第5話
文字数 3,146文字
夜が明けてマラトーナ競技会当日の帝都は雲一つない晴天となった。朝早くから皇宮広場前広場に観客が集まり、それを目当てにした出店も並ぶ。むしろ出店を目当てにした客なども多く、広場はお祭り騒ぎとなる。選手たちが走る沿道にも観客が集まり屋台が出る。
来賓として現れた皇帝アダムス五世がマラトーナ競技会開催の宣言を述べ喝采で広場は満たされる。そして、広場は出走前の静寂に包まれる。
「あぁ、あそこだ。ご無事で何よりだ」パーシコスの落ち着いた声音と穏やかな笑み。彼の意思をわざわざ読まなくとも安堵に満ち溢れている。誰でも一目瞭然だろう。
「列の中ほどにいる。細身で背の高い男性だ。少し黄色い肌に薄い茶色で波打つ髪を邪魔にならぬように後頭部でまとめている」
彼の横に座るホワイトとアイリーンもすぐにその特徴と合う男を発見した。念のためパースコスの視覚と男の中に入ってみる。間違いはない。本人の意識も覗いて見る。エリヤス・ヴァルヤネン、ロヴァニエミ伯爵家の嫡男で今はトゥレエ・カンチェーロを名乗り競技の開始を待っている。偽名を使っていたなら見つかるはずもない。目下の関心事は競技の結果しかない。自分の命が狙われているなど芥子粒ほども感じていない。不安は無様な負け以外にない。
「なるほど、偽名を使っていたか。見つからんはずだ」ホワイトはイヤリング回線内で呟いた。
「確かに見つけようがないな」エリオットの悪態が感じられる。
「わかるか。三百三十六と書かれた大きな襷を掛けられている」とパースコス。
「わたしも見つけた。中々の美男だな」ホワイトが頷く。
「あの男ですね」とアイリーン。
彼女達が広場を眺めているのは広場の脇にある親衛隊隊舎の屋根の上である。彼女達は姿を消し広場を眺め下ろしている。パーシコスが目を覚ましたのが競技会の前日とあってヴァルヤネンを探し出すのは断念せざるを得なかった。そこで現場での犯行を阻止することとなった。元々パーシコスの証言が無くとも、ホワイト達はヴァルヤネンを現場で探し出し、賊を取り押さえることつもりでいた。莫大な儲けをふいにする行為など許される訳がない。
選手の中にはヴァルヤネンの命を狙う者はいないようだ。元より初参加の外国人など誰も気にも留めていない。とてもそれどころではない。エリオットが挙げるような賞金圏内に入る実績のある選手たちは各自で立案した作戦を頭の中で復唱している。
圏外の選手はせめて走り切ること、無様な最後を迎えない事を祈っている者が多い。無様とは最後尾追ってくる回収部隊に捕らえられることを指しているようだ。いつまでもマラトーナ競技で街路を占有は出来ない。そのため規定時間を下回る選手は回収部隊により競技から排除される。選手たちはこれを体調を崩しての棄権より避けたい事体のようだ。皆、面式の無い外国人など気に留めている余裕はない。自分の事で精一杯だ。
観客も同様だ。他の無名選手と同様トゥレエ・カンチェーロことエリヤス・ヴァルヤネンなど見えていない。彼もその他大勢の中の一人にすぎない。誰もヴァルヤネンの本国での実績を知る由もない。そのため関心が向かないのも当然だろう。
「お母様、この広場にヴァルヤネンを狙う者はおらぬようです」とアイリーンの声。
「そのようだな。むしろ、気にも留めていない」
ホワイトはアイリーンとはイヤリングでの通話となっている。今回は連携するエリオットたちもそれに繋がっている。精神伝達は漏出の恐れもあり距離を隔てると使えない。
「あの精霊憑きたちも今日は出張っていないようだ。気楽でよい」
「そろそろ、出発だ。一同気を締めてかかってくれ」
頭蓋内に様々な男の声が響く。
