022 朝靄の向こう
文字数 1,745文字
「戻れるはずないだろ」
ハシバミは倒木から立ちあがる。「それに村に帰ると言うのか? 君たちは上士を刺したよな。殺されて舟着き場にぶら下げられるだけだ」
ましてやお前たちは村の人間じゃない。ハシバミはそう言いかけて黙る。
「だ、だからハイウェイまでだ」
ベロニカがハシバミの勢いに一歩下がる。「君は来た道を戻ることさえできないと言う。そんな奴が先に導くことなど――」
藪を漕ぐ音が近づいてきて、四人はそちらに目を向ける。尾根の上部で番をしていたカツラとゴセントだった。
「ハシバミ。上に視界がひろがる場所がある。ちょっとそこまで来てもらえないかな」
ゴセントが息を整えながら言う。
「君は行くべきだと思う。君の代わりに、俺がこいつらに言うことがある」
カツラが長刀で茨をかき分けながら降りてくる。
「コウリン。起きたら何より身支度をしろ。宿舎で毎朝言われていただろ。いまのお前は豚小屋から抜け出たみたいだぞ。ベロニカとアコンもだ。お前らに至ってはまるで――」
ハシバミはみなまで聞かずにゴセントのもとに行く。弟は黙ったままで槍を杖に登りだす。
尾根上に縦にも横にも2メートルほどの巨岩があり、そこに立てば確かに周囲を見渡せた。かと言っても、どこも雨あがりの朝靄に包まれている。ここは鳥の鳴き声さえも少ない。
ゴセントは黙って眺めるだけだ。
「僕に話があるんだよね」
ハシバミが声をかけてもゴセントは返事をしない。弟にはそんな時がある。ハシバミも鳥を見習い口をつぐんだ。
「今日はお前ら三人が先頭だ。面汚し野郎どもめ」
朝の森は静かだから、カツラの怒鳴り声がはっきり聞こえる。重たげな靄はゆっくりと薄くなっていく。
風がかすかに吹いて、ふいに景色が広がる。盆地が見えた。
「あそこだ!」
突然ゴセントが叫ぶ。「あそこが僕たちの住む場所だよ。川が近いけど標高は充分にある。傾斜は緩いし裏山から独立しているから、土石流に巻き込まれる恐れは少ない。緑の色もここと違う。乾いていて清潔だ。あそこに行こう、あそこに村を作ろう!」
盆地はまた靄というか霧に隠されようとしている。ハシバミは必死に見つめる。その先に――はるか遠くに低い丘陵地帯が見えた。舟を逆さに置いたような、細長い丘。
遠すぎるし、途中にはまた川がある。平地を横切らないとならない。
ゴセントの神託であろうとお話にならない。コウリンたちに聞かれなくてよかった。
ハシバミは首を横に振る。
「あんな遠くまで行けないよ。みんな疲れているし怒りだしている。まずはすぐ近くの安全そうな場所を仮の住みかとしよう。腰を据えて狩りをする。みんなの鋭気が回復したら、その時に考えよう。僕はできることを確実にやり遂げ――」
ゴセントが話を聞いてないことに気づく。また立ち込めた霧の向こうを必死に見つめていた。
「僕たちとあの丘の間を霧が塞いでいる。でも僕たちは霧を抜けていかないとならない」
ゴセントはぽつりと言う。
「うん。でもこの霧はじきに晴れる。東の空は明るい」
「晴れようが災難が待ちかまえている」
ハシバミは、ゴセントの様子がおかしいことに気づく。なにかに憑依されているような虚ろな瞳。
「あの丘にたどり着くまでに、僕たちがいかに弱者であるかを知る」
聞き取れないほどの小声になる。「それでも僕たちは走ることをやめない。逃げるために? 追うために? 違う、生きるためにだ!」
いきなり叫ぶとしゃがみこむ。おのれの体を抱きかかえる。
「歯向かうな!」カツラの怒鳴り声がした。
そろそろ戻らないといけない。
ハシバミはもう一度霧に包まれた景色を見る。うっすらとはるか先の丘陵が、そこだけ霧が晴れた。
その丘は白い川に浮かぶ舟のようにも見えた。
「ハシバミ……。僕はまたおかしくなっていたかな? 何も覚えていない」
弟が立ちあがる。おおきな黒い瞳が不安げだ。
「うん。でも僕は慣れているから平気だ。これからもまずは僕だけに相談した方がいいね」
「そうだね。……思いだした。僕が勧めたあの丘を君は反対した。しかし――」
「もういいよ」
ハシバミは槍を拾ってゴセントに持たせる。「みんなのところに戻ろう。そして旅を続けよう。でも、ここからは目的地がある旅だ」
