139 女神
文字数 2,262文字
ナトハン家家長の孫娘であるルミは、明るくなると同時に目を覚ました。キジバトが呑気に鳴いている。それと別に人の悲鳴が聞こえた。……父がローリーを折檻 しているな。やだやだ。ここに爽やか朝なんてないわ。
ルミは体を起こす。隣では、奴隷がいなくなり労働が増えた奴隷出身 の母がまだ寝ている。弟のダフはいなかった。
「たまにはゆっくり休んでね」
ルミは小声を母にかける。
私のが母より偉いと言う祖父が嫌いだ。私より弟が偉いと言う父は大々大嫌いだ。こんな家はいつか母と一緒に出ていこう。おじさんも応援してくれるに決まっている。
ルミは草鞋を履いて家からでる。私はもう少し大きくなったら靴を履ける。ナトハン家に受け継がれた昔の靴だ。紐で結ぶ赤色の靴。それを履いて出ていこう。今朝はキノコを狩ろうかな。食べられるキノコ。まだ無理かな。まだ暑い夏だし。秋になろうが冬までずっと暑いし。冬はすごく寒いし。
甲高い悲鳴が聞こえた。ローリーの声じゃない。……子どもの笑い声も聞こえた。あの二人が戻ってきたわけじゃない。ルミは声のもとへと歩く。
広場の木に男の人が縛られていた。顔を腫らしている。飛びかかれる距離に結ばれたモガミは、飽きたみたいに静かだ。
その人を、弟が笑いながら竹竿で叩いたり突いたりしていた。
私は小さいけど姉だ。
「タブ!」と弟のもとへずんずん歩く。「やめなさい!」
棒を奪いとる。頭を思いきり小突く。弟は悪態を吐きながら母屋へと駆けていく。モガミが伏せたままで尾を振る。
ルミはあらためて男を見る。あちこちから血を流した男も顎を上げて見返す。
「ルミちゃんだっけ?」男が言う。
「なんで私を知っているの?」
「ニシキギとアオタケから聞いた。二人とも会いたがっている」
「あの二人は生きているの?」
ルミは目を丸くする。奴隷親子はみんな死んだと聞いていた。罰 が当たったと聞いていた。
「元気だったよ。昨日まではね」
男の人が真顔で見つめてくる。若い眼差し。「長を呼んでくれ。話をしたい」
ルミは考える。祖父は怖い。父より怖い。やさしいけど怖い。
「じいじを呼んだら、あなたは殺されるかも」
ルミは屈む。小声になる。「私が逃がしてあげる。だから、いつか兄弟を連れてきて」
この人は驚いたように顔を上げる。薄く笑みを浮かべて、首を横に振る。
「僕はまだ逃げられない。この家と仲直りをして、助けてもらわないとならない」
ルミは言葉の意味を考える。自分なりに回答を見つける。
「だったらジングウさんを連れてくる。お父さんの弟。賢くて優しくて強い」
父よりもずっと。じいじが言っていた。
ルミは駆けだす。
***
「盗っ人はそんなことを言ったのだね?」
ジングウはすでに畑にいた。ローリーとともに耕していた。
「ルミに聞きたい。泥棒がうなずいたら、ほんとうに縄を解いたの?」
「うん。だってあの人は悪人でないもの」
「なんで分かるのかな」
「ジングウおじさんが言ったじゃない。私はずっとここに閉じこめられている。よその人を見たら怯えるかもしれない。でも信じられる人もいる。見分けてごらんって」
そんな話をしたなと、ジングウは思いだす。早くも噴きでる汗をぬぐう。鍬を置く。
ルミが言葉を付け足す。
「私はね、そういう人は人を呼ぶと思うんだ。良き人は良き人を」
この子は賢いけど、さすがにそんな言葉を心に綴れるはずない。ならば、まだ元気だったころの私の母が孫に伝えたのだろう。そして、この子はその思いを大事に心へ残してくれた。受け継いでくれた。
