001 丘にある村
文字数 1,512文字
第Ⅰ章 出奔
桜草はとっくに終わっていた。
その村は、緩やかな斜面に粗末な家を点在させ、未舗装の小道がそれぞれをつないでいた。二百軒以上もある大きな村だ。雑木林、芋畑、麦畑、植林の名残り……。段々畑だらけの丘は、様々な緑色と茶色でパッチワークされている。その丘を縁取るように川がゆったり流れていた。
五月の黄昏まであと一時間ほど。ランプが灯る民家も見えるけど、まだ外に人はいた。早朝と夕暮れ時は、ここに住む人々にとって少ない憩いの時間だから。
村落の三方にある櫓からは、それぞれ当番が三名ずつ四方を見張っている。すべての責任を背負い、丘の周りにひろがる世界へとあらゆる注意を向けている。
村はまだ平和だった。
村はずれにある大きな木造の家から青年が出てきた。扉の前に植えられた、クロツグミがさえずる桜の木の下に向かう。
この家は宿舎と呼ばれ、十三歳から十八歳までの特権階級 ではない少年が共同生活を送っている。村は西と東で大きく区分されるが、ここには西地区の若者が集っている。
若衆と呼ばれる彼らは大人に比べて力も体格もまだ足りず、こんな時世だからある意味虐げられた存在だ。農作業は当然として、土木工事などの雑役や、有事には雑兵として軍務につくことになっていた。そのための共同生活だ。
扉からもう一人顔をだす。きょろきょろと見わたした後に、桜の木へと小走りする。二人は丘を下りだす。
夕涼みの連れを待っていた若者はハシバミと呼ばれる。若衆の制服とでも呼ぶべき、麻を織った消炭色の上下の作業着は汚れたまま。この時代の男性として平均的な体躯。黄色い肌は野外労働で焼けている。
刈りこんだ茶色みがかった頭髪。若衆最年長の十八歳だけど、まだひげは生えてこない。色素がちょっとだけ薄い黒目には、智と強い意思が宿っていた。村の様子に気を配っているのに、口笛を吹きそうな態度。快活に見えても抜け目なかった。
もう一人の男の子は、夕闇へはるかにおどおどしている。小柄で痩せた体には作業着が大きく見える。黒髪は長く伸ばしていて、色白の肌はうっすら赤く焼けている。おおきな黒い瞳がこの子を余計に幼く感じさせる。
びくびくしながらも、必死にハシバミのあとを追う。まるで彼といるのが一番安全と言うかのように。
「わあ」
それでも草むらから飛びだしたネズミに驚いて声を上げる。
巡回当番の東地区の若衆二人が気づいて、ハシバミたちを見る。槍は構えない。
ハシバミはにやりと笑って親指を立てる。
「なんだ、ハシバミと弟くんか」
温和そうな若者が笑いかえす。「またゴセントが自分の足音にびっくりしたのかな?」
「そんなところ」
ハシバミは片手で挨拶して川への道を下る。ゴセントと呼ばれた少年も会釈して二人の横を過ぎる。
「クロイミ、あの子はなんであんな名前なんだ」
もう一人の黒い地肌の若衆が尋ねる。
「ゴセントもサジーの目に入るほど大きくなったんだな。あれでも十六歳だよ」
クロイミと呼ばれた黄色い肌の若衆が、がっしりした体格のサジーの顔を見上げる。「頭領が、“お金”って奴から名付けた。肉や野菜と交換できたそうだけど、5セントだと魚の骨ももらえないらしい。赤ん坊のころから、それだけチビだったってこと。……でも、あの子は危険から身を守ることはできるみたいだね」
「川まで行ってみよう」
ゴセントがハシバミに言う。「今夜は、この村から変な気配がただよう。……村でなく向こうから」
ゴセントは丘の周りにひろがる森を眺めていた。
「いいよ。だったら罠をチェックしてみよう。ランプも持ってきたしね」
