084 蛮勇
文字数 2,173文字
ツヅミグサはランプで地面だけを照らす。藪に隠れた小道を斧でかき分ける。
……くそ力でなければこんなものを武器で扱えない。なのに槍を置いてきてしまった。なのに犬がまた吠えだした。唾に苦い味がしてきた。立ちどまれば足は震えているだろう。
「こっちだ」
木の影からハシバミの声がした。「月が照らしているからランプは不要だよ。斧は見えるところに転がしておこう……わざと置いていったのが分かるように地面に刃を立てておいて」
ハシバミの足もとでは、泥だらけのホシクサが嗚咽をこらえていた。ニシツゲが肩を抱いている。
「あと二人は、僕とツヅミグサが連れてくる。ニシツゲは奥さんをアスファルトまで頼む。そこから山側へ進めばカツラたちと合流できる」
ツヅミグサは一緒にうなずきながら即座に気づく。
二人だけで突入だと? 俺らの長は恐怖を抱かないのか? しかもハシバミは淡々と言うので、ツヅミグサはさらに怖くなってきた。
「俺がニシキギを救いにいく。妻はあなたたちに頼みたい」
「長の命令だよ。従えない者は村に不要だ」
それでもそう言って、ツヅミグサはランプをニシツゲに渡す。太ももを爪で抉るほどにつねって震えを抑えようとする。
「ローリーは意気地がない。ヨツバが横で寝ていても何もできない男。あれは無理かもしれない」
ホシクサが立ち上がる。「ニシキギだけをお願いします」
母親は残酷なほどに強いな。この人こそ村の力になるとハシバミは感じる。
「私たちはランプなき生活に慣れているので不要だ」
「だったら帰り道で使わせてもらう。沢で転ばないようにね」
そう笑いかけて、ハシバミはツヅミグサと再びナトハン家を訪れる。
***
母屋は何もなかったように静まっていた。レッドリバーの末裔だけが騒いでいる。
気配に弓を向けると、ローリーが広場の隅でうずくまり泣いていた。
「ニシキギは?」ハシバミがしゃがんで聞く。
「あ、あっち」ローリーが芋畑を指さす。
むき出しの広い場所。泣き声は聞こえない。犬の吠え声にかき消されているのかも……。こいつは子どもを助けにいかなかった。見捨てて、こいつは一人で泣くだけ。
「お前は沢を目ざせ。他の人と合流しろ」
ハシバミは冷たく言い放つ。
「ランプは?」
「途中に置いてある」
ローリーが嗚咽しながら藪へと這う。
ハシバミとツヅミグサは畑へと匍匐する。犬は思いだしたように吠える。
雲は半月を覆ってくれない。
「芋泥棒みたいだな」ツヅミグサが背後で言う。畑荒らしは人殺しより罪が重い。
「なんであれ見つかれば死骸になってぶら下がる」
ハシバミが答える。
「お兄ちゃん?」
子どもの声が横の茂みからした。
「すぐに会わせてあげるから静かにね」
ツヅミグサが向きを変える。
「おじさんたちのがうるさいよ」
ニシキギが答える。さっきまで泣きじゃくっていたのに、この子も強い。
ツヅミグサがニシキギを抱える。ハシバミは母屋に注意しながらむき出しの地を屈んで歩く。……犬がうるさい。いまにも人が出てきそうだ。でも藪の小道まで数メートル。……ローリーはどこだ? あの馬鹿は小屋の前に戻りやがった。何をしたいんだ?
