第5話

文字数 3,303文字

 とりあえずルリと呼ばれている患者に二度目の接触に成功し、アイリーンは安堵した。意識の中に微小ではあるが棘を忍ばせることはできた。意識は依然混沌とした靄につつまれており、記憶はその靄の奥深くに沈み込んでいるようだ。アイリーンが基本の女の顔で現れても特に反応見せることはなかった。呪いの影響により記憶障害を起こしているという医師の診立てには間違いはないだろう。
 アイリーンとしては助かっているが、ここの連中は彼女を何者だと思っているのか。あの顔を見てどうしてこれほど呑気でいられるのか、不思議で仕方無かった。
 ちょっと刺激を与えてやればいいんだよ。俺達もよくやる、とエリオットは言っていた。少し刺激すれば埋もれた記憶も飛び出してくるのだという。
 棘が良い刺激になればあの方の方から連絡を取ってくるだろう。

 月が十分に登り夜も更けた頃、ルリは昼受け取りそのままになっていた封筒のことを思い出した。どこか親近感を感じた若い看護師から手渡された封筒。開けてみるとそこには「もしご自身の過去に興味を持たれた時は、それを身に着けてください」と書かれたメモとともにイヤリングが一つ入っていた。メモにはロマン・フェル歴史学者と署名されていた。このフェルなる学者が彼女に封筒を渡すよう頼んだ男性なのだろうが、ルリにはその真意は測りかねた。この男はいったい何を伝えたいのか。
 なぜ直接ではなかったのか?この学者は自分の何を知っているのか?イヤリングの意味は、過去をイヤリングを付ける関連性は?とめどなく疑問は湧いてくるが、それについて考えるのは明日にすることにした。男の素性については別室にいる帝都関係者に告げれば彼らが調べることだろう。ルリはとにかく眠りたくなっていた。封筒はイヤリングと共に引き出しに収め寝ることにした。眠れる時に寝るそれが一番なのだ。

 気が付くとそこは見慣れない部屋、寝室のようだった。石造りの白い壁が光を受けほんのりと輝いている。光はベランダへと向かうガラス扉から差し込んでいるようだ。天井から床まである大きなガラス扉とは豪勢なことだ。床には扉に施された幾何学模様がそのまま影として映り込んでいる。
 ベッドから立ち上がり窓辺へ、そしてベランダへと出る。そこから見えるのは緑あふれる庭園。野放図に繁茂しているように見えてきちんと管理されている。目の前に広がる石造りで丸屋根の建物群。それらに繋がる歩道は綺麗に掃き清められていることでそれがわかる。
 ここでルリは今見ている光景がよく見る悪夢の別形態であることに気が付いた。自分に行動の自由はなく、何者かの眼によってそこで起こる出来事を否応なく見せつけられるのだ。悪夢では床には死体が転がる地下書庫をランタン片手に歩きまわる様を延々と見せられ、最後はいつも決まった本の前で止まりそこにある本に手を伸ばす。そこで悲鳴を上げ目覚める。ルリ自身は薄気味悪い書庫が旧知の場所であると確信はあるのだがそれがどこかは思い出せなかった。
 彼女としては眼前に広がる緑の海を今しばらく眺めていたかったが、やはりそれはかなわなかった。ほどなく身体の主は身を翻し寝室へと戻っていった。室内には人影があった。笑みを浮かべた女性が二人、彼女達はこちらに向かって頭を下げた。

 水底から浮かび上がるように靄の中から抜け出した先は、陽光が消え失せ月の光が差し込む療養所の病室だった。ルリは少し身体を起こし辺りを窺った。部屋ばかりか廊下も静寂に包まれている。足早に近づいてくる看護師の足音もない。不意に窓辺から音がしてそちら目をやるが何のことはない。強めの風が窓を揺らしたにすぎなかった。
 ルリは枕に頭を落ちつけ、夢の内容を思い返してみた。夢の中で彼女はまるで女王のような存在だった。彼女の前に現れた人物は年齢、男女問わず笑みを浮かべ頭を下げる。宮殿のような建物の中を数人取り巻き達と共に歩き、木々が生い茂る遊歩道を抜けて行く。先にあるのは他とは一回り巨大なの建物。ルリと取り巻きは何か会話を交わしているようなのだが、ルリに言葉は聞こえない。
 
