095 アイオイ親方と陰麓の黒屍(2)
文字数 2,080文字
翌朝、村人たちは正門を開けて、槍を手に曹長の軍隊へと突撃した。それは陽動作戦で、その隙にアイオイ親方とミブハヤトルは隠し穴から村を脱出した。
二人がどこを目指したか? たいていは『南にある黒く溶けた広大な平野』と聞いたよね。でもシロギク爺さんは違う解釈だった。
『黒屍がいるのは永遠の闇さ。それがなんであるかなんて誰も分からない。知る必要がないからだ。……アイオイ親方たちが黒屍と会うのに時間はかからなかっただろう。あっという間に会えたさ』
生きているものは何もいない。二人は爆風で崩れた町を越えた。さらには熱風で溶けた町を進んだ。やがて、何も存在しなくなった。巨大な遺跡が骨のように影のように立っているだけだ。ここが陰麓だなと親方は悟った。その中へと入っていった。
並の人間の倍の背丈である影ような人間が、立ったままで二人を待っていた。
*
「子どもの頃は、この話が大嫌いだった。怖かった」
ツユクサが落ち着かない感じにひそひそと話す。「いま聞いても嫌な話だね」
「僕だって怖いよ。なんていうか、蜘蛛に捕らえられた蛾みたいな気分にさせる」
言葉と裏腹にゴセントは超然とした態度だ。
「弟くん静かにしてくれ」
カツラは暗い声色のままだ。「色男は端折らずに話してくれ」
「二人で見張りに行こう」
ゴセントが槍を持つ。ツユクサとともに真っ暗闇へと向かう。
ツヅミグサは語りなおす。
*
アイオイ親方とミブハヤトルは黒屍と出会い、子どもだったツユクサぐらいに怯えだした。二人は彼に会いにきたのに、きびすを返して逃げてしまった。
でも、そこはすでに陰麓だった。外へと向かったはずなのに、二人は気づくと山よりも高い廃墟の頂上にいた。黒い平原に黒い雨が降るのを見た。
それを浴びながら、黒屍がそこにいた。周囲には彼の従者が影のように何人も漂っていた。
「アイオイよ。お前は生きているのに、何故ここに現れた?」
黒屍に聞かれる。
「村人と私の家族を曹長の兵士たちから守るためです。カブから守るためです。代わりに私の命を差しだすのはいかがでしょうか?」
「その願いは非常に陳腐だ。私の命の代わりに子どもたちを、俺の命の代わりに妻を。さんざん聞かされてきた。だから私は耳を傾けない」
黒屍は陰鬱で感情なき瞳を向ける。
「しかも、お前の村を囲む兵士たちを追い払えと言っている。彼らにも家族はいるのだぞ? アイオイの妻子を救うために、奴らを陰麓に送るのか? 公平ではないぞ」
「たしかにそうですね」
親方は納得する。「ならばカブだけ追い払ってください。ついでに食料も欲しいです」
「私は取引はしない。だがアイオイは賓客だ。帰るまで歓待しよう。――者どもよ、この男に食事をもてなしてやれ」
「こんなところの物を口にしちゃ駄目ですよ。病になって死ぬ」
ミブハヤトルが小声で言う。
「私たちは空腹に慣れています。それより勝負をしましょう。私が勝ったら村からカブを追い払う」
「いいだろう。だが相手をするのは私ではない」
親方は、腐ったボロ布のような黒屍の手下と戦うことになった。手加減せずに殴りつけた。手下に触れたとたん拳が凍りついた。氷は右腕全体に広がり、痛みもないまま腕は崩れ落ちた。
「生きている者が死者と戦うとは、おこがましい」
黒屍は腕を失った親方を一瞥する。「アイオイが明日もいるのならば会ってやろう。だが帰っていいのだぞ」
黒屍は影が影に覆われるように消えていった。
「ひどい、ひどすぎる」
ミブハヤトルは憤慨するけど、黒屍の従者にすら近寄れなかった。
「腕はもう一本ある。明日会ってくれると言ったのだから、雨が当たらぬ場所を探して休むとしよう」
命を差しだす覚悟なのだから腕など不要だ。アイオイ親方とミブハヤトルは凍える廃墟で震えて寝た。
小鳥などいない場所だけど、ずっと真っ暗だけど、親方たちは朝になったと思われる時間に再び頂上へと向かった。ここは寒い。いつまでも暗くて寒い。二人とも震えながら歩いた。
「アイオイ親方よ、ゆっくりと休めたか?」
黒屍はすでにいた。
「私は一晩寝ないで考えたんですけど」
親方が目ヤニのついた顔で答える。「長が腕一本失ったのだから、村のカブを半分に減らしてください」
「都合のよい理屈には従わないが、物語を聞かせてあげよう。陰麓の物語だ。この話を喝采してくれたならば、私も応えないとならない」
しめしめと、ミブハヤトルは思った。行儀よく聞いて拍手すればいいのならば、アイオイ親方の思いを認めたも同然だ。
二人は姿勢を正して、黒屍の物語を聞いた。
「ここはデンキ様に愛された楽園だった。だが、よその人からは憎まれていた。その日、すでに何度も終わりを味わされていた人々は、西の空から低く飛んでくる星へと、最後となる絶望の眼差しを向けた。すぐに蒸発するか、モグラのごとく土へと逃げてじっくりと苦しむか、どちらかを選ぶしかなかった――」
黒屍の話は耳を覆いたくなるものだった。心胆を凍らすものであった。
「もうやめてくれ!」
親方が悲鳴を上げる。すると、その耳が落ちた。心臓が凍てついた。
