134 ナトハン家再訪
文字数 2,265文字
ハシバミたちが逃げだしても、エブラハラの男たちは銃を向けなかった。笛さえ鳴らさなかった。裏口に誰もいなかったからだ。
「君の名はアザミだったな。そんなことを報告する必要はない。持ち場を離れたのは恥ずべき行為だ」
将軍は怒鳴るのをこらえる。失態のひとつひとつが士気に関わっていく。
「しかし将軍、屋上から聞こえたあの声は人ではありません」
「怯えるな! 持ち場に戻れ」
臆病風に吹かれやがって。カエルを踏んだような鳴き声と私の怒りのどちらが怖いのだ?
アザミたちは直立で敬礼を返し、逃げるように去っていく。
「さっきの声を聞いたか? ここは過去の化け物を飼っている」
「飛行機の形をした悪魔を呼んだ」
「いや。この隙にエブラハラを攻めている。その嘲りの笑いだ。ここは罠だった」
「なぜ帰らないのだろう。……逃げないのだろう」
そんな声が聞こえてくる。『一人で帰れ』などと、もはや罵れない。喜んで従いそうだ。
誰もが飛行機の幻影に怯えている。敵も銃を持っている。いままでの戦いと違う。これを越えれば、私たちはさらに強くなれる。
「将軍、敵三名が抜けだして、ブナ林側の沢へ向かったそうです」
セキチクが報告に来た。「沢の見張り番は笛を鳴らすだけでした」
クロジソ将軍はセキチクの目を見る――勇ましい男だ。追跡の許可を待っている。だが将軍は考える。そいつらが援軍を迎えにいくはずない。ならば飛行機を呼びに……。私でさえ、過去の遺物に捉われている。
「どうせ逃亡者だ。放っておけ」
将軍は小事に気を病まない毅然とした態度を見せる。「セキチク群長は前線の陣営を指揮してくれ。誰もが君みたいに勇気があればいいのにな」
「ノボロとパセルがいますよ。もうじき彼らは残酷なまでの勇気を見せてくれますよ。しばらくしたら私は朝に備えて仮眠します」
セキチクはそう言うとちいさく敬礼する。裏口へと向かう。
「そのパセル群長ですが」とクマツヅラが言う。「どうやら逃亡者を追跡したようです。独断ですが、前回の失態を取り返したいのでしょう」
「分かった。お前も寝ておけ」
クロジソは告げる。小事だろうと、捕らえて殺して首を晒せば多少は士気が上がるだろう。連中の士気は間違いなく下がる。
***
三人は川を泳いで下る。夏場の水量だからできることだが、ハシバミの足でもそれほど 苦にならなかった。むしろ歩くよりマシだ。
これでナトハン家までは片道三時間で済ませられる。帰りは登り坂を歩くけど、この二人ならば――最後はツヅミグサが全力疾走で五時間。合わせて八時間。
ハシバミは腕の時計を見る。いまは短い針が九。現地での悪だくみを三十分で済ませば……朝の六時までに村へ帰れる。日の出が四時半だから遅すぎる……頑張るしかない。ツヅミグサたちにしても。カツラたちにしても。僕にしても。
「うまく行くとは思えないよ」
水深が浅くなり歩かざるを得ない地点で、クロイミが言う。
返事などしない。それすら時間の無駄だ。立ちどまって最後の覚悟を決める場所は、沢の入り口。そこから先は僕たちの再来に備えて待ちかまえているだろう。僕だったらそうする。ライデンボクにしても。エブラハラにしても。ナトハン家の長だって。
だとしても行くしかない。
「犬を連れてくるべきだったかな。みんなの朝飯になっちゃうかも」
ツヅミグサが言う。
「だったら牛たちもだ」クロイミが笑う。
「コウリンがゆるさないだろ。そもそも楽しくない冗談だ」
枝流と合流して水かさが増える。三人は暗闇をひたすら泳ぐ。
***
山猫である私が追いつけない。ここの住人は異常だ。おそらく奴らは真夜中に川へと入った。武器もランプも持たないのか。そもそも夜でなかろうと、この流れを泳げるものなのか? 水への恐怖がないのか?
