珠 第1話

文字数 4,469文字

 激しい雨が降っている。おびただしい量の水が帝都の街路を流れ、あらゆる建造物を打ち据える。「この雨がやがて爽やかな風をもたらす」と言われているが、そんな悠長なことを言っていられるのはごく一部である。多くの者は住居への侵入を試みる雨水と格闘し、壁や窓を揺らす風に怯えることとなる。

 アクシール・ローズの塔がある三番街ではこれに雷が加わる場合がある。新市街上空で生じた雷が行き先を求める彷徨ううちに、付近で群を抜く高さを誇る塔へと行きつく。雷撃による危険な力の大半は塔の防壁が受け流し地へ吸収されるが、閃光と轟音はそのまま解き放たれる。閃光とほぼ同時に発生する轟音に怯える住民から何度か相談を受けたことはあるが、これはさすがにローズでも打ち手はない。住処でじっとしているように諭すしかない。

 窓辺で外の様子を眺めているフレアも、雷が発する音や光がこけおどしではないことを知っている。帝都内で最も堅牢な部類に入る建造物の中にいても、胸騒ぎは止まらない。雷撃は人や獣を瞬時に倒し、木々を倒し時に火災を引き起こす。雷が収まった草原に行くと人や大きな鹿や熊などが倒れていることがあった。人の場合は衣服が吹き飛ばされ、皮膚には雷撃の文様が刻まれていた。まだ息のある者は人家の傍に届けておいたが、そちらは少数だった。亡くなった者は体内までひどい状態だった。

「空が落ち着いたら外を見て回った方がいいわね」

 白く輝く居間でローズの声が響く。雷の直撃を受けているが防壁のおかげで塔内での雷鳴は遠雷と変わらない。しかし、穏やかな室内においても過去の記憶は感情を揺さぶる。

「雷の脅威の大半はこの塔が受け止めているわ。だからこの付近は安全よ。それより、危ないのはこの雨ね。水はどこにでも入り込み、何でも溶かして取り込むわ。穢れていようと何であろうとお構いなしにね」

「まず、お掃除からですね」

「そうね、いつもどおりにお願いね」 

 閃光を眺めるローズの顔はどこか楽しそうだ。



 嵐は夜明けには勢いを弱め、正午に雨は止んだ。その翌日にはガ・マレ運河の流れも落ち着き航行制限も解除された。事前に海や運河に近づかず、家でじっとしているようにとの帝都や警備隊からの指示が浸透していたおかげか人的被害は最小限に抑えられたようだ。雨水の掃除は皆好きなわけではないが重要性は知っている。フレアも街を回り何か所か掃除の手伝いをした。

 二日後にはフレアが近道に使っているような路地からもきれいに水は排除されていた。これについてはフレアの来訪を知る者が動いたためもあるだろう。おかげでフレアはお仕着せの裾を気にせずに済んだ。

 フレアはいつも通りスイサイダル・パレスへ到着した。しかし、いつもの門番も含めてどこか雰囲気が重苦しい。店内でフレアを出迎えたのはジョニー・エリオットの腹心であり用心棒のライデンだった。

「エリオットは別件で留守しております。連絡が間に合わなかったことについてはご勘弁ください」 ライデンは神妙に頭を下げた。

「何かあったの?」

「エリオットの友人の一人が亡くなりました。エリオットはその友人の家族の元に出向いております」

「病気?」

「それならあいつも別れをいう時間も作れたでしょう。俺も会ったことがある貨物船の船長です。亡くなったのは一昨日のひどい嵐の夜で、海が荒れて港に近づけず沖で転覆したそうです」

「お気の毒に……」

「客や船員の多くは朝になって近くを通りかかった船に助けられたようですが、船長は遺体で発見され、それもひどい状態って始末だったそうです。家族は突然の騒ぎに彼の死を悲しむ暇もなく、見かねたエリオットが飛んでいった次第です」

「そうなの、大変ね。エリオットさんにはこちらは全く気にしていないと言っておいて、それと何か必要なものがあれば何でも手伝うと言っておいて」

「ありがとうございます」

「それじゃ、こちらはいつもの仕事を片付けてしまいましょうか。あなた、立ち会ってもらえるわね」ライデンに目をやる。

「もちろんです。まいりましょう」

 エリオット本人からはその晩に連絡が入った。店にやって来たフレアへの礼としばらく店を空ける知らせのためだ。ローズも船長家族が悲しみに浸る時間を作るために奔走するエリオットの行動を受け入れた。

 

 翌日フレアが正教徒第一病院へ出向くと裏口に人だかりができていた。親子らしい女性と子供が三人その傍に大勢の男達が沈んだ表情で待機している。フレアが鉄馬車を止め降りてくると男の一人が集団を抜け出しやって来た。エリオットだった。

「おはようございます。お嬢さん」

 エリオットの礼と共に紹介を受けた集団は、船の沈没に巻き込まれた家族と陸にいて難を逃れた部下だった。エリオットが手配した化粧師のおかげで、亡くなった船長の身支度が整い、皆で遺体を引き取りに来たのだという。

 大人たちはフレアの素性を知り若干緊張に頭を下げた。しかし、今一つ状況が呑み込めていないらしい子供たちは、フレアが乗って来た鉄馬車に興味を惹かれている様子だ。一番小さな男の子が母親の手を振り切り、馬車へと突進する。踏み台に手を掛けよじ登り、御者席に這いあがる。席に腰を下ろし操作盤を手のひらで叩く。

