人の恋路を脅かす者は 第1話
文字数 3,176文字
今夜の帝都は澄み切って、夜空に浮かぶ月に跳ねるウサギの文様まではっきり見て取れる。穏やかな風も吹き心地よい夜といえるだろう。しかし、ハイド・トゥレウラの心中は闇に包まれていた。嵐の夜のように漆黒の闇に怒りの暴風が吹き荒れている。
「つまり、失ってしまった。見つからないというんだな……」トゥレウラは湧き上がる感情を抑え努めて平板に言葉を発した。
この世には物を受け取り、ただ指定された場所に運ぶだけの仕事をこなせない者がいる。道中で妨害を受けたわけではない。荷物を手に大陸の端から端まで歩き通せと命じたわけでもない。ほんの半日の旅程もこなせない。
「そいつにはきつく灸を据えておくとして、キンペイ、お前はこの失態をどう始末をつけるつもりだ」
通話機越しながらキンペイの体から噴き出す冷や汗が感じられる。その声音に向こう側にいる男の慌てふためく様が目に浮かぶ。
「……考えがある」
懸命の命乞いにも似た響きが耳元へと届く。
「ふん、それならやってみろ。必ず取り返してみせろ……何、朝から。ふざけるんじゃない。今から始めろ。何のために夜番を付けていると思っている、今すぐにだ」
キンペイは慌ただしく通話を切り、トゥレウラの耳元から消えた。
トゥレウラは深く息を吐きだしてからゆっくりと慎重に通話機を壁に戻した。ゆっくりと手を放しまた息をついた。怒りに手がまだ震えている。彼は怒りを鎮めるため庭へと向かった。
朝だ、朝が来た。窓から差し込む陽光に顔をしかめ起き出したポンテオは手早く身づくろいを始めた。その合間に少しパサつくパンを口へと放り込む。
タツヤ・ポンテオは帝都へやってきた移民としてはうまくやっている部類に入っているだろう。自分でもその自負はある。ネブラシアで暮らしていた頃はつらかった。貧しかったゆえに子供の頃から働いていた。裁縫工房で朝から晩まで働いていた。夜にはいつもくたくたになっていた。
そんなつらい生活から抜け出したくてたまらなかった。生まれ育ったアファリカピタは南都と恰好を付けていたが、彼のような貧乏人には何の恩恵もなかった。そこで街を飛び出しここ帝都リヴァ・デルメルへやって来た。南都から帝都へ、行きついたのは結局勝手知ったる裁縫工房だった。おまけに扱っているのはネブラシア産の反物ときている。向こういた時と何も変わらない。しかし、他の事はできなかった。
給金の点で不満はないが扱っている生地が二級品であるのが残念だ。手触りが悪く仕事がやりにくくてたまらない。そこで親方に聞いてみた、なぜもっと良い生地を使わないのかと、今考えれば身の程知らずにもほどがある。
「これ以上は高くて手が出ないんだよ」
親方は顔をしかめはしたが、ポンテオの言葉を咎めることはなかった。後で聞いた話ではあの時はひどく忙しく、なんだこの小僧はと思いはしたがかまっている暇がなかっただけのことだった。
それをいいことに次の日ポンテオはネブラシアから持ってきた自分の衣服を親方に見せてみた。縫製は自作で大層なものではないが、生地は幾らかよい。値段も安かった。
「俺がいいようにカモられてたってことか……」親方は生地と見つめて静かに呟いた。
それから親方と仕入れ担当だったヨカゼさんに生地の在処を詰問されることになった。地元だったアファリカピタだと話すとそちらには土地勘はないとのことだった。お前がそこまで連れて行けという話になっていった。
それ以降ポンテオは縫製から仕入れ担当となり帝都とアファリカピタを往復することとなった。最初は慣れないヨカゼの案内として彼が引退してからは一人で仕事を受け持っている。経費を大して上げることなく大幅な品質の向上に成功し販路も広がった。工房の製品はお仕着せなどの仕事着が主流ではあるが、質が上がれば高級店からも引き合いが来る。それに引きずられるようにポンテオの立場も向上している。
