002 見知らぬ存在

文字数 2,006文字

 五月だから、川はまだ優しい。ひと月足らずで豹変する。頻発するスコールが始まり川幅は数倍になり、丘の村は外の世界から閉ざされる。標高の低い場所に家を建てて、濁流に飲まれるよりはましだ。
 どっちにしろ、台風という抵抗できぬ悪魔の気分次第で、すべて終わりを告げるけど。

 ハシバミは、六年前の台風で崩壊した、川を挟んだ丘を見上げる。大ナメクジがいくつも這ったような土砂崩れの跡がまだ分かる。そこに村があった痕跡は見るたびに薄れていく。



 ハシバミとゴセントは川までは下りず、小さな渓流に向かう。

「前回は僕が場所を選んだからだ。ゴセントが決めたのだから、今度はうまくいったはず」

 ハシバミは岩に上半身を乗せて、水に手を突っこむ。人の腕を太らせたほどの透明な容器を引きずりだす。「ほらね」

 ペットボトルと呼ばれたものを加工した中に、アブラパヤが二匹、ヤマメが一匹捕らえられていた。まだ生きている。ハシバミは罠を立たせて弟に渡す。

「水が入ったままだと陽に当てるとキラキラするんだよね」

 ゴセントは中身より容器に興味があるみたいだ。ごちそうを独占できるというのに。
 ハシバミは背中からリュックサックを降ろす。火起こしの用意に取りかかる。

「ハシバミ、残念だよ」

 ゴセントは下流を見ていた。男が二人川伝いに登ってきた。上士だ。

「西の若衆……ハシバミだったよな?」
 一人がにやつきながら言う。「たくさん捕れたか? そっちのチビ、俺に見せろ」

 ゴセントはペットボトルを背中にまわす。この村の自警団を兼ねる上士である二人は二十代半ば。槍を手にして、肩には弓を背負っている。カーキ色に染めた作業着は軍服みたいだ。ハシバミは一人だけ名前を知っていた。

「ホソバウンランさん、物見からお戻りですか? お疲れ様です。それでですね……、この罠は弟が仕掛けたものです」
「それがどうした? 俺のために捕ったのだろ?」

 上士の二人はまだ笑ってくれている。ゴセントは罠ごと彼らに差しだすと、下流へと岩伝いに去る。ハシバミも会釈せずに立ち去る。



「最悪だ。こんなことばかりだ」
 小道に戻ったハシバミが毒づく。「いつも同じ。『イノシシを捕らえただと? お前たちは骨でもしゃぶれ』『かわいい女の子だな。俺と付き合え。お前は消えろ』もし僕が上士になったなら、若衆に優しくする」

 姉も十六歳で特権階級出身の上士に差しだされた。彼らは妻を何人でも娶れる。養うために、下の者をこき使う。

「ハシバミならばいずれ上士に推薦されるよ」
 ゴセントが立ち止まる。「僕はいつまでたっても大きくなれず、女の子とも仲良くできない。それより、そろそろ灯りをつけよう」

 まだ早くないかと思いながらも、ハシバミはリュックを背から下ろす。

「僕は上士になっても妻は一人だけでいい。もちろん軍務にはつくけど、だからって農作業をふんぞり返って監視しない。みんなと一緒に働く。……でも、いっそこの村から飛びだしたい」

 ランプを受け取ったゴセントが兄を見上げる。

「さっき僕は妙な気配がすると言ったよね。ちょっと見に行こう」

 そう言うと川へ灯りを向ける。

「今から? 安全だと思うならば行ってみよう」

 ハシバミは、年下のゴセントのが物事を知っていて分かっていると思っている。小柄な弟の意見に従うのを当然としていた。

 ゴセントは空気の匂いを嗅ぐような素振りをする。

「僕たちは大丈夫だよ。不安が近づいているのは村かもしれない」

 弟がランプを手に歩きだす。

 *

 丘と外の世界を分ける川へと降りる。ゴセントは舟番を避けるかのように上流をめざす。村に着くころには暗闇だ。そろそろ戻るべきだとハシバミは思う。でも弟には意見しない。彼の六感に従えば安全だし、食料にもありつける。子どものころから習ってきた。

 遠くで雷が鳴った。空を見ても雨雲は見えない。

「聞こえた?」ゴセントが青い顔で振り返る。

「うん。でも遠い。水かさは増すかもしれない」

「遠いけど……近い」
 ゴセントが鼻をひくひくする。川沿いの林に向かい、暗くなった地面を照らす。「ハシバミ、これだよ」

 ゴセントが何かをつまみあげる。貴重品が土で汚れていた。指さきほどの切れ端だろうと、紙は紙だ。使い道は百もある。受けとると、中から薬草をいぶったものがぱらぱらと落ちた。

「誰かが落としたのかな」
「違う。捨てたんだ。そいつらはまた現れる。ハシバミどうしよう。みんな死ぬ。村が燃える!」

 ゴセントがうずくまり震えだす。こんな弟は初めてだ。

「とにかく村に帰ろう」

「村に戻るだって?」ゴセントが悲鳴をあげる。「奴らは村に来るんだよ。丘は夕焼けより濃く血の色に染まる!」

「いい加減にしろ!」
 ハシバミはゴセントを無理やり抱き起こす。「もう暗くなる」



 黄昏の川原から、丘の村の若い兄弟が小走りで消える。原始的な作りであろうと、彼らの世代が紙巻き煙草を知るはずなかった。ましてや銃声など。
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