ハシバミは周囲をさっと見て、踏み跡みたいな小道に入る。ゴセントも後を追う。
桜草はとっくに終わっていた。
その村は、緩やかな斜面に粗末な家を点在させ、未舗装の小道がそれぞれをつないでいた。二百軒以上もある大きな村だ。雑木林、芋畑、麦畑、植林の名残り……。段々畑だらけの丘は、様々な緑色と茶色でパッチワークされている。その丘を縁取るように川がゆったり流れていた。
五月の黄昏まであと一時間ほど。ランプが灯る民家も見えるけど、まだ外に人はいた。早朝と夕暮れ時は、ここに住む人々にとって少ない憩いの時間だから。
村落の三方にある櫓からは、それぞれ当番が三名ずつ四方を見張っている。すべての責任を背負い、丘の周りにひろがる世界へとあらゆる注意を向けている。
村はまだ平和だった。
村はずれにある大きな木造の家から青年が出てきた。扉の前に植えられた、クロツグミがさえずる桜の木の下に向かう。
この家は宿舎と呼ばれ、十三歳から十八歳までの
若衆と呼ばれる彼らは大人に比べて力も体格もまだ足りず、こんな時世だからある意味虐げられた存在だ。農作業は当然として、土木工事などの雑役や、有事には雑兵として軍務につくことになっていた。そのための共同生活だ。
扉からもう一人顔をだす。きょろきょろと見わたした後に、桜の木へと小走りする。二人は丘を下りだす。
夕涼みの連れを待っていた若者はハシバミと呼ばれる。若衆の制服とでも呼ぶべき、麻を織った消炭色の上下の作業着は汚れたまま。この時代の男性として平均的な体躯。黄色い肌は野外労働で焼けている。
刈りこんだ茶色みがかった頭髪。若衆最年長の十八歳だけど、まだひげは生えてこない。色素がちょっとだけ薄い黒目には、智と強い意思が宿っていた。村の様子に気を配っているのに、口笛を吹きそうな態度。快活に見えても抜け目なかった。
もう一人の男の子は、夕闇へはるかにおどおどしている。小柄で痩せた体には作業着が大きく見える。黒髪は長く伸ばしていて、色白の肌はうっすら赤く焼けている。おおきな黒い瞳がこの子を余計に幼く感じさせる。
びくびくしながらも、必死にハシバミのあとを追う。まるで彼といるのが一番安全と言うかのように。
「わあ」
それでも草むらから飛びだしたネズミに驚いて声を上げる。
巡回当番の東地区の若衆二人が気づいて、ハシバミたちを見る。槍は構えない。
ハシバミはにやりと笑って親指を立てる。
「なんだ、ハシバミと弟くんか」
温和そうな若者が笑いかえす。「またゴセントが自分の足音にびっくりしたのかな?」
「そんなところ」
ハシバミは片手で挨拶して川への道を下る。ゴセントと呼ばれた少年も会釈して二人の横を過ぎる。
「クロイミ、あの子はなんであんな名前なんだ」
もう一人の黒い地肌の若衆が尋ねる。
「ゴセントもサジーの目に入るほど大きくなったんだな。あれでも十六歳だよ」
クロイミと呼ばれた黄色い肌の若衆が、がっしりした体格のサジーの顔を見上げる。「頭領が、“お金”って奴から名付けた。肉や野菜と交換できたそうだけど、5セントだと魚の骨ももらえないらしい。赤ん坊のころから、それだけチビだったってこと。……でも、あの子は危険から身を守ることはできるみたいだね」
「川まで行ってみよう」
ゴセントがハシバミに言う。「今夜は、この村から変な気配がただよう。……村でなく向こうから」
ゴセントは丘の周りにひろがる森を眺めていた。
「いいよ。だったら罠をチェックしてみよう。ランプも持ってきたしね」
ハシバミは周囲をさっと見て、踏み跡みたいな小道に入る。ゴセントも後を追う。