姿見で身だしなみを今一度確認する。クラバットなど締めることになるとは思ってもいなかった。ウエストコートもだ。親方でさえ普段は着ることもない。お前は対外担当だ。服装には気を付けろ。そう言われ服を仕立てた。生地はすべて自分で仕入れた品だ。つまりポンテオ自身が見本品を兼ねている。
工房に遅れることなく到着し、工員達と朝の挨拶を交わしつつ奥にある自席へと向かう。特に忙しい時はこちらを手伝うこともあるが、普段は今日の訪問先の確認と事務仕事から始めることになる。
挨拶を交わしているうちに、ポンテオは皆の対応に若干の違和感を感じた。こちらへの眼差しがどこか普段とは違う。
「おはよう、ポンテオ。新聞読んだか?」
ツバタはほぼ同時に工房に入ってきた工員で仲良く付き合っている。
「まだ、読んでない。いつもここに来るのを読ませてもらってるんだ」
「そうか……」
「新聞がどうしたんだよ」
「……親方に聞いてくれ」
「わかったよ」
何もわからないがポンテオはツバタの傍から立ち去った。ぐずぐずしている暇はない。どうやら皆の視線がおかしいのは新聞せいのようだが、だがポンテオとしては新聞に載るような真似をした覚えはない。
「おはようございます」朝の挨拶とともに扉を開ける。
この部屋にいる事務担当やポンテオのような仕入れ担当と親方だ。親方のアン・ジャイルは最奥で座っている。今日は作業着ではなくウエストコートだ。割と体格のよい体つきのため生地が張り詰めている。工房主のトル・ピカルさんの見回りがある日なのかもしれない。
「おはよう、タツヤ。ちょっと来てくれ」新聞を手に親方はポンテオに手招きをした。
自分の席に鞄を置き親方の元へ向かう。
「これを見てくれ。これお前じゃないのか」
親方は折り畳まれた新聞紙の紙面を指差して、そこにあるのは小さな長方形に囲まれた人探しの広告だ。どういうわけかその中に自分の名前が書かれている。
「タツヤ・ポンテオさん、お会いしてお話したい要件がございます。是非お答えください。僅かながら謝礼も用意してあります」
ポンテオは広告を声に出して読んだ。まずはテベス報道社受付までお越しくださいとある。
「どうだ。お前じゃないか」
「確かに名前は俺ですけど……」
「何か心当たりはないか。困ってる婆さんとか嬢ちゃんを助けたとか」
「ありません……」
何かと思い返しても、大したことはない。最近の目立った出来事といえば旅行鞄を失ったことか。正確には鞄を取り違えて持っていかれたことだ。中身は私物ばかりで重要な証文や生地見本などは別の鞄だったため難を逃れたが、ネブラシアを出た時から使っていた鞄のため残念で仕方ない。
それは数日前のことだ。ネブラシアで次の仕入れの打ち合わせを済ませ船で戻ってきた。窮屈な船を降り喉が渇いたため近くの居酒屋に向かった。ネブラシアから船で戻った時は余程の急ぎではない限りは工房に顔を出さずそのまま帰宅してよい。店にも長居をするつもりはなかった。だが、緊張が解けたためか一杯では済まなかった。二杯、三杯と頼んでしまい気分がよくなってきた。三杯目も終わる頃に店内で喧嘩が始まった。二人が殴り合いをするうちに二、三のテーブルが倒れ巻き込まれた男がポンテオの傍に転がってきた。たぶんあの混乱で鞄が取り違え持ち去られたのだろう。
速やかに大柄な男達が喧嘩を止め、それに関わった二人を店から蹴り出した。一緒に何人かが出て行った。持ち去った客はあの中にいたのだろう。ポンテオはどこか他人事でもう一杯飲んでから帰った。持ち帰ったのが別の鞄であることに気が付いたのは翌朝のことだった。
