122 泥濘の地
文字数 2,463文字
茨の灌木を男たちがかき分ける。女たちのために道を作る。その下は泥。虫にまとわりつかれる泥だらけの行軍。たまに百年前のスチール缶が現れたりする。
会話がはずむわけない。それでも互いに意識はする。ツユクサが管理していた替えの草鞋は流されなかった。水舟丘陵についてから編んだのが二十足もあるけど、ガラスを踏む人が多くて消費されていく。
雨はあがっても靄は低くて、水舟丘陵の所在が不確実だ。行き過ぎたのは間違いなく、ハシバミたちは盆地を辿る。ここを横断した日のように。
しかしひどい場所だ。雨がもう少し続いていたら、すべてが沈んで沼と化しそう。ハシバミは腕時計を見る。短い針が3、長い針が4。ツヅミグサに頼んで、まとまりなき行軍を続ける仲間たちを集めさせる。
「ここはクロシソ将軍の土地ではない」
ハシバミは演説を始める。
「そりゃそうだ。こんなトゲだらけ泥だらけな場所……長、すみません。二度と口を開きません」
「ブルーミーの言うとおりにこんな場所だからだ。でも僕たちの村は遠くはない。明日にはたどり着ける。そのためにあと少しだけ歩こう。川を渡ったら休もう」
「長、そこには建物があるのですか?」
「食料はあるのですか?」
女たちが手を上げて質問する。
「どちらもない。でも今夜だけだ。それと堅苦しい言葉はやめよう」
「あなたは足を引きずっている。ジライヤは辛そうだ。だったらここで休んでも同じでは?」
疲労を隠せない黒人老兵が言う。
「バクラバは戦士だね。僕たちにここで寝る勇気はない。おそらく女子たちも」
「俺もだぜ。それと今後はカツラと呼んでくれ。さあ出発だ」
「バクラバに銃を捨てさせるべきだ」
歩きだすなりゴセントが背後からひっそりと告げる。
「何が見える?」
「それをハシバミに渡すのが見える。撃ち方を教えるのが見える。それは長の権威になる」
「僕が受けとらないのは見えないの?」
いまだってリュックサックに錆びた銃がある。結局遠征で一度もだすことなかったな。
ゴセントは言い返さない。しばらくして「僕にも見えないものはある」と自分に聞こえるだけの声でぽつり言う。それは自分の千里眼より強大な兄の心。おそらくハシバミは銃を受け取らない。
「親方、太陽の位置から考えるとそっちじゃなさそう」
ブルーミーの自信ありげな声が後方から聞こえた。
「やっぱり先頭はブルーミー」
十二人の男、九人の女は泥の中を歩き続ける。
***
一行は丘を隔てる川にたどり着く。茶色い濁流。牛たちと渡ったコンテナ車を目指す。ブルーミーが導く。バクラバが補佐する。
「ハシバミ聞いてくれ。エブラハラにも追跡の名手がいる。おそらくブルーミー以上だ。俺は会ったから分かる」
肩に布を巻いたカツラがやってくる。手にはむき出しの長刀。
「だろうね。疲れたバクラバのがブルーミーよりしっかりしているし、静かだし。……僕は君の肩のが心配だよ」
「清潔な泥を塗ったら血はとまった。痛むだけだ。……たしかにバクラバの話はためになる。それより、あいつは見た目より若いな。まだ四十代かも」
「僕には最初からそれくらいに見えていたよ」
エブラハラの上士であったバクラバは、泥濘の盆地のことも知っていた。
「盗賊の村、野犬……ここはエブラハラと違う。人数が多くても脱落者が狙われる。食人の噂もあるが、それは眉唾です。あったとしても何十年も前でしょう。そんな奴らが生き延びられるはずがない」
実際のバクラバの年齢は三十代の末だった。四十代半ばのクロシソ将軍よりは年下だが、エブラハラでは古参に近かった。
黒い肌である彼らの家族は、将軍に降伏した村の下層民だった。息子のバクラバは実力社会のエブラハラで頭角を現した。とりわけ大哨戒において能力をいかんなく発揮した。上士となり帝国の拡張に勤しみ、黄色い肌の妻を二人得た。しかしそれ以上の出世はなかった。
