ずっと一緒にいた 第1話
文字数 3,391文字
ニコライ・ベルビューレンとアクシール・ローズは共に帝国歌劇場に足しげく通う芝居好きである。ニコライはローズ達を幾度も目にしていたが鉄馬車の件がなければフレアに声を掛けることはなかっただろう。ローズもこの一風変わったの貴族の青年と交友関係を持つこともなかっただろう。その巡り会わせのおかげで鮮血の剣の事件の際、ニコライは結果的に友人であり恩人でもあるラルフを救い、自分と執事のイェスパー身をを守ることができた。しかし、普段の付き合いといえばお互いの立場もあるため、軽く挨拶を交わす程度である。
今夜は特別らしくフレアの姿を見つけたニコライが軽く手を振り近づいてきた。今日は作業服にゴーグルではなく、落ち着いた碧の装いだ。軽く浮かべた笑顔から話題は確定だ。芝居の話に間違いない。
「こんばんは、フレア」 とニコライ。
「こんばんは、ニコライ様」
「今夜の芝居はたっぷり笑わせてもらった。初演は百年前だそうだが、当時とは何か変化があるんだろうか」
予想は当たりである。
「わたしも前回からしか見ていないのでよくわかりません」
今夜はビビアン・クアンベル作の「夏の鼓動」で十五年ぶり七回目の公演となっている。ニコライはローズに勧められやって来た。前回公演の頃は悪戯放題の子供時代で芝居にはまるで興味はなかった。フレアはここ二十年ほどローズと共に観劇に訪れているが、ただついて来て隣で見ているという立場は変わらない。したがって彼女の感想もたっぷり笑えた以上のものはない。
「ローズ様なら毎回ご覧になっているでしょうから、違いを感じ取っておられるかもしれませんね」
「うん、そうだローズさんなら、……ローズさんはどちらへ?」
「桟敷席の年間借り上げの手続きに行かれました。わたしはここで待っているように命じられています」
「なるほど」
「ニコライ様はあの席には興味はないんですか?」
「無いわけじゃないが……」ニコライは周囲を見回した後、喫茶室を指差した。「これ以上ここで立ち話もいただけない。続きは中でどうだい?」
ニコライに促され小綺麗な支柱と鎖で仕切られた一画へ向かう。内側には三十席ほど用意されている。十数人いるが二人連れは三組で後は一人でテーブルを使っている。供されるのは飲み物だけだが待ち合わせや芝居の余韻に浸る客にはそれで十分なのだろう。
フレアがここの席に座ったのはこれで三回目だ。待ち合わせに使用し飲み物を口のしたことはない。
「契約料が高いこともあるが、一番の理由は招く客がいないことかな。友人たちはみんないい奴ばかりだよ、知っての通りにね。だが、興味ないとか苦手だというばかりなんだ」
「イェスパーさんやお兄様はどうなんですか?」
「二人とも芝居は嫌いではないが、そんな話を切り出しただけで小一時間説教されそうだ」
ニコライが頼んでいたエールととびきり薄い茶が届けられ二人の目の前に置かれた。
「だから、一階の席が合っているんだろうな。そんな奴も俺を含めて少なくないと思う。ここに座っている連中で名前は知らないがよく目に奴がいるよ。お互いそう思っているに違いない。そこの奴もいつも一人でやって来て、俺と同じエールを飲んで帰る」 ニコライは自分の右手にいる視線を軽く向けた。
だが、ニコライが目をやった茶色い髪の男の元に運ばれたのは扇型に切り分けられた菓子だった。ずっしりとした茶色い生地の中に赤いジャムがたっぷり仕込まれている。給仕が注文の確認を取っている。男は頷き菓子の代金を小銭で精算した。給仕が去ると、男は添えられていた銀の匙で菓子を切り分け猛烈な速さで口に放り込んでいく。
「珍しいこともあるもんだ」とニコライ。
「ニコライ様、人様の噂話なんてお行儀のいいことじゃありませんよ」
フレアの後ろにローズが立っていた。人前であるため黒の外套に加えて仮面も付けている。
「ローズ様」
