086 弟

文字数 1,827文字

 ゴセントは心なくヒイラギたちの帰還を眺めていた。新しい住人たちが途方に暮れているのも眺めた。キハルがミカヅキをメンテナンスしているのも見えた。いつでも飛びたてるように。
 東にいる太陽が肌を焼きつけてくる。朝のさえずりを終えた鳥たちは寝なおすのだろうか?
 じきに兄の捜索隊が組まれるだろう。カツラを先頭に。その行く先は森でなく――

 黒い泥濘。巨大な古い建造物がいくつも崩れている。痩せた犬が痩せたネズミを追っている。ゴセントはあてもなく一人で歩く。やがて見知った場所に行き当たる。生まれ育った丘のふもとの川。舟着き場の木に、髭面の男が縄をかけていた。
 男はやけに優しい顔でゴセントへと振り返る。

「俺が何をしているか分かるかね」
 男に尋ねられる。

「誰かをぶら下げるのですか?」
 ゴセントは恐怖で目を見開く。

「百年も前から続けていることさ。あの頃は忙しかったが、今もまだ忙しい。そんでさらに忙しくなる。何がそんなに多忙なのか知りたいだろ?」
「ええ」

 男がくわえていた煙のでる巻紙を落とす。踏みにじる。

「若い親方がもうじき死ぬ。そいつの仲間も後を追う。若い親方を殺した一家は皆殺し。水舟丘陵と呼ばれるあそこも、この丘と同じに、この平野と同じに誰もいなくなるからさ。みんなをぶら下げないとならないからさ」

「だめだ! そんなことは認めない」

「俺にはどうにもならないさ。でも若い親方はまだ見つかっていない。一家の男が見つけてとどめを刺すのが先か、俺がじっくり見届けるのが先か。どっちかな」

「……僕が見つければいいのだろ?」
 ゴセントは男をにらむ。「僕が見つける。ハシバミどこだ! 返事をしろ! お兄ちゃん!」

 鬱蒼とした新しい森。そこにひとつだけそびえる古い木が見えた……。



「ゴセント、おいゴセント」と肩を揺すられる。

 ひと晩で十歳も老けこんだようなクロイミが顔を覗き込んでいた。

「やあクロイミ」
「ぼうっとしないでくれ。忙しくなるのは分かっているよね?」

 忙しくなる……。夢の男をかすかに思いだす。

「うん。ハシバミが撃たれた場所へ僕を案内してくれないかな」

 その言葉にクロイミはきょとんとする。次の瞬間、戦士の顔に変わる。

「もちろんだとも。でも準備が必要だ。間違いなく争いになる。そして僕は誰より先頭で戦う」
「武器なんかいらない。すぐに発たないのならば僕だけで行く」
「ナトハン家へ?」
「いや。兄を救いにいく。手助けしてくれるならば、このまま目指そう」

 ゴセントが階段へと向かう。

「無理を言うなよ……」

 クロイミが呆れ顔で見送る。
 いつもの理知的な彼だったら――ゴセントの神託を半信半疑で内面では鼻で笑っていた彼ならば、見送るだけだっただろう。でも今日のクロイミは冷静でなかった。尊敬する親友が傷つき敵地に取り残されている……死んでいるはずがない!
 だからゴセントを追いかける。

「つまりハシバミは生きているのだね。だったら行こう。みんなを集めるなんてまどろこしい。二人でこのまま行く。それでいいんだね」
「もちろんだとも」

 川の手前で見張るアコンにだけ告げて二人は村をでる。

 *

 ゴセントは疲れを知らないような駆け足だった。クロイミは必死についていく。

「ここからは警戒しよう」
 最後の崩落地を渡りながらクロイミが言う。

「振り向くと同時に刺す」

 すぐ背後で声がした。村に戻らず見張り役を志願したコウリンが、槍を向けていた。二人だと知り再び林に隠れる。……あのコウリンでさえ、いままでのコウリンと違う。怒りの行き着く場所を求めている。

「だからゴセント止まってくれよ。ここからは武装して進む」
「ううん。まだ大丈夫。ぎりぎり間に合った。彼らとは出会わない。あの男とも」
「男って?」

 ゴセントは返事をせずにまた駆けだす。初めて来たはずなのに、沢の前で立ちどまる。潜んでいたツヅミグサが弓を手に、惨めたらしい顔をのぞかせる。

「……ゴセント、僕を連れていってくれよ。ハシバミのもとへ」
 クロイミは彼のすべてを信じだす。

「いつも見えるはずがない。でも今はすべてが見える。楡の木だ」

 三人は沢を這いのぼる。キセキレイが追い越す。またミソサザイがけたたましく鳴く。

「楡の木!」いきなりゴセントが叫ぶ。「楡の木!」

 三人は沢を離れる。新しい森と古い森が混ざっている。下草が弱まった先に巨木がそびえていた。

「あの幹のふもとに兄が横たわっている」
 ゴセントが息を整えながら言う。「まだ生きている」
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