第2話
文字数 3,625文字
女は悲鳴と共に目覚めた。汗まみれで髪と衣服が肌にまとわりつく、何回目の悲鳴だったのか、喉が渇きひりつく。窓から差し込む月光を目にして、ようやくここが陰鬱な書庫ではなく清潔に整備された病室であることに気づき安堵した。
あの場所がどこであるか、自分は知っていると女は確信していた。しかし、何も思い出せなかった。彼女が思い出せないのはそれだけではない。彼女は自分が何者なのかも覚えていなかった。
女は目覚めた時は既にこの病室で寝かされていた。傍には医師と看護師、この帝都と呼ばれる都市の治安機関の男女数名と、彼女を救助したというニール博士がいた。彼らに君は何者かと問われたが全くわからなかった。言葉は理解することはできたが、何も思い出せない。思いだそうとしても靄に包まれた壁に阻まれ、そこまで到達することができない。
ややあって、看護師の女性二人が病室にやって来た。新しい着替えと暖かい湯を持ってきており、身体を軽くふき衣服を着替えさせたくれた。女はぼんやりと彼女達に身を任せ、自分は何者なのかと考えた。しかし、靄の向こう側に到達することはできない。
不意に自分の乳白色の腕と髪が目に入り、軽く声を上げ腕を引いた。この肌と髪の色には強い違和感を感じる。自分ではないことを強く感じるのだ。看護師の一人が女の目を見て微笑みかけ手をやさしく握った。再び恐慌状態に陥ることを心配してのことだろう。
それからしばらく談笑した後、彼女達は薬湯を置いて部屋から出て行った。それを口にすればすぐに気持ちが落ち着き、ほどなく瞼が重たくなってくるのだ。女は薬湯の苦さを我慢して一気あおり、ベッドに横になった。
次に彼女が目覚めた時は朝になっていた。薬湯のおかげで、夢を見ることなく眠ることができたが、まだすこしだるい。これは薬湯の影響らしいが、いつも昼前までには消えている。
女は朝食の後、今日は病室から少し出てみるとこにした。彼女は特に厳しい行動の制限は受けていない。看護師に連絡の上ならこの療養所内に限り自由に出歩いてよいと言われていた。
渡されていた桃色のローブを羽織り部屋を出ると、ちょうど看護師の一人に会ったので階下に降りることを告げた。彼女は快く了承し、下へと降りるための階段の位置を教えてくれた。遠くへ行くつもりはない。とりあえず病室から見えていた中庭まで降りてみるつもりでいた。
三つの病棟に囲まれた中庭は中央に背の高い木植えられているだけで、他は石畳で舗装されて、何箇所かに石造りの長椅子が配置のみの簡素なものだった。女は少しがっかりしたが、すぐさま中央の大木を生かして、この広場を魅力的な場所にするには何が必要か考え始めた。石像を配置するか。噴水や水路を設けるか。ごてごてし過ぎては趣がない。いっそのこと石畳をすべてはがし芝などの丈の短い植物で覆い尽くすか。
ふと我に返り考えた。自分はどうしてこのような事が気になるのか?以前にもあったのだろうか?これは思い出せない過去に由来しているのか?