犬が吠えている。奴隷が逃げたと主たちに教えている。いまにも人が出てくるぞ。……ほら、やっぱり。
「一人でおしっこできるのに」
七八歳ぐらいの女の子の声がした。
「野犬がいるのだよ。それに、じつはおじちゃんは漏らしそうなんだ」
男の声が続く。
仕方ないわね、ふふふ。
女の子がませて笑う。
ハシバミはうつ伏す。ツヅミグサも子どもの口に手を当てて体を低くする。
「モガミがうるさいな。でも……なにか聞こえるよ」
少女の歌うように甲高い声は犬の吠え声にかき消されない。「おじちゃん見て。ローリーが逃げている」
「ジ、ジングウ様。おゆるしください。私は戻ってきたのです」
ローリーが立ち上がる。
呼子笛が空気を震わせ、母屋二階が蛍みたいに灯った。
「ルミを家に戻せ。ルミを家に戻せ。沢の道を封鎖しろ。はやくルミを戻せ!」
長の怒声が響いた。また窓が開く。「見つけたぞ。昼間の若者か?」
「ツヅミグサ走れ」
ハシバミも立ち上がる。「僕が囮になる」
ハシバミが芋畑へと駆けるのを月に青く照らされる。
「……無茶すぎるよ」
「おじちゃん、はやくアオタケに会いたい」
怯えてしまったツヅミグサを、子どもが意図せず叱咤する。
「お兄ちゃんと呼べよ。暗いから分からないか」
ツヅミグサは藪へと飛びこむ。光が差しこめない闇へともぐる。
小道へ合流しろ。ランプを拾え。……追われたらどうする? 子どもを見捨てるな? なんで俺はここにいる?
ツヅミグサは反吐をこらえきれない。
*
開けた土地。夜目がきくハシバミは畑の畝を飛び越えて走る。はずれの森が見えた。逃げきれた。夜の僕を追えるはずない。あとは林を無理せず移動しても、明け方にはカツラたちと合流できる……。
銃声が聞こえない。僕に気づかずツヅミグサを追っている? 銃口はあっちを狙っている?
ハシバミは立ちどまる。振り返る。両手を振ってやれ。
「こっちにもいる――」
右の太ももを衝撃が貫いた。ハシバミは仰向けに転がる。
*
銃声にびくりとした。
「馬鹿を一人仕留めたぞ。長兄はそいつを捕らえろ。私も向かう」
ナトハン家の長の声を、ツヅミグサは藪の中で聞いた。
……くそ力でなければこんなものを武器で扱えない。なのに槍を置いてきてしまった。なのに犬がまた吠えだした。唾に苦い味がしてきた。立ちどまれば足は震えているだろう。
「こっちだ」
木の影からハシバミの声がした。「月が照らしているからランプは不要だよ。斧は見えるところに転がしておこう……わざと置いていったのが分かるように地面に刃を立てておいて」
ハシバミの足もとでは、泥だらけのホシクサが嗚咽をこらえていた。ニシツゲが肩を抱いている。
「あと二人は、僕とツヅミグサが連れてくる。ニシツゲは奥さんをアスファルトまで頼む。そこから山側へ進めばカツラたちと合流できる」
ツヅミグサは一緒にうなずきながら即座に気づく。
二人だけで突入だと? 俺らの長は恐怖を抱かないのか? しかもハシバミは淡々と言うので、ツヅミグサはさらに怖くなってきた。
「俺がニシキギを救いにいく。妻はあなたたちに頼みたい」
「長の命令だよ。従えない者は村に不要だ」
それでもそう言って、ツヅミグサはランプをニシツゲに渡す。太ももを爪で抉るほどにつねって震えを抑えようとする。
「ローリーは意気地がない。ヨツバが横で寝ていても何もできない男。あれは無理かもしれない」
ホシクサが立ち上がる。「ニシキギだけをお願いします」
母親は残酷なほどに強いな。この人こそ村の力になるとハシバミは感じる。
「私たちはランプなき生活に慣れているので不要だ」
「だったら帰り道で使わせてもらう。沢で転ばないようにね」