二人がどこを目指したか? たいていは『南にある黒く溶けた広大な平野』と聞いたよね。でもシロギク爺さんは違う解釈だった。
『黒屍がいるのは永遠の闇さ。それがなんであるかなんて誰も分からない。知る必要がないからだ。……アイオイ親方たちが黒屍と会うのに時間はかからなかっただろう。あっという間に会えたさ』
生きているものは何もいない。二人は爆風で崩れた町を越えた。さらには熱風で溶けた町を進んだ。やがて、何も存在しなくなった。巨大な遺跡が骨のように影のように立っているだけだ。ここが陰麓だなと親方は悟った。その中へと入っていった。
並の人間の倍の背丈である影ような人間が、立ったままで二人を待っていた。
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「子どもの頃は、この話が大嫌いだった。怖かった」
ツユクサが落ち着かない感じにひそひそと話す。「いま聞いても嫌な話だね」
「僕だって怖いよ。なんていうか、蜘蛛に捕らえられた蛾みたいな気分にさせる」
言葉と裏腹にゴセントは超然とした態度だ。
「弟くん静かにしてくれ」
カツラは暗い声色のままだ。「色男は端折らずに話してくれ」
「二人で見張りに行こう」
ゴセントが槍を持つ。ツユクサとともに真っ暗闇へと向かう。
ツヅミグサは語りなおす。
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アイオイ親方とミブハヤトルは黒屍と出会い、子どもだったツユクサぐらいに怯えだした。二人は彼に会いにきたのに、きびすを返して逃げてしまった。
でも、そこはすでに陰麓だった。外へと向かったはずなのに、二人は気づくと山よりも高い廃墟の頂上にいた。黒い平原に黒い雨が降るのを見た。
それを浴びながら、黒屍がそこにいた。周囲には彼の従者が影のように何人も漂っていた。
「アイオイよ。お前は生きているのに、何故ここに現れた?」
黒屍に聞かれる。
「村人と私の家族を曹長の兵士たちから守るためです。カブから守るためです。代わりに私の命を差しだすのはいかがでしょうか?」
「その願いは非常に陳腐だ。私の命の代わりに子どもたちを、俺の命の代わりに妻を。さんざん聞かされてきた。だから私は耳を傾けない」
黒屍は陰鬱で感情なき瞳を向ける。
「しかも、お前の村を囲む兵士たちを追い払えと言っている。彼らにも家族はいるのだぞ? アイオイの妻子を救うために、奴らを陰麓に送るのか? 公平ではないぞ」
「たしかにそうですね」
親方は納得する。「ならばカブだけ追い払ってください。ついでに食料も欲しいです」
「私は取引はしない。だがアイオイは賓客だ。帰るまで歓待しよう。――者どもよ、この男に食事をもてなしてやれ」
「こんなところの物を口にしちゃ駄目ですよ。病になって死ぬ」
ミブハヤトルが小声で言う。
「私たちは空腹に慣れています。それより勝負をしましょう。私が勝ったら村からカブを追い払う」
「いいだろう。だが相手をするのは私ではない」
親方は、腐ったボロ布のような黒屍の手下と戦うことになった。手加減せずに殴りつけた。手下に触れたとたん拳が凍りついた。氷は右腕全体に広がり、痛みもないまま腕は崩れ落ちた。
「生きている者が死者と戦うとは、おこがましい」
黒屍は腕を失った親方を一瞥する。「アイオイが明日もいるのならば会ってやろう。だが帰っていいのだぞ」
黒屍は影が影に覆われるように消えていった。
「ひどい、ひどすぎる」
ミブハヤトルは憤慨するけど、黒屍の従者にすら近寄れなかった。
「腕はもう一本ある。明日会ってくれると言ったのだから、雨が当たらぬ場所を探して休むとしよう」
命を差しだす覚悟なのだから腕など不要だ。アイオイ親方とミブハヤトルは凍える廃墟で震えて寝た。
小鳥などいない場所だけど、ずっと真っ暗だけど、親方たちは朝になったと思われる時間に再び頂上へと向かった。ここは寒い。いつまでも暗くて寒い。二人とも震えながら歩いた。
「アイオイ親方よ、ゆっくりと休めたか?」
黒屍はすでにいた。
「私は一晩寝ないで考えたんですけど」
親方が目ヤニのついた顔で答える。「長が腕一本失ったのだから、村のカブを半分に減らしてください」
「都合のよい理屈には従わないが、物語を聞かせてあげよう。陰麓の物語だ。この話を喝采してくれたならば、私も応えないとならない」
しめしめと、ミブハヤトルは思った。行儀よく聞いて拍手すればいいのならば、アイオイ親方の思いを認めたも同然だ。
二人は姿勢を正して、黒屍の物語を聞いた。
「ここはデンキ様に愛された楽園だった。だが、よその人からは憎まれていた。その日、すでに何度も終わりを味わされていた人々は、西の空から低く飛んでくる星へと、最後となる絶望の眼差しを向けた。すぐに蒸発するか、モグラのごとく土へと逃げてじっくりと苦しむか、どちらかを選ぶしかなかった――」
黒屍の話は耳を覆いたくなるものだった。心胆を凍らすものであった。
「もうやめてくれ!」
親方が悲鳴を上げる。すると、その耳が落ちた。心臓が凍てついた。