「これははずかしいところを見せてしまいましたね」
男は菓子を食べきるとすぐに立ち上がり、足早に喫茶室を出て行った。ローズの口元が僅かに動く。
「フレア、彼の後を追って」頭蓋にローズの声が響いた。
「えっ?」
「早く彼を追って、居場所を突き止めて」
「はい」
フレアは速やかに立ち上がり喫茶室を出て行った。
「すみません。あの娘は急用ができてしまいまして」
「用事でしたら御遠慮なく」
「ありがとうございます。ニコライ様、この席いいですか?」ローズは空いたフレアの席の背もたれに青白い手を掛けた。
「どうぞ。おかけください」
「わたしの方は待ち時間ができてしまったので、お話相手として付き合っていただけますか?」
「大歓迎です」とニコライ。
ローズは微笑み椅子に腰を掛けた。
ローズからの声はそれでおしまいだった。不用意に不信感が伝わってしまったかもしれない。感情を抑えフレアは男の後を追う。ほどなく、出入り口へと向かう男の姿を捉えることができた。芝居が終わりしばらく経っているが場内の人出はまださほど減っていない。数人で集まり談笑している姿がそこここで見られる。男はそんな人々を巧みにかわし真っすぐに外へ向かっていく。人より獣の動きで隙間を抜けていく。
一瞬同族の可能性を考えたが、それらしき匂いは感じられない。すぐに思い直す,
同族ならあのような菓子を口にして吐き戻さず堪えられるわけがない。無駄な考えを捨て男の後を追う。
表に出て動きを観察する。馬車は使わないようだ。男は通りを東に向かい歩いていく。ガ・マレ運河の近くまで行くと路地を北に曲がり、旧市街側の工房区へと入っていった。まく気かと思い警戒したが、それはないようだ。むしろ、手招きするように角の傍で歩を緩める。こちらに気が付いているうえでの行動なら警戒だ必要だ。
気を張って追跡し、到着したのは戸建ての工房だった。一階が工房と展示室、二階が住居といったニコライの友人の人形師ラルフ・シェーパースの工房と似たような作りのようだ。
男は出入り口の鍵を開け屋内へと入っていく。
「ローズ様、彼の住居がわかりました。家具工房のようです。マティアス家具と看板が出ています」フレアはイヤリング越しにローズに告げた。
「彼は中に入った?」
「はい」
「彼が今どうしているか確かめて」とローズ
「えぇ……」
「彼が中でどうしているか確かめてと言っているの」
「わかりました」
フレアは工房の戸口へと向かった。扉を何度か叩けば開けてもらえるだろうが、間違いなく変な顔はされるだろう。気まぐれな主人に命でやって来た使用人を演じて、贈り物用のテーブルの見積もり聞くことにしよう。妙な動きがあるならその時次第だ。
「こんばんは、夜分すみません」軽く扉を叩き声を掛ける。
二度繰り返すが中からの反応はない。取っ手を軽く回してみる。鍵は掛かっていないようだ。扉を静かに開き中を覗き込む。
「すみません。どなたかいらっしゃいませんか?」
誰もいないはずはないのだが、反応はない。淡い血の匂いが感じられた。上品さは捨てた方がいいかもしれない。音を立てないように工房内に侵入する。暗い室内を見回す。見本に置いてあるテーブル、椅子に収納棚、接客用の革張りのソファーそれらの影に潜み動き出す者は見つけられない。
周囲への警戒しつつ上り階段へ進む。最下部に横たわっている人影が目についた。顔は反対側を向いているが身に着けているのここまで追いかけ来た男と同様だ。近づき顔を確認し首筋に指を副える。
「ローズ様、彼は階段の下に倒れていました。息はあります」
「ありがとう。こちらから警備隊と病院へ連絡をしておくわ。あなたは病院まで付き添ってあげて」
「はい」
任務は一段落ついたが成り行きは疑問ばかりだ。ローズは帰宅したばかりの男が屋内で倒れているのを知っていたのか。襲われるのがわかっていたならなぜ先回りを命じなかったのか。事故が起こることがわかっていたとしても同様だ。