 母親が悲鳴を上げ、男たちは絶句しフレアと男の子の様子を交互に窺っている。

「坊や、お母さんの所に戻りましょう」

 これ以上何かあると気の毒なため、フレアは男の子を席からやさしく抱き上げ母親に手渡した。

「すみません」母親は何度も頭を下げた。

「謝らなくていいですよ。小さな子供に触れられる機会なんてまずないんですから、こちらがお礼を言いたいぐらいですよ」これは半分以上本音だ。

 フレアは母親をなだめ、男達の荷物運びの申し出は断り、台車を押し玄関口へ向かった。

 玄関へと向かう廊下で前方に男五人の集団が現れた。裏口であった船員達と同じ身なりでよく陽に焼けた筋肉質の男達である。どこか疲れた様子だ。一人がフレアに目を止めると、素早く廊下の左側に寄る。横に広がって歩く仲間たちにも移動を促す。男たちが軽く会釈をしフレアの台車に道を譲る。それに答えフレアも軽く頭を下げる。男たちは彼女が何者か知っていたのだろう。新市街ではよくあることだ。

「気が重いな」 

 フレアが通り過ぎた後男の声が聞こえた。

「俺もだよ。けどよ、このまま表から黙って帰るなんざできるわけないだろ」

「わかってるよ。まず奥さんに挨拶して報告だな」

「船長のことは俺が話す。お前たちは黙ってろ」

「納得いかねぇ。あんな波だけで俺たちの船がやられるなんて」別の声が聞こえた。

「俺も納得できねえよ!」 悲しさと悔しさが混じり合った叫びが響き渡る。

 彼らは例の転覆事故の生存者なのだろうか。それなら彼らは生き残ったことに苦悩を感じている最中なのだろう。フレアはこの手の話題を聞くと気が重くなる。彼女自身も突如として姿を消し、残された者を多大な苦悩に落とし込んだ。行動自体は今も間違っていないと信じてはいるが、気の重さは別の話だ。

 病院内を抜け玄関口へ医師や看護師に挨拶をし、フレアも準備を始める。荷をほどき台車から降ろす。保冷庫の点検をし、菓子の箱を開封する。

「すみません。あの荷物は船倉に預けず、俺の手元に置いておくべきでした。それなら船が沈んで逃げ出した時も一緒に持ち出せたんです」

 背後からの声にフレアは振り向いた。献血のテントの傍を身なりのよい小柄な中年男と長身の青年が歩いていく。

「亡くなった人もいる中、サルモ、お前は生き残ることができたんだ。それだけで十分だよ」

 主人と使用人と言ったところか。あの青年も難を逃れた一人と見える。

「でも、俺は大切な品を無くしてしまって……旦那様」

「確かにそうだが……もう気にするな。似たようなものをまた探せばいいだけだ。お前は無事生きて帰って来たんだ。だから、またあれが買えるぐらいに稼いでくれ。わかったな。それでいいだろ」

「はい、旦那様」

 沈没事故が元で様々なことが起こっているようだ。いや起こり始めているのか。二人を見送ると、フレアは献血の準備を再開した。まだ時間があるというのに献血希望者が集まり始めている。仕事を急いだほうがいいだろう。 



 正教徒第一病院での献血は滞りなく終わったが、フレアはまだ帰ることは出来ない。次は旧市街まで出向きインフレイムスで焼き菓子の受け取りだ。フレアとしてはこの仕事は距離があり移動に時間が掛かるとしても苦にはならない。用意された菓子の木箱を受け取り、少しおしゃべりをして帰る。見た目で同世代の少女たちと言葉を交わせるいい機会だ。彼女らもフレアが何者かは知っているが、さほど気に止めてはいない。

 今日もフレアは木箱を受け取ると足元に置き、早々に店員のコハクらとおしゃべりを始めた。先日の雨の夜のことを話していると、裏通りを派手な身なりの女が店の裏口に現れた。勢いよく走りすぎたかと思うと、立ち止まり開けてあった裏口に飛び込み、扉を閉めた。

「お願い、少しの間でいいから匿って」

 女は居合わせた全員に向かい両手を合わせ頭を下げた。黒い髪の女で見た目の年齢はフレアらより十以上は上に見える。出がけにきれいの結い上げ整えられたであろう髪は乱れてしまっている。少し息も荒い。

「変な奴に追われてね、逃げてきたの」

 女の声に厨房の奥からも人がやって来た。

 彼女、マココによると彼女を追っていたのは店の常連の客らしい。店で贔屓にしてくれる分にはありがたいのだが、最近は私生活にまで踏み込んできた。今日は出勤のために家を出ると、その客が近くの路地に潜んでいた。こちらが気づいても隠れたままでこちらを覗いていた。

「なんか気持ち悪いですね」

「でしょ」とマココ。

 店への道中もついて来ていたようだが、無理に気に留めないようにしていた。面倒は起こしたくないからだ。

「でもね。後ろで急に大声上げて騒ぎだして、もう怖くなって我慢できなくって逃げてきたの」

「お客さんどうしたんでしょうね」

「角の向こうだったからわからない。当然大声上げて物音立ててで、様子見に行くのも怖かったし必死に逃げてきたわ」

 マココの言葉にコハクたちが顔を見合わす。このような状況に追い込まれるなど他人事でない恐怖があるのだ。

「まだ、心配でしたら表見てきましょうか?」

 フレアはマココに申し出た。彼女の恐怖は本物のようだ。話に嘘はなさそうで、事に寄れば警備隊への通報も必要かもしれない。

「あっ、いいの?」

「えぇ、そのお客さんはどんな感じの人ですか?」 とフレア。

「茶色い髪に真っ青な上着だった。痩せてるわ」

「はい」

 フレアはマココにそれだけ聞くと裏口から飛び出した。裏通りを眺め、表へと出る。付近を歩いてみるが青い上着の男は見当たらなかった。この時、 男は既にいなくなっていたのだ。
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