楽広2 指不至至不絕
文字数 1,272文字
議論のテーマを提示する。
「指して至らず、
とはどういう事でしょう?」
ははぁ、あれね。
楽広、敢えて客からの問いかけに
殊更の質問を投げかけることもなく、
扇子の柄を机にこつん、とぶつけた。
「至ったかな?」
「至りました!」
そこで楽広、扇子の柄を机から離す。
「だが、どうだろうね。
本当に至ったのであれば、
どうして離れられるのだろう?」
あぁ、そういうことか!
客は、その説明でガッテンした。
楽広の言葉がシンプルで、
かつ的確に要点を示すのは、
大体においてこんな感じなのである。
えっ?
客問樂令「旨不至」者,樂亦不復剖析文句,直以麈尾柄确几曰:「至不?」客曰:「至!」樂因又舉麈尾曰:「若至者,那得去?」於是客乃悟服。樂辭約而旨達,皆此類。
客の樂令に問える「旨は至らざりき」にて、樂は亦た復び文句を剖析せず、直ちに麈尾が柄を以て几を确して曰く:「至るや不や?」と。客は曰く:「至れり!」と。樂は因りて又た麈尾を舉げて曰く:「若し至らば、那んぞ去れるを得んか?」と。是に於いて客は乃ち服せるを悟る。樂が辭の約にして旨に達せるは、皆な此の類なり。
(文學16)
訓読を終えたぼく
「なにをいってだこいつら」
指不至,至不絕
物事をどう詳細に説明してもそれが物事そのものになることはないし、仮に物事そのものと一体化できたとすれば、そうなったらもはや説明なぞしようがない、というのがその大意のようだ。そう言う説明を受ければ、まぁ老荘における「道は説明のしようがないし、いざ道と一体化してしまえば、そのひとはもはや道について説明をする術を持たない」みたいな話に接続してくる感じはある。
以上を踏まえると、このエピソードが何を示しているかは、大体こんな感じになるだろうか。
指不至,至不絕というテーマについて、どう客に理解させるか。そこで楽広、扇子の柄で机を指し示した。これによって扇子の柄が「机」を示したことになる。客も「これは机です」と理解した。だがその後に扇子の柄を机から離してしまえば、扇子の柄から「これは机です」という意味合いが失せてしまう。扇子の柄による説明は、結局机が机であったことそのものとは真に合致していない、つまり説明はし切れていないのだ、と……
いや馬鹿じゃねえのお前ら?
一方で、こういうロジックパズル的なものに挑むことによって、思考が深化した側面もあったりするんだろうから、例えば以前に出てきた白馬論(白馬は馬ではない、的なアレ)なんかも好んで議論のテーマとして取り上げられたりしたのだろう。
世説新語が初心者向けって呼ばれる理由、ようやくピンときたわ……こう言う面倒くさい議論、極力遠ざけてるもんな。けど、その片鱗だけはちゃんとのぞかせている、と。なるほどねぇ。