 夢について考察しているうちに眠りに落ち、気が付けば看護師が傍にいた。思いのほか長く眠り、とうに日が昇り朝食の時間も過ぎていたのだ。看護師はルリが目覚めたことに気づき、ただの寝坊であることを確認してから彼女のための朝食を取りに行った。
 起きるのは遅れたものの薬は入っていないため、気分はすっきりルリとしては上々の朝である。昨夜の奇妙な夢の影響はどこにも出ていない。しかし、彼女としては気になるのは後の展開である。宮殿で過ごす日々が地下書庫の出来事へと繋がっていくことがあるのか。夢の続きがあるとしての話だが。
 
 この日の日中はいつもと変わらず食事と散歩、他の雑事をこなし夜となった。いつもと変わらぬ眠りにつくと、そこはまた宮殿の中で夢は当然のように続いた。相変わらずルリに自由はなく何者かの中に囚われ動いている。視界に現れる手や脚から見て浅黒い肌を持つ女であること、そして、権力者であることも部屋にある装飾品、調度品から察することができた。
 前日と同じくベランダへと出た女はしばらくして寝室へと戻った。そこには昨日も目にした二人の女性が立っていた。彼女達の手により速やかに時に力強くそして繊細な手つきで、着替えと化粧が施されていく。裾や襟元他細かな仕上げが完了し、彼女達は少し離れてわたしを眺めた。そして満足そうに笑みを浮かべた。
 一人が傍の壁に立てかけてあった鏡を持ちあげ、目の前へやって来た。ルリより小柄で華奢な体格であるのも関わらず、一抱えある大きさの鏡を平然と扱っている。
 彼女が抱える鏡には黒髪で浅黒い肌の女が映っていた。一瞬誰かと思いはしたが、眼を凝らすまでもない、色違いではあるが自分に違いない。今は瞳以外は真っ白の石像のような身体だが、こちらは人並みの色付けがされている。
 この夜も夢は宮殿内を歩き回るだけで終わった。この派手な身なりで宮殿をうろつく女は自分とみてもよいだろうとルリは確信した。

 毎夜、宮殿の夢は続き数日経った。昼間の散歩はそれについての考察の時間となった。宮殿は広大な緑の中にあるようだ。そして、自分はそこの主のような存在である。ルリはそこまでは理解したが、なぜ自身がそこまでの権力を行使できるのかはわからなかった。これまでルリが目にしたのは宮殿内をふらふらと歩く姿ばかりで、仕事をしているようすはない。どこかに向かい歩いている途中で眼が覚めるという雰囲気か。毎回同じ建物の扉の前で夢は終わる。凝った植物のレリーフが施されている扉以外は取りたてて特徴はない丸屋根の白く小さな建物である。
 不意に思考を妨げる刺激を感じ、顔を上げ周囲を見回した。右側の少し離れた場所に看護師が立っていた。小柄で浅黒い肌の女性。数日前に彼女がロマン・フェルなる学者からのメモをルリの元へ持ってきたのを思い出した。
 彼女はルリと目が会うと足早に西病棟へと駆けこんでいった。ルリも速やかに立ち上がり彼女の後を追った。しかし、駆け込んだ病棟の中には人影はなかった。彼女はここに間違いなく入ったはずだが、突き当たりまで見とおすことができる廊下で姿を消している。彼女は一体どこにいったのか?奥まで並ぶ部屋のいずれかに侵入したのか?
 納得できないルリは目の前に並ぶ部屋の扉の施錠を順番に確かめた。どれもしっかりと鍵が掛けられており、誰かが中に潜んでいるとしても、うかがい知ることはできない。待っていればどこかの部屋から姿を現すかと思ったが、そこまでする気もない。ルリはもう引き揚げることにした。
 また、妙な気配を感じたが誰もいない。廊下は無人のまま、しかし何かの気配はある。扉の傍の壁の辺り。
 ルリはそれに驚くことはなかった。これが精霊なる存在かと感じただけだった。このような施設なら居ついてしまった精霊がいても不思議ではない。看護師にききたい話はあるが、それは次回にすることにした。
 
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