「今回は殺しはなしだ。眠らせるだけだ、いいな?」とエリオットの声。
「わかっておる」とアイリーン。
「俺はここにいていいのか」パーシコスの声が頭蓋内に響く。同時に隣から声を潜めた肉声が聞こえてくる。パーシコスに十分な通信の訓練をうける時間はなかった。そのため無言通信を習得する段階には至っていない。
「この場にも担当は必要だ。不穏に動きがあれば知らせてくれ」
パースコスと繋がるのはホワイトとアイリーンのみだが、必要があれば彼女たちが他の者に情報を伝達する。
「それにお前の生死はまだ不明のままの方がよいと思ってな。生きているお前の姿を暗殺者側が掴んでは向こうが段取りを変えて来るやもしれん。それにまだ体調は良いとはいえんだろう」とホワイト。
「仕方ない……だが、どうするつもりかは知らんが、どうかエリヤス様のお命守り通してくれ」
「任せておれ。我ら母娘このようななりだが、腕に覚えはある。つまらん賊ごときに遅れを取ることはない」
いよいよ出走である。きらびやかな式服を纏った男が手にした短銃を空に向ける。そして、引き金を引く。空砲の銃声が皇宮広場前に響き渡り選手たちが走り出した。
皇宮広場を出た当初は隣の走者の足を踏みつけてしまいそうなほどの雑踏状態となっていたが、ほどなくばらけ始め官庁街に入るころには、いち早く先行した選手たちにより先頭集団が形成された。集団の中ほどから出走したヴァルヤネンは緩やかな加速から他の選手の間を速やかにすり抜け、まもなく中盤の先頭へとでた。
出走と同時に姿を消したホワイトとアイリーンを目にしたパーシコスは力の差を目の当たりにし、足手まといにならぬよう後方の警戒を受け入れることにした。
ヴァルヤネンは順調に走行し、官庁街を出る頃には第二集団の背後まで順位を上げていた。そこで加速を一時中断し、順位の維持に移行した。まだ先は長いためだろう。繁華街を行く間も選手の選考は進む。ヴァルヤネンの速度は変わらないように見えるが順位は徐々に上がっていく。他が進度についていけず力を落としているのか、それとも温存する態勢に入っているのか。
街路をゆく走者を詰めかけた観客たちが激励の小旗を振る。自作の物も多いが露店で買い求めることもできる。これもエリオット配下の業者が扱っている。どこにでも入り込み儲け口を見つけ出す。それが彼らの商法だ。
中盤は賭けの勝敗が絡んでいないためか観客は皆穏やかだ。しかし、贔屓の選手の思わぬ不調から滲み出す後悔の念をアイリーンは街路に並ぶ何人かから感じ取った。吹き飛んだ掛け金を思いながら帰途に向かうつもりのようだ。
ヴァルヤネンと並走し街路沿いの建物の屋根を跳ね飛びながら進むアイリーンは不意に強い殺意を感じた。前方の三階建ての安宿か。安いという判断はあくまでアイリーンの基準だ。開け放たれた窓の中から感じられる。
「お母様、刺客の居場所を感じました」
「宿の三階だな。わたしも捕らえた。そちらはお前に任せた。ミズキ通りベルマックス三階中央の部屋」ホワイトが通話を回す間にアイリーンは向かい側へ飛ぶ。「エリオット、人を回してくれ」
「了解、任せてくれ」
アイリーンは目的地ベルマックスの屋根のへりに飛びつくと、そのまま腕を伸ばし綱替わりにして懸垂下降を始めた。開け放たれた窓から勢いをつけ飛び込み天井に貼りつく。窓際に大物用の狩猟狙撃銃を手にした男と見張り役がいる。意識の覗くと狙いはこちらに向かってくるヴァルヤネンだ。
アイリーンは天井から降り、狙撃手の背後に回り首筋にそっと手を当てた。銃が暴発せぬように手を添え仰向けにやさしく転ばせる。相棒の昏倒に見張り役が驚く暇を与えず、アイリーンは男の額に指を添えた。見張り役は支えている糸が切れたようにその場で座り込み仰向けに倒れた。