彼を手に掛けた犯人がいるなら居場所が気になる。素早く逃げ出したか、まだひそんでいるのか。
血の匂いは頭部の怪我によるもののようだ。流れた血で頬が汚れている。フレアが触ると指にはつかず既に乾いていた。 何時怪我をしたのか。彼はまだ帰って来たばかりのはずだ。
今夜は特別らしくフレアの姿を見つけたニコライが軽く手を振り近づいてきた。今日は作業服にゴーグルではなく、落ち着いた碧の装いだ。軽く浮かべた笑顔から話題は確定だ。芝居の話に間違いない。
「こんばんは、フレア」 とニコライ。
「こんばんは、ニコライ様」
「今夜の芝居はたっぷり笑わせてもらった。初演は百年前だそうだが、当時とは何か変化があるんだろうか」
予想は当たりである。
「わたしも前回からしか見ていないのでよくわかりません」
今夜はビビアン・クアンベル作の「夏の鼓動」で十五年ぶり七回目の公演となっている。ニコライはローズに勧められやって来た。前回公演の頃は悪戯放題の子供時代で芝居にはまるで興味はなかった。フレアはここ二十年ほどローズと共に観劇に訪れているが、ただついて来て隣で見ているという立場は変わらない。したがって彼女の感想もたっぷり笑えた以上のものはない。
「ローズ様なら毎回ご覧になっているでしょうから、違いを感じ取っておられるかもしれませんね」
「うん、そうだローズさんなら、……ローズさんはどちらへ?」
「桟敷席の年間借り上げの手続きに行かれました。わたしはここで待っているように命じられています」
「なるほど」
「ニコライ様はあの席には興味はないんですか?」
「無いわけじゃないが……」ニコライは周囲を見回した後、喫茶室を指差した。「これ以上ここで立ち話もいただけない。続きは中でどうだい?」
ニコライに促され小綺麗な支柱と鎖で仕切られた一画へ向かう。内側には三十席ほど用意されている。十数人いるが二人連れは三組で後は一人でテーブルを使っている。供されるのは飲み物だけだが待ち合わせや芝居の余韻に浸る客にはそれで十分なのだろう。
フレアがここの席に座ったのはこれで三回目だ。待ち合わせに使用し飲み物を口のしたことはない。
「契約料が高いこともあるが、一番の理由は招く客がいないことかな。友人たちはみんないい奴ばかりだよ、知っての通りにね。だが、興味ないとか苦手だというばかりなんだ」
「イェスパーさんやお兄様はどうなんですか?」
「二人とも芝居は嫌いではないが、そんな話を切り出しただけで小一時間説教されそうだ」
ニコライが頼んでいたエールととびきり薄い茶が届けられ二人の目の前に置かれた。
「だから、一階の席が合っているんだろうな。そんな奴も俺を含めて少なくないと思う。ここに座っている連中で名前は知らないがよく目に奴がいるよ。お互いそう思っているに違いない。そこの奴もいつも一人でやって来て、俺と同じエールを飲んで帰る」 ニコライは自分の右手にいる視線を軽く向けた。
だが、ニコライが目をやった茶色い髪の男の元に運ばれたのは扇型に切り分けられた菓子だった。ずっしりとした茶色い生地の中に赤いジャムがたっぷり仕込まれている。給仕が注文の確認を取っている。男は頷き菓子の代金を小銭で精算した。給仕が去ると、男は添えられていた銀の匙で菓子を切り分け猛烈な速さで口に放り込んでいく。
「珍しいこともあるもんだ」とニコライ。
「ニコライ様、人様の噂話なんてお行儀のいいことじゃありませんよ」
フレアの後ろにローズが立っていた。人前であるため黒の外套に加えて仮面も付けている。
「ローズ様」
「これははずかしいところを見せてしまいましたね」
男は菓子を食べきるとすぐに立ち上がり、足早に喫茶室を出て行った。ローズの口元が僅かに動く。
「フレア、彼の後を追って」頭蓋にローズの声が響いた。
「えっ?」
「早く彼を追って、居場所を突き止めて」
「はい」
フレアは速やかに立ち上がり喫茶室を出て行った。