「明日は休みだ。行ってみらたどうだ。いい小遣いになるかもしれない」
「そうしてみます」
「つまり、失ってしまった。見つからないというんだな……」トゥレウラは湧き上がる感情を抑え努めて平板に言葉を発した。
この世には物を受け取り、ただ指定された場所に運ぶだけの仕事をこなせない者がいる。道中で妨害を受けたわけではない。荷物を手に大陸の端から端まで歩き通せと命じたわけでもない。ほんの半日の旅程もこなせない。
「そいつにはきつく灸を据えておくとして、キンペイ、お前はこの失態をどう始末をつけるつもりだ」
通話機越しながらキンペイの体から噴き出す冷や汗が感じられる。その声音に向こう側にいる男の慌てふためく様が目に浮かぶ。
「……考えがある」
懸命の命乞いにも似た響きが耳元へと届く。
「ふん、それならやってみろ。必ず取り返してみせろ……何、朝から。ふざけるんじゃない。今から始めろ。何のために夜番を付けていると思っている、今すぐにだ」
キンペイは慌ただしく通話を切り、トゥレウラの耳元から消えた。
トゥレウラは深く息を吐きだしてからゆっくりと慎重に通話機を壁に戻した。ゆっくりと手を放しまた息をついた。怒りに手がまだ震えている。彼は怒りを鎮めるため庭へと向かった。
朝だ、朝が来た。窓から差し込む陽光に顔をしかめ起き出したポンテオは手早く身づくろいを始めた。その合間に少しパサつくパンを口へと放り込む。
タツヤ・ポンテオは帝都へやってきた移民としてはうまくやっている部類に入っているだろう。自分でもその自負はある。ネブラシアで暮らしていた頃はつらかった。貧しかったゆえに子供の頃から働いていた。裁縫工房で朝から晩まで働いていた。夜にはいつもくたくたになっていた。
そんなつらい生活から抜け出したくてたまらなかった。生まれ育ったアファリカピタは南都と恰好を付けていたが、彼のような貧乏人には何の恩恵もなかった。そこで街を飛び出しここ帝都リヴァ・デルメルへやって来た。南都から帝都へ、行きついたのは結局勝手知ったる裁縫工房だった。おまけに扱っているのはネブラシア産の反物ときている。向こういた時と何も変わらない。しかし、他の事はできなかった。
給金の点で不満はないが扱っている生地が二級品であるのが残念だ。手触りが悪く仕事がやりにくくてたまらない。そこで親方に聞いてみた、なぜもっと良い生地を使わないのかと、今考えれば身の程知らずにもほどがある。
「これ以上は高くて手が出ないんだよ」
親方は顔をしかめはしたが、ポンテオの言葉を咎めることはなかった。後で聞いた話ではあの時はひどく忙しく、なんだこの小僧はと思いはしたがかまっている暇がなかっただけのことだった。
それをいいことに次の日ポンテオはネブラシアから持ってきた自分の衣服を親方に見せてみた。縫製は自作で大層なものではないが、生地は幾らかよい。値段も安かった。
「俺がいいようにカモられてたってことか……」親方は生地と見つめて静かに呟いた。
それから親方と仕入れ担当だったヨカゼさんに生地の在処を詰問されることになった。地元だったアファリカピタだと話すとそちらには土地勘はないとのことだった。お前がそこまで連れて行けという話になっていった。
それ以降ポンテオは縫製から仕入れ担当となり帝都とアファリカピタを往復することとなった。最初は慣れないヨカゼの案内として彼が引退してからは一人で仕事を受け持っている。経費を大して上げることなく大幅な品質の向上に成功し販路も広がった。工房の製品はお仕着せなどの仕事着が主流ではあるが、質が上がれば高級店からも引き合いが来る。それに引きずられるようにポンテオの立場も向上している。