「二名制圧」
アイリーンはそう告げると宿を出てヴァルヤネンの後を追った。
来賓として現れた皇帝アダムス五世がマラトーナ競技会開催の宣言を述べ喝采で広場は満たされる。そして、広場は出走前の静寂に包まれる。
「あぁ、あそこだ。ご無事で何よりだ」パーシコスの落ち着いた声音と穏やかな笑み。彼の意思をわざわざ読まなくとも安堵に満ち溢れている。誰でも一目瞭然だろう。
「列の中ほどにいる。細身で背の高い男性だ。少し黄色い肌に薄い茶色で波打つ髪を邪魔にならぬように後頭部でまとめている」
彼の横に座るホワイトとアイリーンもすぐにその特徴と合う男を発見した。念のためパースコスの視覚と男の中に入ってみる。間違いはない。本人の意識も覗いて見る。エリヤス・ヴァルヤネン、ロヴァニエミ伯爵家の嫡男で今はトゥレエ・カンチェーロを名乗り競技の開始を待っている。偽名を使っていたなら見つかるはずもない。目下の関心事は競技の結果しかない。自分の命が狙われているなど芥子粒ほども感じていない。不安は無様な負け以外にない。
「なるほど、偽名を使っていたか。見つからんはずだ」ホワイトはイヤリング回線内で呟いた。
「確かに見つけようがないな」エリオットの悪態が感じられる。
「わかるか。三百三十六と書かれた大きな襷を掛けられている」とパースコス。
「わたしも見つけた。中々の美男だな」ホワイトが頷く。
「あの男ですね」とアイリーン。
彼女達が広場を眺めているのは広場の脇にある親衛隊隊舎の屋根の上である。彼女達は姿を消し広場を眺め下ろしている。パーシコスが目を覚ましたのが競技会の前日とあってヴァルヤネンを探し出すのは断念せざるを得なかった。そこで現場での犯行を阻止することとなった。元々パーシコスの証言が無くとも、ホワイト達はヴァルヤネンを現場で探し出し、賊を取り押さえることつもりでいた。莫大な儲けをふいにする行為など許される訳がない。
選手の中にはヴァルヤネンの命を狙う者はいないようだ。元より初参加の外国人など誰も気にも留めていない。とてもそれどころではない。エリオットが挙げるような賞金圏内に入る実績のある選手たちは各自で立案した作戦を頭の中で復唱している。
圏外の選手はせめて走り切ること、無様な最後を迎えない事を祈っている者が多い。無様とは最後尾追ってくる回収部隊に捕らえられることを指しているようだ。いつまでもマラトーナ競技で街路を占有は出来ない。そのため規定時間を下回る選手は回収部隊により競技から排除される。選手たちはこれを体調を崩しての棄権より避けたい事体のようだ。皆、面式の無い外国人など気に留めている余裕はない。自分の事で精一杯だ。
観客も同様だ。他の無名選手と同様トゥレエ・カンチェーロことエリヤス・ヴァルヤネンなど見えていない。彼もその他大勢の中の一人にすぎない。誰もヴァルヤネンの本国での実績を知る由もない。そのため関心が向かないのも当然だろう。
「お母様、この広場にヴァルヤネンを狙う者はおらぬようです」とアイリーンの声。
「そのようだな。むしろ、気にも留めていない」
ホワイトはアイリーンとはイヤリングでの通話となっている。今回は連携するエリオットたちもそれに繋がっている。精神伝達は漏出の恐れもあり距離を隔てると使えない。
「あの精霊憑きたちも今日は出張っていないようだ。気楽でよい」
「そろそろ、出発だ。一同気を締めてかかってくれ」
頭蓋内に様々な男の声が響く。
「今回は殺しはなしだ。眠らせるだけだ、いいな?」とエリオットの声。
「わかっておる」とアイリーン。
