韓伯4  殷仲堪と韓伯

文字数 695文字

ある人が袁恪之(えんかくし)に聞いた。

殷仲堪(いんちゅうかん)
 韓伯(かんはく)殿と較べるとどうでしょう?」

まーたそう言う危ないネタを。
うかつにその辺
比較できるわけねえだろうよ。

袁恪之、答えるよ。

「私では、彼らの清談の腕の優劣を
 判別することはできない。

 ただ名士然として
 風流であることにかけては、
 殷殿は韓殿に及ぶまい」

このコメントを踏まえて殷仲文は、
韓伯に宛てての追悼文で、
以下のように記している。

「昼間にも門は柴に覆われ、
 ひっそりとした庭は穏やかである」

何人も深くは受け入れず、
その心持は常に穏やかであった、
と言ったあたりだろうか。



有人問袁侍中曰:「殷仲堪何如韓康伯?」答曰:「理義所得,優劣乃復未辨;然門庭蕭寂,居然有名士風流,殷不及韓。」故殷作誄云:「荊門晝掩,閑庭晏然。」

有る人は袁侍中に問うて曰く:「殷仲堪は韓康伯とで何如?」と。答えて曰く:「理義の得る所、優劣は乃ち復た未だ辨ぜざらん。然れど門庭の蕭寂とし、居然として名士が風流を有せるに、殷は韓に及ばず」と。故に殷の作したる誄に云えらく:「荊門は晝も掩われ、閑庭は晏然とす」と。

(品藻81)



袁恪之
えっ誰? 陳郡(ちんぐん)袁氏のひとなの? 陳郡袁氏は全然系列がわからない。かれが誰に接続するか、全くわからない。
義熙(ぎき)年間、つまり劉裕(りゅうゆう)桓玄(かんげん)を倒し、権勢を伸ばしていく時期に侍中にまでなったという事なので、袁氏の中でもかなりの盛流ではあると思うのだが。
今調べたら仏教の歴史に関する本「弘明集」で桓玄の詔に対する回答、と言う形での書が残されており、桓玄幕下で働いていた人物ではあったようだ。
えっ桓玄の詔に答えるような立場の人が劉裕政権下でも高官だったの? 結構重要なひとじゃね?
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