「うん。たしかにルミが正しいかどうか、おじちゃんがそいつに会うべきだね。……兄貴は罠の巡回でいない。父の病はまだよくない。つまり、いまは私が長だ。私に権限がある」
盗っ人を捕らえた高揚が過ぎた兄は、飛行機の復讐を恐れて、一人だけ森に逃げた。見捨てられた娘に言えるわけない。ローリーは異常事態を察知して、必死にナトハン家へしがみつこうとしている。
長の次男と孫娘は、囚われたハシバミのもとへ向かう。
そのすべてを、長は窓から見おろしていた。
「私は行けないの?」ルミは頬を膨らます。
「危険すぎるからね」
ジングウは姪に答える。
そもそもニシツゲ一家はすでに殺されたかもしれない。……エブラハラ。存在は買い出しで知っている。それでもナトハン家が奴らと関わることはないと思っていた。だけど風前の灯火だ。我々を襲撃しながら奴隷の解放だけをした風変わりな盗賊の村が見つかった。ここの所在も遠からず明かされるだろう。受け継がれてきた全てを取り上げられる。
だったら先制だ。若い盗人どもと同盟だ。
「足を怪我しているな。でも急いでもらいたい」
ジングウが威厳をもって言う。沢の横に隠された小道を、若者を先に歩かせる。
「分かっています」
ハシバミは振り返り答える。どこで受けた傷なのか答える必要ない。……この人は髭面だけど意外に若いな。まだ二十代半ばだろうか。
「素気ない振りして人を観察するな。――私は人を撃ったことはない。それは今日も続くかもしれない。なぜだか分かるか?」
「他人同士の喧嘩だからです。でもあなたは来てくれる。それだけで充分です」
「ちょっと違うが、そう受け止めてくれると気が楽になる。……私は守るべきもののためにだけ戦いたい。理想論だ」
それで会話は途絶える。
ナトハン家に受け継がれた猟銃を肩にかけたジングウを、ハシバミが水舟丘陵へ導く。
最悪なんかになっているはずない。カツラがいるのだから絶対に間に合う。ただただ僕は必死に歩け。
ルミは体を起こす。隣では、奴隷がいなくなり労働が増えた
「たまにはゆっくり休んでね」
ルミは小声を母にかける。
私のが母より偉いと言う祖父が嫌いだ。私より弟が偉いと言う父は大々大嫌いだ。こんな家はいつか母と一緒に出ていこう。おじさんも応援してくれるに決まっている。
ルミは草鞋を履いて家からでる。私はもう少し大きくなったら靴を履ける。ナトハン家に受け継がれた昔の靴だ。紐で結ぶ赤色の靴。それを履いて出ていこう。今朝はキノコを狩ろうかな。食べられるキノコ。まだ無理かな。まだ暑い夏だし。秋になろうが冬までずっと暑いし。冬はすごく寒いし。
甲高い悲鳴が聞こえた。ローリーの声じゃない。……子どもの笑い声も聞こえた。あの二人が戻ってきたわけじゃない。ルミは声のもとへと歩く。
広場の木に男の人が縛られていた。顔を腫らしている。飛びかかれる距離に結ばれたモガミは、飽きたみたいに静かだ。
その人を、弟が笑いながら竹竿で叩いたり突いたりしていた。
私は小さいけど姉だ。
「タブ!」と弟のもとへずんずん歩く。「やめなさい!」
棒を奪いとる。頭を思いきり小突く。弟は悪態を吐きながら母屋へと駆けていく。モガミが伏せたままで尾を振る。
ルミはあらためて男を見る。あちこちから血を流した男も顎を上げて見返す。
「ルミちゃんだっけ?」男が言う。
「なんで私を知っているの?」
「ニシキギとアオタケから聞いた。二人とも会いたがっている」
「あの二人は生きているの?」
ルミは目を丸くする。奴隷親子はみんな死んだと聞いていた。
「元気だったよ。昨日まではね」
