054 陰麓からの
文字数 2,036文字
ハシバミとカツラは背中を向き合わせて、川原の大きな石の影にひそむ。ツヅミグサとベロニカが転がるようにやってきた。
「川上からなにかが来た」ベロニカが報告する。
「見たのか?」ハシバミが聞く。
「うん。でも影になっていた。大きかった。僕は見つかっていないと思う」
ベロニカは上流へと木の影に隠れる。槍をかまえる。
「俺は音を聞いた。人の悲鳴のような声がしたけど、川の音がこの通りだからね」
そう言うと、ツヅミグサもベロニカの横にいく。こちらは手ぶら。
「人だと? 最悪じゃないか」
カツラがつぶやく。
沢の上をヤマセミが二羽下流へ飛んでいく。どんどん暗くなっていく。ハシバミの視力でも識別が難しくなってきた。
「人間とは決まっていない。――ベロニカはいきなり突かないように。ツヅミグサは誰でもいいから四人呼んできて。武器を持たせてな。残りは建物で待機するように言って」
「しっ。ハシバミ声がでかい」
ツヅミグサがよく通る声で言う。「いまのは何だ?」
最初はハシバミには聞こえなかった。流れの音だけ。虫の鳴き声もかき消されている。まつわる藪蚊の羽音はする。頬にたかるそいつを叩こうとして躊躇した。音をたてるな。そいつの声が聞こえた。
――あああ、おおお……
高くもなく低くもないけど、沢の音に途切れる。獣の鳴き声でも吠え声でもない。……人の声? そうだとしても、この世の声ではない。ハシバミは慄 いてしまう。
その声は再び聞こえ、ばたりとやむ。また沢の音と虫の羽音だけ。……今日も晴れていたよな。見あげれば梅雨の前に見納めな星空が見えだす頃だけど。それを楽しみにしていたのだけど。
「あんな声だすのは何者だ」
下流を向いていたカツラが隣に来た。長刀を低くかまえる。
「たまに臭かった。その匂いの主だ」
木の後ろでベロニカが影だけになって言う。
「獣じゃない!」
いきなりカツラが叫んだ。「動物であるものか。分からないのか? 君の村の――君の村のお話婆さんから聞いただろ。話してくれただろ?」
その顔は引きつっていた。
「ちがう!」ツヅミグサが叫びかえす。「あれは話だけの存在だ。さっきのは小鳥がチョウゲンボウに襲われた断末魔の声だ」
「俺たちだって小鳥だ」
カツラが立ち上がり、ささやくように言う。「ここは忌むべき場所だった。――黒屍。彼が迎えにきた」
「そんな声だすなよ」
ハシバミはカツラを座らせようとする。その手が震えているのに気づく。規則正しい沢の音。夜が四人にのしかかってくる。
また声が聞こえた。今度は聞き間違えようがない。人の声だ。でも、冷たい暗渠から響くような、絶望の声。
沢を歩く音も聞こえた。もうそこまで来ている。……その声は、今度ははっきりと聞こえた。
――神は滅んだ。仏も一緒に。残された者もみんな死ぬ! あああ……
「やめてくれよ」
ツヅミグサの影がしゃがみこむ。
「顔を上げろ! 冷静になれ」ハシバミが怒鳴る。
その時、さらにはっきりと聞こえた。
「……カツラ、ああ、カツラ……」
ハシバミさえも呆然としてしまった。すぐ隣にいる大男。誰がこいつの名前を知っている?
「行かなくちゃならない」
カツラが長刀を投げ捨てる。「呼ばれたら行かなくちゃならない。俺も昔の連中と同じ報いを受ける」
ハシバミは怯えていた。昔なんか知らない。でも、誰かがカツラを闇に呼んでいる。傷も治りきらないカツラを、滅びた人間たちがいる場所に連れ去ろうとしている。
カツラが上流へと歩きだす。
横柄であくどい強さ。でも一緒にいた時間で知ることができた。仲間思いで純粋な大男。カツラにかかれば牛だって仲間だ。なのに、なんでこいつを選ぶ?
こいつを連れていかれるものか!