そう笑いかけて、ハシバミはツヅミグサと再びナトハン家を訪れる。
***
母屋は何もなかったように静まっていた。レッドリバーの末裔だけが騒いでいる。
気配に弓を向けると、ローリーが広場の隅でうずくまり泣いていた。
「ニシキギは?」ハシバミがしゃがんで聞く。
「あ、あっち」ローリーが芋畑を指さす。
むき出しの広い場所。泣き声は聞こえない。犬の吠え声にかき消されているのかも……。こいつは子どもを助けにいかなかった。見捨てて、こいつは一人で泣くだけ。
「お前は沢を目ざせ。他の人と合流しろ」
ハシバミは冷たく言い放つ。
「ランプは?」
「途中に置いてある」
ローリーが嗚咽しながら藪へと這う。
ハシバミとツヅミグサは畑へと匍匐する。犬は思いだしたように吠える。
雲は半月を覆ってくれない。
「芋泥棒みたいだな」ツヅミグサが背後で言う。畑荒らしは人殺しより罪が重い。
「なんであれ見つかれば死骸になってぶら下がる」
ハシバミが答える。
「お兄ちゃん?」
子どもの声が横の茂みからした。
「すぐに会わせてあげるから静かにね」
ツヅミグサが向きを変える。
「おじさんたちのがうるさいよ」
ニシキギが答える。さっきまで泣きじゃくっていたのに、この子も強い。
ツヅミグサがニシキギを抱える。ハシバミは母屋に注意しながらむき出しの地を屈んで歩く。……犬がうるさい。いまにも人が出てきそうだ。でも藪の小道まで数メートル。……ローリーはどこだ? あの馬鹿は小屋の前に戻りやがった。何をしたいんだ?
犬が吠えている。奴隷が逃げたと主たちに教えている。いまにも人が出てくるぞ。……ほら、やっぱり。
「一人でおしっこできるのに」
七八歳ぐらいの女の子の声がした。
「野犬がいるのだよ。それに、じつはおじちゃんは漏らしそうなんだ」
男の声が続く。
仕方ないわね、ふふふ。
女の子がませて笑う。
ハシバミはうつ伏す。ツヅミグサも子どもの口に手を当てて体を低くする。
「モガミがうるさいな。でも……なにか聞こえるよ」
少女の歌うように甲高い声は犬の吠え声にかき消されない。「おじちゃん見て。ローリーが逃げている」
「ジ、ジングウ様。おゆるしください。私は戻ってきたのです」
ローリーが立ち上がる。
呼子笛が空気を震わせ、母屋二階が蛍みたいに灯った。
「ルミを家に戻せ。ルミを家に戻せ。沢の道を封鎖しろ。はやくルミを戻せ!」
長の怒声が響いた。また窓が開く。「見つけたぞ。昼間の若者か?」
「ツヅミグサ走れ」
ハシバミも立ち上がる。「僕が囮になる」
ハシバミが芋畑へと駆けるのを月に青く照らされる。
「……無茶すぎるよ」
「おじちゃん、はやくアオタケに会いたい」
怯えてしまったツヅミグサを、子どもが意図せず叱咤する。
「お兄ちゃんと呼べよ。暗いから分からないか」
ツヅミグサは藪へと飛びこむ。光が差しこめない闇へともぐる。
小道へ合流しろ。ランプを拾え。……追われたらどうする? 子どもを見捨てるな? なんで俺はここにいる?
ツヅミグサは反吐をこらえきれない。
*
開けた土地。夜目がきくハシバミは畑の畝を飛び越えて走る。はずれの森が見えた。逃げきれた。夜の僕を追えるはずない。あとは林を無理せず移動しても、明け方にはカツラたちと合流できる……。
銃声が聞こえない。僕に気づかずツヅミグサを追っている? 銃口はあっちを狙っている?
ハシバミは立ちどまる。振り返る。両手を振ってやれ。
「こっちにもいる――」
右の太ももを衝撃が貫いた。ハシバミは仰向けに転がる。
*
銃声にびくりとした。
「馬鹿を一人仕留めたぞ。長兄はそいつを捕らえろ。私も向かう」
ナトハン家の長の声を、ツヅミグサは藪の中で聞いた。