「おはようございます。ルリさん」
物思いを中断し、顔を上げると近くに白衣の男が立っていた。長身で赤い髪の男で女の主治医である。ルリは自分が何者かわからない女に与えられた名だ。
「おはようございます。ゲラー先生。先生もお散歩ですか?」
「そうしたいところですが、実はルリさん、あなたを探していました」
「わたしをですか」
「はい、またうなされたそうですね」
「はい、また同じ夢を見ました。幸い看護師さんに持ってきて頂いた薬湯のおかげで後はぐっすりと眠ることができました」
「それはよかった。身体のお加減はどうですか?何か思い出したことはありますか」
「あぁ、わたしもしかしたら庭師か、庭に関係のあるお仕事をしていたのかもしれません」
「庭師?とはそれはどうして?」
「わたし、この中庭を見ていたら……」
「そんなことがあるわけないだろ。ふざけるんじゃない」
魔導騎士団特化隊隊長フィル・オ・ウィンは脚立に乗り窓辺に張り付き、眼下で長椅子でおしゃべりを楽しんでいる男女を眺めていた。一般的には脚立の天板に立つことは禁止されているが子供並みの身長しかない彼にはこの方法しかない。
「本人はいたってまじめなようですね」
「自信たっぷりだ」
「お前達まで何を言ってるんだ」
二人の会話はゲラー医師が着けたネックレスを介して、この空き病室に居合わせた全員の耳に入っている。現在この部屋にいるのはオ・ウィンとその部下エヴリーとフィックスの特化隊の面々である。
「あの女がどこで見つかったか、それを考えればわかるだろう。運の悪い庭師が迷い込む場所じゃない」とオ・ウィン。
「わかってますよ。落ちついてください」
フィックスは頭をなでてやろうかと思ったが、これでも彼は部隊最強である、止めておくことにした。
ルリが見つかったのは爆心地の正に中心にあったモーテン・ブロックの地下研究所内である。彼は魔導師でもあった天才錬金術師として二百年前に名をはせていた人物である。彼は今では爆心地と呼ばれているノルデス砂漠西端部の地下に研究所を構えていた。それが最近の地震の影響により一部が地表に姿を現した。帝都は速やかに調査隊を派遣し地下施設を探索し、モーテン・ブロックの所有であったことを特定した。
そしてそこで発見された多数の物品を帝都へと持ち帰った。ルリはそこの書庫で石化状態で一人倒れているところを発見された。最初は石像と思われたが、置いてある場所の不自然さから詳細に調べたところ呪いにより石化した人と判明したため他の物とともに帝都に運ばれた。
彼女は解呪に成功し目覚めたが記憶は失っていた。彼女の処遇についてはブロックとの関係もあり、療養所に留め置き要監視の処置がとられている。
「彼女は庭に興味はあったのかも知れないが、あくまで注文をする立場だっただろう。作る方じゃない」
「ニール博士はおそらく魔導師ではないかと言っていましたね」とエヴリー。
「俺も同意見だ。彼女が着ていたという衣服を見たが、かなり上質なものだった。つまり裕福かつ力も持っていたはずだ」
「何者でしょうね。もしブロックの配下なら、やっかいなことになりかねない。彼女の以前の記憶は呪われた時で止まったまま」
「当時は外部ながらこっちに肩入れしてくれていた魔導師も少なくなかったから、一概にそうとも言えん……。かといっても放ってもおけんが、閉じ込めるわけにもいかん。妥協の産物がこの療養所での監視だ」
「隊長は彼女に面識はないんですか?うちの前身の影という部隊はブロックの件に深くかかわっていたんでしょう?」
「確かにそうだが、全員じゃない」オ・ウィンはエヴリーの言葉に顔をしかめた。「俺は別件に当たっていた。そして当時はここにはいなかった。お前なら知っているはずだぞ」
「あぁ……そうでしたね」
それは今でも公に語られることのない隣国解放の物語。
「彼女が何者であろうと、俺は偶然死を免れ、助け出されたなどとは思っていない。お前たちもわかるだろうだが、石化なんて偶然陥る状態じゃない。誰かが彼女に呪いを掛けたはずだ。にもかかわらずそいつは止めを刺さず放置した。なぜだ?俺は彼女が自分に掛けたのではないかと考えている」
「待ってください。それは無理でしょう。呪いもつまるところ契約の一種です。自分を対象にすることはできない」
「もちろんだ。それはわかっている。そこでだ、お前は彼女がどこで発見されたか、聞いているな?」
「書庫と聞いています。……まさか魔導書を使って」