男の人が真顔で見つめてくる。若い眼差し。「長を呼んでくれ。話をしたい」
ルミは考える。祖父は怖い。父より怖い。やさしいけど怖い。
「じいじを呼んだら、あなたは殺されるかも」
ルミは屈む。小声になる。「私が逃がしてあげる。だから、いつか兄弟を連れてきて」
この人は驚いたように顔を上げる。薄く笑みを浮かべて、首を横に振る。
「僕はまだ逃げられない。この家と仲直りをして、助けてもらわないとならない」
ルミは言葉の意味を考える。自分なりに回答を見つける。
「だったらジングウさんを連れてくる。お父さんの弟。賢くて優しくて強い」
父よりもずっと。じいじが言っていた。
ルミは駆けだす。
***
「盗っ人はそんなことを言ったのだね?」
ジングウはすでに畑にいた。ローリーとともに耕していた。
「ルミに聞きたい。泥棒がうなずいたら、ほんとうに縄を解いたの?」
「うん。だってあの人は悪人でないもの」
「なんで分かるのかな」
「ジングウおじさんが言ったじゃない。私はずっとここに閉じこめられている。よその人を見たら怯えるかもしれない。でも信じられる人もいる。見分けてごらんって」
そんな話をしたなと、ジングウは思いだす。早くも噴きでる汗をぬぐう。鍬を置く。
ルミが言葉を付け足す。
「私はね、そういう人は人を呼ぶと思うんだ。良き人は良き人を」
この子は賢いけど、さすがにそんな言葉を心に綴れるはずない。ならば、まだ元気だったころの私の母が孫に伝えたのだろう。そして、この子はその思いを大事に心へ残してくれた。受け継いでくれた。
「うん。たしかにルミが正しいかどうか、おじちゃんがそいつに会うべきだね。……兄貴は罠の巡回でいない。父の病はまだよくない。つまり、いまは私が長だ。私に権限がある」
盗っ人を捕らえた高揚が過ぎた兄は、飛行機の復讐を恐れて、一人だけ森に逃げた。見捨てられた娘に言えるわけない。ローリーは異常事態を察知して、必死にナトハン家へしがみつこうとしている。
長の次男と孫娘は、囚われたハシバミのもとへ向かう。
そのすべてを、長は窓から見おろしていた。
「私は行けないの?」ルミは頬を膨らます。
「危険すぎるからね」
ジングウは姪に答える。
そもそもニシツゲ一家はすでに殺されたかもしれない。……エブラハラ。存在は買い出しで知っている。それでもナトハン家が奴らと関わることはないと思っていた。だけど風前の灯火だ。我々を襲撃しながら奴隷の解放だけをした風変わりな盗賊の村が見つかった。ここの所在も遠からず明かされるだろう。受け継がれてきた全てを取り上げられる。
だったら先制だ。若い盗人どもと同盟だ。
「足を怪我しているな。でも急いでもらいたい」
ジングウが威厳をもって言う。沢の横に隠された小道を、若者を先に歩かせる。
「分かっています」
ハシバミは振り返り答える。どこで受けた傷なのか答える必要ない。……この人は髭面だけど意外に若いな。まだ二十代半ばだろうか。
「素気ない振りして人を観察するな。――私は人を撃ったことはない。それは今日も続くかもしれない。なぜだか分かるか?」
「他人同士の喧嘩だからです。でもあなたは来てくれる。それだけで充分です」
「ちょっと違うが、そう受け止めてくれると気が楽になる。……私は守るべきもののためにだけ戦いたい。理想論だ」
それで会話は途絶える。
ナトハン家に受け継がれた猟銃を肩にかけたジングウを、ハシバミが水舟丘陵へ導く。
最悪なんかになっているはずない。カツラがいるのだから絶対に間に合う。ただただ僕は必死に歩け。