姿見で身だしなみを今一度確認する。クラバットなど締めることになるとは思ってもいなかった。ウエストコートもだ。親方でさえ普段は着ることもない。お前は対外担当だ。服装には気を付けろ。そう言われ服を仕立てた。生地はすべて自分で仕入れた品だ。つまりポンテオ自身が見本品を兼ねている。
工房に遅れることなく到着し、工員達と朝の挨拶を交わしつつ奥にある自席へと向かう。特に忙しい時はこちらを手伝うこともあるが、普段は今日の訪問先の確認と事務仕事から始めることになる。
挨拶を交わしているうちに、ポンテオは皆の対応に若干の違和感を感じた。こちらへの眼差しがどこか普段とは違う。
「おはよう、ポンテオ。新聞読んだか?」
ツバタはほぼ同時に工房に入ってきた工員で仲良く付き合っている。
「まだ、読んでない。いつもここに来るのを読ませてもらってるんだ」
「そうか……」
「新聞がどうしたんだよ」
「……親方に聞いてくれ」
「わかったよ」
何もわからないがポンテオはツバタの傍から立ち去った。ぐずぐずしている暇はない。どうやら皆の視線がおかしいのは新聞せいのようだが、だがポンテオとしては新聞に載るような真似をした覚えはない。
「おはようございます」朝の挨拶とともに扉を開ける。
この部屋にいる事務担当やポンテオのような仕入れ担当と親方だ。親方のアン・ジャイルは最奥で座っている。今日は作業着ではなくウエストコートだ。割と体格のよい体つきのため生地が張り詰めている。工房主のトル・ピカルさんの見回りがある日なのかもしれない。
「おはよう、タツヤ。ちょっと来てくれ」新聞を手に親方はポンテオに手招きをした。
自分の席に鞄を置き親方の元へ向かう。
「これを見てくれ。これお前じゃないのか」
親方は折り畳まれた新聞紙の紙面を指差して、そこにあるのは小さな長方形に囲まれた人探しの広告だ。どういうわけかその中に自分の名前が書かれている。
「タツヤ・ポンテオさん、お会いしてお話したい要件がございます。是非お答えください。僅かながら謝礼も用意してあります」
ポンテオは広告を声に出して読んだ。まずはテベス報道社受付までお越しくださいとある。
「どうだ。お前じゃないか」
「確かに名前は俺ですけど……」
「何か心当たりはないか。困ってる婆さんとか嬢ちゃんを助けたとか」
「ありません……」
何かと思い返しても、大したことはない。最近の目立った出来事といえば旅行鞄を失ったことか。正確には鞄を取り違えて持っていかれたことだ。中身は私物ばかりで重要な証文や生地見本などは別の鞄だったため難を逃れたが、ネブラシアを出た時から使っていた鞄のため残念で仕方ない。
それは数日前のことだ。ネブラシアで次の仕入れの打ち合わせを済ませ船で戻ってきた。窮屈な船を降り喉が渇いたため近くの居酒屋に向かった。ネブラシアから船で戻った時は余程の急ぎではない限りは工房に顔を出さずそのまま帰宅してよい。店にも長居をするつもりはなかった。だが、緊張が解けたためか一杯では済まなかった。二杯、三杯と頼んでしまい気分がよくなってきた。三杯目も終わる頃に店内で喧嘩が始まった。二人が殴り合いをするうちに二、三のテーブルが倒れ巻き込まれた男がポンテオの傍に転がってきた。たぶんあの混乱で鞄が取り違え持ち去られたのだろう。
速やかに大柄な男達が喧嘩を止め、それに関わった二人を店から蹴り出した。一緒に何人かが出て行った。持ち去った客はあの中にいたのだろう。ポンテオはどこか他人事でもう一杯飲んでから帰った。持ち帰ったのが別の鞄であることに気が付いたのは翌朝のことだった。
「明日は休みだ。行ってみらたどうだ。いい小遣いになるかもしれない」
「そうしてみます」