実際は将軍を盲従しない独立不羈の態度が原因だったのだが、彼は自分の肌の色で差別されたと感じた。遠征で自分より若い者の配下となった。屈辱に耐えて戻れば、家族の死体が家ごと燃やされていた。彼は酒に逃げた。終わった人間の烙印をつけられた。
バクラバは自暴自棄のようにエブラハラから逃亡を図り、たやすく捕らえられた。古参というだけで許すほど、将軍は甘くなかった。
しかしみじめな状況と近づく死から抜けだすため、カツラの悪魔的な誘いを受け入れた。そのためにエブラハラの男を襲った。躊躇なく死をもたらした。昔のままに、その能力は逆境でこそ発揮された。
ある意味カツラの逃亡を助けたバクラバであるけど、彼はジライヤであったカツラを尊敬して温かい心を向けた。
彼の不安は銃がひとつしかないこと。しかも自分はすでに三発消費している。
*
大雨のあとのコンテナトラックは水の下に隠れていた。
「コウとリンがいなくてよかったな」
ツヅミグサが言う。
「もっと厄介だ」
シロガネが女たちをちらり見る。「この川を渡るのは私たちでも至難だ。なのに、いつ水が引くか分からない」
「今日はここまでかな」
ハシバミはゴセントに聞く。
「気が向かないな。でも仕方ない」
弟が答える。
「進むべきです。エブラハラの男たちも川沿いに腰を下ろしません。病と災禍の地です」
バクラバが進言する。
「ちっ」とカツラが聞こえる音で舌を打つ。だから先ほど休んでおくべきだったと、暗に告げているように感じたからだ。
「バクラバさんよお、俺たちは川の男だ。水に危険を感じない」
カツラがぶっきらぼうに言う。彼の肩の痛みはピークに達していた。「ハシバミの歩き方を見ろ。俺たちは命を大事にする。それに合わせて休むべき時間を考える」
「命を大切にするために進言したのですが、もちろんカツラさんに従います」
バクラバは何もなかったようにその場を去る。最後尾で見張りを始める。
ぬかるんだ土手に若い男女は腰を下ろす。ハエ、ブヨ、蚊が集結する。
「ここで寝るの?」
女たちの不安げな声を、ハシバミは無視する……僕でも無理かも。蚊を叩きながら思う。
会話がはずむわけない。それでも互いに意識はする。ツユクサが管理していた替えの草鞋は流されなかった。水舟丘陵についてから編んだのが二十足もあるけど、ガラスを踏む人が多くて消費されていく。
雨はあがっても靄は低くて、水舟丘陵の所在が不確実だ。行き過ぎたのは間違いなく、ハシバミたちは盆地を辿る。ここを横断した日のように。
しかしひどい場所だ。雨がもう少し続いていたら、すべてが沈んで沼と化しそう。ハシバミは腕時計を見る。短い針が3、長い針が4。ツヅミグサに頼んで、まとまりなき行軍を続ける仲間たちを集めさせる。
「ここはクロシソ将軍の土地ではない」
ハシバミは演説を始める。
「そりゃそうだ。こんなトゲだらけ泥だらけな場所……長、すみません。二度と口を開きません」
「ブルーミーの言うとおりにこんな場所だからだ。でも僕たちの村は遠くはない。明日にはたどり着ける。そのためにあと少しだけ歩こう。川を渡ったら休もう」
「長、そこには建物があるのですか?」
「食料はあるのですか?」
女たちが手を上げて質問する。
「どちらもない。でも今夜だけだ。それと堅苦しい言葉はやめよう」
「あなたは足を引きずっている。ジライヤは辛そうだ。だったらここで休んでも同じでは?」
疲労を隠せない黒人老兵が言う。
「バクラバは戦士だね。僕たちにここで寝る勇気はない。おそらく女子たちも」
「俺もだぜ。それと今後はカツラと呼んでくれ。さあ出発だ」
「バクラバに銃を捨てさせるべきだ」
歩きだすなりゴセントが背後からひっそりと告げる。
「何が見える?」
「それをハシバミに渡すのが見える。撃ち方を教えるのが見える。それは長の権威になる」
「僕が受けとらないのは見えないの?」
いまだってリュックサックに錆びた銃がある。結局遠征で一度もだすことなかったな。