フィックスの言わんとするのは魔導書の禁忌にあたる効果を使ってという意味だ。魔導書や武器など精霊などを内包する魔器には、それを扱うための作法とといえるものがある。それに反し禁忌とされる行動をとれば使用者はそれなりの害を受けることとなる。軽い火傷や一時的な痺れ程度住めばよいが、石化や命を失い場合などもある。
「そうだ。それなら発見された状況も納得がいくだろう」とオ・ウィン。
「それを狙ってやるとなると豊富な知識と並はずれた度胸が必要です。とても正気の沙汰と思えません」
「脱出不能の状態に追い込まれ、その知識があり、それが唯一の延命手段となれば、お前達ならどうする」
「彼女はそれをやってのけた?」
「その可能性は十分にある。彼女が何者かに追われ、書庫に逃げ込み、魔導書の扱いを誤って石化したのなら、まだ気楽なんだがな」
オ・ウィンはガラスに張り付き眼下で、笑顔で談笑する銀髪の女の様子を覗きこんだ。頭蓋内に入るその声は、ここでの会話など全く的外れではないかと思われるほど明るい響きを持っていた。
あの場所がどこであるか、自分は知っていると女は確信していた。しかし、何も思い出せなかった。彼女が思い出せないのはそれだけではない。彼女は自分が何者なのかも覚えていなかった。
女は目覚めた時は既にこの病室で寝かされていた。傍には医師と看護師、この帝都と呼ばれる都市の治安機関の男女数名と、彼女を救助したというニール博士がいた。彼らに君は何者かと問われたが全くわからなかった。言葉は理解することはできたが、何も思い出せない。思いだそうとしても靄に包まれた壁に阻まれ、そこまで到達することができない。
ややあって、看護師の女性二人が病室にやって来た。新しい着替えと暖かい湯を持ってきており、身体を軽くふき衣服を着替えさせたくれた。女はぼんやりと彼女達に身を任せ、自分は何者なのかと考えた。しかし、靄の向こう側に到達することはできない。
不意に自分の乳白色の腕と髪が目に入り、軽く声を上げ腕を引いた。この肌と髪の色には強い違和感を感じる。自分ではないことを強く感じるのだ。看護師の一人が女の目を見て微笑みかけ手をやさしく握った。再び恐慌状態に陥ることを心配してのことだろう。
それからしばらく談笑した後、彼女達は薬湯を置いて部屋から出て行った。それを口にすればすぐに気持ちが落ち着き、ほどなく瞼が重たくなってくるのだ。女は薬湯の苦さを我慢して一気あおり、ベッドに横になった。
次に彼女が目覚めた時は朝になっていた。薬湯のおかげで、夢を見ることなく眠ることができたが、まだすこしだるい。これは薬湯の影響らしいが、いつも昼前までには消えている。
女は朝食の後、今日は病室から少し出てみるとこにした。彼女は特に厳しい行動の制限は受けていない。看護師に連絡の上ならこの療養所内に限り自由に出歩いてよいと言われていた。
渡されていた桃色のローブを羽織り部屋を出ると、ちょうど看護師の一人に会ったので階下に降りることを告げた。彼女は快く了承し、下へと降りるための階段の位置を教えてくれた。遠くへ行くつもりはない。とりあえず病室から見えていた中庭まで降りてみるつもりでいた。
三つの病棟に囲まれた中庭は中央に背の高い木植えられているだけで、他は石畳で舗装されて、何箇所かに石造りの長椅子が配置のみの簡素なものだった。女は少しがっかりしたが、すぐさま中央の大木を生かして、この広場を魅力的な場所にするには何が必要か考え始めた。石像を配置するか。噴水や水路を設けるか。ごてごてし過ぎては趣がない。いっそのこと石畳をすべてはがし芝などの丈の短い植物で覆い尽くすか。
ふと我に返り考えた。自分はどうしてこのような事が気になるのか?以前にもあったのだろうか?これは思い出せない過去に由来しているのか?
「おはようございます。ルリさん」
物思いを中断し、顔を上げると近くに白衣の男が立っていた。長身で赤い髪の男で女の主治医である。ルリは自分が何者かわからない女に与えられた名だ。
「おはようございます。ゲラー先生。先生もお散歩ですか?」
「そうしたいところですが、実はルリさん、あなたを探していました」
「わたしをですか」
「はい、またうなされたそうですね」
「はい、また同じ夢を見ました。幸い看護師さんに持ってきて頂いた薬湯のおかげで後はぐっすりと眠ることができました」
「それはよかった。身体のお加減はどうですか?何か思い出したことはありますか」
「あぁ、わたしもしかしたら庭師か、庭に関係のあるお仕事をしていたのかもしれません」
「庭師?とはそれはどうして?」
「わたし、この中庭を見ていたら……」
「そんなことがあるわけないだろ。ふざけるんじゃない」