「俺はここにいていいのか」パーシコスの声が頭蓋内に響く。同時に隣から声を潜めた肉声が聞こえてくる。パーシコスに十分な通信の訓練をうける時間はなかった。そのため無言通信を習得する段階には至っていない。
「この場にも担当は必要だ。不穏に動きがあれば知らせてくれ」
パースコスと繋がるのはホワイトとアイリーンのみだが、必要があれば彼女たちが他の者に情報を伝達する。
「それにお前の生死はまだ不明のままの方がよいと思ってな。生きているお前の姿を暗殺者側が掴んでは向こうが段取りを変えて来るやもしれん。それにまだ体調は良いとはいえんだろう」とホワイト。
「仕方ない……だが、どうするつもりかは知らんが、どうかエリヤス様のお命守り通してくれ」
「任せておれ。我ら母娘このようななりだが、腕に覚えはある。つまらん賊ごときに遅れを取ることはない」
いよいよ出走である。きらびやかな式服を纏った男が手にした短銃を空に向ける。そして、引き金を引く。空砲の銃声が皇宮広場前に響き渡り選手たちが走り出した。
皇宮広場を出た当初は隣の走者の足を踏みつけてしまいそうなほどの雑踏状態となっていたが、ほどなくばらけ始め官庁街に入るころには、いち早く先行した選手たちにより先頭集団が形成された。集団の中ほどから出走したヴァルヤネンは緩やかな加速から他の選手の間を速やかにすり抜け、まもなく中盤の先頭へとでた。
出走と同時に姿を消したホワイトとアイリーンを目にしたパーシコスは力の差を目の当たりにし、足手まといにならぬよう後方の警戒を受け入れることにした。
ヴァルヤネンは順調に走行し、官庁街を出る頃には第二集団の背後まで順位を上げていた。そこで加速を一時中断し、順位の維持に移行した。まだ先は長いためだろう。繁華街を行く間も選手の選考は進む。ヴァルヤネンの速度は変わらないように見えるが順位は徐々に上がっていく。他が進度についていけず力を落としているのか、それとも温存する態勢に入っているのか。
街路をゆく走者を詰めかけた観客たちが激励の小旗を振る。自作の物も多いが露店で買い求めることもできる。これもエリオット配下の業者が扱っている。どこにでも入り込み儲け口を見つけ出す。それが彼らの商法だ。
中盤は賭けの勝敗が絡んでいないためか観客は皆穏やかだ。しかし、贔屓の選手の思わぬ不調から滲み出す後悔の念をアイリーンは街路に並ぶ何人かから感じ取った。吹き飛んだ掛け金を思いながら帰途に向かうつもりのようだ。
ヴァルヤネンと並走し街路沿いの建物の屋根を跳ね飛びながら進むアイリーンは不意に強い殺意を感じた。前方の三階建ての安宿か。安いという判断はあくまでアイリーンの基準だ。開け放たれた窓の中から感じられる。
「お母様、刺客の居場所を感じました」
「宿の三階だな。わたしも捕らえた。そちらはお前に任せた。ミズキ通りベルマックス三階中央の部屋」ホワイトが通話を回す間にアイリーンは向かい側へ飛ぶ。「エリオット、人を回してくれ」
「了解、任せてくれ」
アイリーンは目的地ベルマックスの屋根のへりに飛びつくと、そのまま腕を伸ばし綱替わりにして懸垂下降を始めた。開け放たれた窓から勢いをつけ飛び込み天井に貼りつく。窓際に大物用の狩猟狙撃銃を手にした男と見張り役がいる。意識の覗くと狙いはこちらに向かってくるヴァルヤネンだ。
アイリーンは天井から降り、狙撃手の背後に回り首筋にそっと手を当てた。銃が暴発せぬように手を添え仰向けにやさしく転ばせる。相棒の昏倒に見張り役が驚く暇を与えず、アイリーンは男の額に指を添えた。見張り役は支えている糸が切れたようにその場で座り込み仰向けに倒れた。
「二名制圧」
アイリーンはそう告げると宿を出てヴァルヤネンの後を追った。