ゴセントは言い返さない。しばらくして「僕にも見えないものはある」と自分に聞こえるだけの声でぽつり言う。それは自分の千里眼より強大な兄の心。おそらくハシバミは銃を受け取らない。
「親方、太陽の位置から考えるとそっちじゃなさそう」
ブルーミーの自信ありげな声が後方から聞こえた。
「やっぱり先頭はブルーミー」
十二人の男、九人の女は泥の中を歩き続ける。
***
一行は丘を隔てる川にたどり着く。茶色い濁流。牛たちと渡ったコンテナ車を目指す。ブルーミーが導く。バクラバが補佐する。
「ハシバミ聞いてくれ。エブラハラにも追跡の名手がいる。おそらくブルーミー以上だ。俺は会ったから分かる」
肩に布を巻いたカツラがやってくる。手にはむき出しの長刀。
「だろうね。疲れたバクラバのがブルーミーよりしっかりしているし、静かだし。……僕は君の肩のが心配だよ」
「清潔な泥を塗ったら血はとまった。痛むだけだ。……たしかにバクラバの話はためになる。それより、あいつは見た目より若いな。まだ四十代かも」
「僕には最初からそれくらいに見えていたよ」
エブラハラの上士であったバクラバは、泥濘の盆地のことも知っていた。
「盗賊の村、野犬……ここはエブラハラと違う。人数が多くても脱落者が狙われる。食人の噂もあるが、それは眉唾です。あったとしても何十年も前でしょう。そんな奴らが生き延びられるはずがない」
実際のバクラバの年齢は三十代の末だった。四十代半ばのクロシソ将軍よりは年下だが、エブラハラでは古参に近かった。
黒い肌である彼らの家族は、将軍に降伏した村の下層民だった。息子のバクラバは実力社会のエブラハラで頭角を現した。とりわけ大哨戒において能力をいかんなく発揮した。上士となり帝国の拡張に勤しみ、黄色い肌の妻を二人得た。しかしそれ以上の出世はなかった。
実際は将軍を盲従しない独立不羈の態度が原因だったのだが、彼は自分の肌の色で差別されたと感じた。遠征で自分より若い者の配下となった。屈辱に耐えて戻れば、家族の死体が家ごと燃やされていた。彼は酒に逃げた。終わった人間の烙印をつけられた。
バクラバは自暴自棄のようにエブラハラから逃亡を図り、たやすく捕らえられた。古参というだけで許すほど、将軍は甘くなかった。
しかしみじめな状況と近づく死から抜けだすため、カツラの悪魔的な誘いを受け入れた。そのためにエブラハラの男を襲った。躊躇なく死をもたらした。昔のままに、その能力は逆境でこそ発揮された。
ある意味カツラの逃亡を助けたバクラバであるけど、彼はジライヤであったカツラを尊敬して温かい心を向けた。
彼の不安は銃がひとつしかないこと。しかも自分はすでに三発消費している。
*
大雨のあとのコンテナトラックは水の下に隠れていた。
「コウとリンがいなくてよかったな」
ツヅミグサが言う。
「もっと厄介だ」
シロガネが女たちをちらり見る。「この川を渡るのは私たちでも至難だ。なのに、いつ水が引くか分からない」
「今日はここまでかな」
ハシバミはゴセントに聞く。
「気が向かないな。でも仕方ない」
弟が答える。
「進むべきです。エブラハラの男たちも川沿いに腰を下ろしません。病と災禍の地です」
バクラバが進言する。
「ちっ」とカツラが聞こえる音で舌を打つ。だから先ほど休んでおくべきだったと、暗に告げているように感じたからだ。
「バクラバさんよお、俺たちは川の男だ。水に危険を感じない」
カツラがぶっきらぼうに言う。彼の肩の痛みはピークに達していた。「ハシバミの歩き方を見ろ。俺たちは命を大事にする。それに合わせて休むべき時間を考える」
「命を大切にするために進言したのですが、もちろんカツラさんに従います」
バクラバは何もなかったようにその場を去る。最後尾で見張りを始める。
ぬかるんだ土手に若い男女は腰を下ろす。ハエ、ブヨ、蚊が集結する。
「ここで寝るの?」
女たちの不安げな声を、ハシバミは無視する……僕でも無理かも。蚊を叩きながら思う。