そして僕たちは放浪者でなくなる。
ハシバミは倒木から立ちあがる。「それに村に帰ると言うのか? 君たちは上士を刺したよな。殺されて舟着き場にぶら下げられるだけだ」
ましてやお前たちは村の人間じゃない。ハシバミはそう言いかけて黙る。
「だ、だからハイウェイまでだ」
ベロニカがハシバミの勢いに一歩下がる。「君は来た道を戻ることさえできないと言う。そんな奴が先に導くことなど――」
藪を漕ぐ音が近づいてきて、四人はそちらに目を向ける。尾根の上部で番をしていたカツラとゴセントだった。
「ハシバミ。上に視界がひろがる場所がある。ちょっとそこまで来てもらえないかな」
ゴセントが息を整えながら言う。
「君は行くべきだと思う。君の代わりに、俺がこいつらに言うことがある」
カツラが長刀で茨をかき分けながら降りてくる。
「コウリン。起きたら何より身支度をしろ。宿舎で毎朝言われていただろ。いまのお前は豚小屋から抜け出たみたいだぞ。ベロニカとアコンもだ。お前らに至ってはまるで――」
ハシバミはみなまで聞かずにゴセントのもとに行く。弟は黙ったままで槍を杖に登りだす。
尾根上に縦にも横にも2メートルほどの巨岩があり、そこに立てば確かに周囲を見渡せた。かと言っても、どこも雨あがりの朝靄に包まれている。ここは鳥の鳴き声さえも少ない。
ゴセントは黙って眺めるだけだ。
「僕に話があるんだよね」
ハシバミが声をかけてもゴセントは返事をしない。弟にはそんな時がある。ハシバミも鳥を見習い口をつぐんだ。
「今日はお前ら三人が先頭だ。面汚し野郎どもめ」
朝の森は静かだから、カツラの怒鳴り声がはっきり聞こえる。重たげな靄はゆっくりと薄くなっていく。
風がかすかに吹いて、ふいに景色が広がる。盆地が見えた。
「あそこだ!」
突然ゴセントが叫ぶ。「あそこが僕たちの住む場所だよ。川が近いけど標高は充分にある。傾斜は緩いし裏山から独立しているから、土石流に巻き込まれる恐れは少ない。緑の色もここと違う。乾いていて清潔だ。あそこに行こう、あそこに村を作ろう!」
盆地はまた靄というか霧に隠されようとしている。ハシバミは必死に見つめる。その先に――はるか遠くに低い丘陵地帯が見えた。舟を逆さに置いたような、細長い丘。
遠すぎるし、途中にはまた川がある。平地を横切らないとならない。
ゴセントの神託であろうとお話にならない。コウリンたちに聞かれなくてよかった。
ハシバミは首を横に振る。
「あんな遠くまで行けないよ。みんな疲れているし怒りだしている。まずはすぐ近くの安全そうな場所を仮の住みかとしよう。腰を据えて狩りをする。みんなの鋭気が回復したら、その時に考えよう。僕はできることを確実にやり遂げ――」
ゴセントが話を聞いてないことに気づく。また立ち込めた霧の向こうを必死に見つめていた。
「僕たちとあの丘の間を霧が塞いでいる。でも僕たちは霧を抜けていかないとならない」
ゴセントはぽつりと言う。
「うん。でもこの霧はじきに晴れる。東の空は明るい」
「晴れようが災難が待ちかまえている」
ハシバミは、ゴセントの様子がおかしいことに気づく。なにかに憑依されているような虚ろな瞳。
「あの丘にたどり着くまでに、僕たちがいかに弱者であるかを知る」
聞き取れないほどの小声になる。「それでも僕たちは走ることをやめない。逃げるために? 追うために? 違う、生きるためにだ!」
いきなり叫ぶとしゃがみこむ。おのれの体を抱きかかえる。
「歯向かうな!」カツラの怒鳴り声がした。
そろそろ戻らないといけない。
ハシバミはもう一度霧に包まれた景色を見る。うっすらとはるか先の丘陵が、そこだけ霧が晴れた。
その丘は白い川に浮かぶ舟のようにも見えた。
「ハシバミ……。僕はまたおかしくなっていたかな? 何も覚えていない」
弟が立ちあがる。おおきな黒い瞳が不安げだ。
「うん。でも僕は慣れているから平気だ。これからもまずは僕だけに相談した方がいいね」
「そうだね。……思いだした。僕が勧めたあの丘を君は反対した。しかし――」
「もういいよ」
ハシバミは槍を拾ってゴセントに持たせる。「みんなのところに戻ろう。そして旅を続けよう。でも、ここからは目的地がある旅だ」
そして僕たちは放浪者でなくなる。