「すみません。あの娘は急用ができてしまいまして」
「用事でしたら御遠慮なく」
「ありがとうございます。ニコライ様、この席いいですか?」ローズは空いたフレアの席の背もたれに青白い手を掛けた。
「どうぞ。おかけください」
「わたしの方は待ち時間ができてしまったので、お話相手として付き合っていただけますか?」
「大歓迎です」とニコライ。
ローズは微笑み椅子に腰を掛けた。
ローズからの声はそれでおしまいだった。不用意に不信感が伝わってしまったかもしれない。感情を抑えフレアは男の後を追う。ほどなく、出入り口へと向かう男の姿を捉えることができた。芝居が終わりしばらく経っているが場内の人出はまださほど減っていない。数人で集まり談笑している姿がそこここで見られる。男はそんな人々を巧みにかわし真っすぐに外へ向かっていく。人より獣の動きで隙間を抜けていく。
一瞬同族の可能性を考えたが、それらしき匂いは感じられない。すぐに思い直す,
同族ならあのような菓子を口にして吐き戻さず堪えられるわけがない。無駄な考えを捨て男の後を追う。
表に出て動きを観察する。馬車は使わないようだ。男は通りを東に向かい歩いていく。ガ・マレ運河の近くまで行くと路地を北に曲がり、旧市街側の工房区へと入っていった。まく気かと思い警戒したが、それはないようだ。むしろ、手招きするように角の傍で歩を緩める。こちらに気が付いているうえでの行動なら警戒だ必要だ。
気を張って追跡し、到着したのは戸建ての工房だった。一階が工房と展示室、二階が住居といったニコライの友人の人形師ラルフ・シェーパースの工房と似たような作りのようだ。
男は出入り口の鍵を開け屋内へと入っていく。
「ローズ様、彼の住居がわかりました。家具工房のようです。マティアス家具と看板が出ています」フレアはイヤリング越しにローズに告げた。
「彼は中に入った?」
「はい」
「彼が今どうしているか確かめて」とローズ
「えぇ……」
「彼が中でどうしているか確かめてと言っているの」
「わかりました」
フレアは工房の戸口へと向かった。扉を何度か叩けば開けてもらえるだろうが、間違いなく変な顔はされるだろう。気まぐれな主人に命でやって来た使用人を演じて、贈り物用のテーブルの見積もり聞くことにしよう。妙な動きがあるならその時次第だ。
「こんばんは、夜分すみません」軽く扉を叩き声を掛ける。
二度繰り返すが中からの反応はない。取っ手を軽く回してみる。鍵は掛かっていないようだ。扉を静かに開き中を覗き込む。
「すみません。どなたかいらっしゃいませんか?」
誰もいないはずはないのだが、反応はない。淡い血の匂いが感じられた。上品さは捨てた方がいいかもしれない。音を立てないように工房内に侵入する。暗い室内を見回す。見本に置いてあるテーブル、椅子に収納棚、接客用の革張りのソファーそれらの影に潜み動き出す者は見つけられない。
周囲への警戒しつつ上り階段へ進む。最下部に横たわっている人影が目についた。顔は反対側を向いているが身に着けているのここまで追いかけ来た男と同様だ。近づき顔を確認し首筋に指を副える。
「ローズ様、彼は階段の下に倒れていました。息はあります」
「ありがとう。こちらから警備隊と病院へ連絡をしておくわ。あなたは病院まで付き添ってあげて」
「はい」
任務は一段落ついたが成り行きは疑問ばかりだ。ローズは帰宅したばかりの男が屋内で倒れているのを知っていたのか。襲われるのがわかっていたならなぜ先回りを命じなかったのか。事故が起こることがわかっていたとしても同様だ。
彼を手に掛けた犯人がいるなら居場所が気になる。素早く逃げ出したか、まだひそんでいるのか。
血の匂いは頭部の怪我によるもののようだ。流れた血で頬が汚れている。フレアが触ると指にはつかず既に乾いていた。 何時怪我をしたのか。彼はまだ帰って来たばかりのはずだ。