口が聞けなくなった奴は手間の元だ。急ぐ必要があるな」
「リヒター先生、狙われる心当たりはありますか?」とビンチ。
「どうだろう。そういえば妙な通話が入っていたな。裁判での証言に出るなという内容だったと思う」
「それはどこかに通報されましたか?」
「いや、今まで忘れていたよ。その後すぐに急患が入ってあれやこれやとあったのでね」
「先生、どのような危険が潜んでいるかわかりません。速やかな通報をお願いします。念のため護衛はつけておきます。他に何か気が付いたことはありませんか?」
「パブのマッチが落ちていた。それはそこにいる警備隊に渡しておいた」
 そこにいると言いはしたもののリヒターはその警備隊士を覚えてはいなかった。
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