魔導騎士団特化隊隊長フィル・オ・ウィンは脚立に乗り窓辺に張り付き、眼下で長椅子でおしゃべりを楽しんでいる男女を眺めていた。一般的には脚立の天板に立つことは禁止されているが子供並みの身長しかない彼にはこの方法しかない。
「本人はいたってまじめなようですね」
「自信たっぷりだ」
「お前達まで何を言ってるんだ」
二人の会話はゲラー医師が着けたネックレスを介して、この空き病室に居合わせた全員の耳に入っている。現在この部屋にいるのはオ・ウィンとその部下エヴリーとフィックスの特化隊の面々である。
「あの女がどこで見つかったか、それを考えればわかるだろう。運の悪い庭師が迷い込む場所じゃない」とオ・ウィン。
「わかってますよ。落ちついてください」
フィックスは頭をなでてやろうかと思ったが、これでも彼は部隊最強である、止めておくことにした。
ルリが見つかったのは爆心地の正に中心にあったモーテン・ブロックの地下研究所内である。彼は魔導師でもあった天才錬金術師として二百年前に名をはせていた人物である。彼は今では爆心地と呼ばれているノルデス砂漠西端部の地下に研究所を構えていた。それが最近の地震の影響により一部が地表に姿を現した。帝都は速やかに調査隊を派遣し地下施設を探索し、モーテン・ブロックの所有であったことを特定した。
そしてそこで発見された多数の物品を帝都へと持ち帰った。ルリはそこの書庫で石化状態で一人倒れているところを発見された。最初は石像と思われたが、置いてある場所の不自然さから詳細に調べたところ呪いにより石化した人と判明したため他の物とともに帝都に運ばれた。
彼女は解呪に成功し目覚めたが記憶は失っていた。彼女の処遇についてはブロックとの関係もあり、療養所に留め置き要監視の処置がとられている。
「彼女は庭に興味はあったのかも知れないが、あくまで注文をする立場だっただろう。作る方じゃない」
「ニール博士はおそらく魔導師ではないかと言っていましたね」とエヴリー。
「俺も同意見だ。彼女が着ていたという衣服を見たが、かなり上質なものだった。つまり裕福かつ力も持っていたはずだ」
「何者でしょうね。もしブロックの配下なら、やっかいなことになりかねない。彼女の以前の記憶は呪われた時で止まったまま」
「当時は外部ながらこっちに肩入れしてくれていた魔導師も少なくなかったから、一概にそうとも言えん……。かといっても放ってもおけんが、閉じ込めるわけにもいかん。妥協の産物がこの療養所での監視だ」
「隊長は彼女に面識はないんですか?うちの前身の影という部隊はブロックの件に深くかかわっていたんでしょう?」
「確かにそうだが、全員じゃない」オ・ウィンはエヴリーの言葉に顔をしかめた。「俺は別件に当たっていた。そして当時はここにはいなかった。お前なら知っているはずだぞ」
「あぁ……そうでしたね」
それは今でも公に語られることのない隣国解放の物語。
「彼女が何者であろうと、俺は偶然死を免れ、助け出されたなどとは思っていない。お前たちもわかるだろうだが、石化なんて偶然陥る状態じゃない。誰かが彼女に呪いを掛けたはずだ。にもかかわらずそいつは止めを刺さず放置した。なぜだ?俺は彼女が自分に掛けたのではないかと考えている」
「待ってください。それは無理でしょう。呪いもつまるところ契約の一種です。自分を対象にすることはできない」
「もちろんだ。それはわかっている。そこでだ、お前は彼女がどこで発見されたか、聞いているな?」
「書庫と聞いています。……まさか魔導書を使って」
フィックスの言わんとするのは魔導書の禁忌にあたる効果を使ってという意味だ。魔導書や武器など精霊などを内包する魔器には、それを扱うための作法とといえるものがある。それに反し禁忌とされる行動をとれば使用者はそれなりの害を受けることとなる。軽い火傷や一時的な痺れ程度住めばよいが、石化や命を失い場合などもある。
「そうだ。それなら発見された状況も納得がいくだろう」とオ・ウィン。
「それを狙ってやるとなると豊富な知識と並はずれた度胸が必要です。とても正気の沙汰と思えません」
「脱出不能の状態に追い込まれ、その知識があり、それが唯一の延命手段となれば、お前達ならどうする」
「彼女はそれをやってのけた?」
「その可能性は十分にある。彼女が何者かに追われ、書庫に逃げ込み、魔導書の扱いを誤って石化したのなら、まだ気楽なんだがな」
オ・ウィンはガラスに張り付き眼下で、笑顔で談笑する銀髪の女の様子を覗きこんだ。頭蓋内に入るその声は、ここでの会話など全く的外れではないかと思われるほど明るい響きを持っていた。