ハシバミは立ちあがり、カツラの巨体を引っ張る。彼は力なく川岸の水たまりに腰を落とす。
「じっとしていろ」
そう言ってハシバミが火打石を叩く。七秒で明かりを生きかえらせる。長刀を拾う。
左手にランプ、右手にカツラの刀。
ハシバミは上流へと歩きだす。知らない花の匂い。窪みに足がはまる。転んだりしない。
「そこにいるのは誰だ?」
おのれのランプからすえた灯油の匂いが漂う。明かりが沢のごく一部分だけを照らす。
「神など知らない。仏など会ったことない」
おぞましい声が答える。
ハシバミは足もとに注意しながら、その声へと歩む。
岩が見えた。違う。うずくまる人だった。ハシバミは声かけるのを躊躇する。背後からの気配にランプと刀を向ける。
「俺だよ」
ツヅミグサがあえぐように言う。仲間が来てくれた。ハシバミは人らしき人に近づく。ランプを寄せる。
その人間は怯えていて、衣服はボロボロだった。暗闇で何も見えないのに四方をびくびくと見わたしていた。だしぬけにまた叫ぶ。そして、いまのおのれにとどめを刺してくれと望むように、ハシバミを見上げた。
「なんてことだよ」
ランプに照らされた男の顔を見て、ツヅミグサがつぶやく。
その人は、生まれ育った村の上士頭ヒイラギだった。
「川上からなにかが来た」ベロニカが報告する。
「見たのか?」ハシバミが聞く。
「うん。でも影になっていた。大きかった。僕は見つかっていないと思う」
ベロニカは上流へと木の影に隠れる。槍をかまえる。
「俺は音を聞いた。人の悲鳴のような声がしたけど、川の音がこの通りだからね」
そう言うと、ツヅミグサもベロニカの横にいく。こちらは手ぶら。
「人だと? 最悪じゃないか」
カツラがつぶやく。
沢の上をヤマセミが二羽下流へ飛んでいく。どんどん暗くなっていく。ハシバミの視力でも識別が難しくなってきた。
「人間とは決まっていない。――ベロニカはいきなり突かないように。ツヅミグサは誰でもいいから四人呼んできて。武器を持たせてな。残りは建物で待機するように言って」
「しっ。ハシバミ声がでかい」
ツヅミグサがよく通る声で言う。「いまのは何だ?」
最初はハシバミには聞こえなかった。流れの音だけ。虫の鳴き声もかき消されている。まつわる藪蚊の羽音はする。頬にたかるそいつを叩こうとして躊躇した。音をたてるな。そいつの声が聞こえた。
――あああ、おおお……
高くもなく低くもないけど、沢の音に途切れる。獣の鳴き声でも吠え声でもない。……人の声? そうだとしても、この世の声ではない。ハシバミは
その声は再び聞こえ、ばたりとやむ。また沢の音と虫の羽音だけ。……今日も晴れていたよな。見あげれば梅雨の前に見納めな星空が見えだす頃だけど。それを楽しみにしていたのだけど。
「あんな声だすのは何者だ」
下流を向いていたカツラが隣に来た。長刀を低くかまえる。
「たまに臭かった。その匂いの主だ」
木の後ろでベロニカが影だけになって言う。
「獣じゃない!」
いきなりカツラが叫んだ。「動物であるものか。分からないのか? 君の村の――君の村のお話婆さんから聞いただろ。話してくれただろ?」
その顔は引きつっていた。
「ちがう!」ツヅミグサが叫びかえす。「あれは話だけの存在だ。さっきのは小鳥がチョウゲンボウに襲われた断末魔の声だ」
「俺たちだって小鳥だ」
カツラが立ち上がり、ささやくように言う。「ここは忌むべき場所だった。――黒屍。彼が迎えにきた」
「そんな声だすなよ」
ハシバミはカツラを座らせようとする。その手が震えているのに気づく。規則正しい沢の音。夜が四人にのしかかってくる。
また声が聞こえた。今度は聞き間違えようがない。人の声だ。でも、冷たい暗渠から響くような、絶望の声。
沢を歩く音も聞こえた。もうそこまで来ている。……その声は、今度ははっきりと聞こえた。
――神は滅んだ。仏も一緒に。残された者もみんな死ぬ! あああ……
「やめてくれよ」
ツヅミグサの影がしゃがみこむ。
「顔を上げろ! 冷静になれ」ハシバミが怒鳴る。
その時、さらにはっきりと聞こえた。
「……カツラ、ああ、カツラ……」
ハシバミさえも呆然としてしまった。すぐ隣にいる大男。誰がこいつの名前を知っている?
「行かなくちゃならない」
カツラが長刀を投げ捨てる。「呼ばれたら行かなくちゃならない。俺も昔の連中と同じ報いを受ける」
ハシバミは怯えていた。昔なんか知らない。でも、誰かがカツラを闇に呼んでいる。傷も治りきらないカツラを、滅びた人間たちがいる場所に連れ去ろうとしている。
カツラが上流へと歩きだす。
横柄であくどい強さ。でも一緒にいた時間で知ることができた。仲間思いで純粋な大男。カツラにかかれば牛だって仲間だ。なのに、なんでこいつを選ぶ?
こいつを連れていかれるものか!
ハシバミは立ちあがり、カツラの巨体を引っ張る。彼は力なく川岸の水たまりに腰を落とす。
「じっとしていろ」
そう言ってハシバミが火打石を叩く。七秒で明かりを生きかえらせる。長刀を拾う。
左手にランプ、右手にカツラの刀。
ハシバミは上流へと歩きだす。知らない花の匂い。窪みに足がはまる。転んだりしない。
「そこにいるのは誰だ?」
おのれのランプからすえた灯油の匂いが漂う。明かりが沢のごく一部分だけを照らす。
「神など知らない。仏など会ったことない」
おぞましい声が答える。
ハシバミは足もとに注意しながら、その声へと歩む。
岩が見えた。違う。うずくまる人だった。ハシバミは声かけるのを躊躇する。背後からの気配にランプと刀を向ける。
「俺だよ」
ツヅミグサがあえぐように言う。仲間が来てくれた。ハシバミは人らしき人に近づく。ランプを寄せる。
その人間は怯えていて、衣服はボロボロだった。暗闇で何も見えないのに四方をびくびくと見わたしていた。だしぬけにまた叫ぶ。そして、いまのおのれにとどめを刺してくれと望むように、ハシバミを見上げた。
「なんてことだよ」
ランプに照らされた男の顔を見て、ツヅミグサがつぶやく。
その人は、生まれ育った村の上士頭ヒイラギだった。