パセルは途方に暮れる。諦めて戻るには早すぎる。だから、あと一時間だけ道を下ろう。それでは足りない。三時間夜道を一人歩こう。それから戻ればちょうど明け方の襲撃だ。手ぶらで帰ってきたことも多少はうやむやになる。終わった人間の烙印を押されようとも。
***
三人はナトハン家への渓流に到着した。
「あの犬は気づくよな」先頭のツヅミグサが言う。
「うん」とハシバミが答える。足が引きつるほどに痛い。
「ここまで来たらどうにもならない」クロイミが背後で言う。
沢は真っ暗なのにランプもロウソクもない。予想の倍以上時間がかかりそうだ。
「……銃を奪うなんて無謀だよな」
ツヅミグサが振り向かず言う。「親方が囮になり、その隙に奪う。あの夜と同じになろうと、俺は村へと走る。そして林から将軍を狙撃する。……ほんとうにゴセントが成功すると言ったの?」
「ああ」とハシバミは大嘘を吐く。
嘘だけど成功する気がする。僕もゴセントの兄だから、多少は予言めいたことができるかも……。違ったとしても無様な結末にさせない。みんなのために。水舟丘陵のために。
でも、なにかが違うと感じる。過去の遺物であるクラブハウスに頼り、飛行機に頼り、さらにはライフルに頼るために、近隣の住人を襲撃する。脅すだけだとしても……。
なにかが違うけど仕方ない。ただ……こんなのもユートピアじゃないよな。
*
「子どもがいるから危険なことはしないと思う」
クロイミの予想通り、沢に罠はなかった。鳴子が仕掛けられていたが、誤作動のが多いだろう。つまりはったりだ。
「もうすぐだぜ」
暗闇の中でツヅミグサが立ち止まる。
「行こう」ハシバミは躊躇を見せない。
朝はまだ遠く、犬はまだ吠えない。じきに三人は沢を離れる。
「君の名はアザミだったな。そんなことを報告する必要はない。持ち場を離れたのは恥ずべき行為だ」
将軍は怒鳴るのをこらえる。失態のひとつひとつが士気に関わっていく。
「しかし将軍、屋上から聞こえたあの声は人ではありません」
「怯えるな! 持ち場に戻れ」
臆病風に吹かれやがって。カエルを踏んだような鳴き声と私の怒りのどちらが怖いのだ?
アザミたちは直立で敬礼を返し、逃げるように去っていく。
「さっきの声を聞いたか? ここは過去の化け物を飼っている」
「飛行機の形をした悪魔を呼んだ」
「いや。この隙にエブラハラを攻めている。その嘲りの笑いだ。ここは罠だった」
「なぜ帰らないのだろう。……逃げないのだろう」
そんな声が聞こえてくる。『一人で帰れ』などと、もはや罵れない。喜んで従いそうだ。
誰もが飛行機の幻影に怯えている。敵も銃を持っている。いままでの戦いと違う。これを越えれば、私たちはさらに強くなれる。
「将軍、敵三名が抜けだして、ブナ林側の沢へ向かったそうです」
セキチクが報告に来た。「沢の見張り番は笛を鳴らすだけでした」
クロジソ将軍はセキチクの目を見る――勇ましい男だ。追跡の許可を待っている。だが将軍は考える。そいつらが援軍を迎えにいくはずない。ならば飛行機を呼びに……。私でさえ、過去の遺物に捉われている。
「どうせ逃亡者だ。放っておけ」
将軍は小事に気を病まない毅然とした態度を見せる。「セキチク群長は前線の陣営を指揮してくれ。誰もが君みたいに勇気があればいいのにな」
「ノボロとパセルがいますよ。もうじき彼らは残酷なまでの勇気を見せてくれますよ。しばらくしたら私は朝に備えて仮眠します」
セキチクはそう言うとちいさく敬礼する。裏口へと向かう。
「そのパセル群長ですが」とクマツヅラが言う。「どうやら逃亡者を追跡したようです。独断ですが、前回の失態を取り返したいのでしょう」
「分かった。お前も寝ておけ」
クロジソは告げる。小事だろうと、捕らえて殺して首を晒せば多少は士気が上がるだろう。連中の士気は間違いなく下がる。
***
三人は川を泳いで下る。夏場の水量だからできることだが、ハシバミの足でも
これでナトハン家までは片道三時間で済ませられる。帰りは登り坂を歩くけど、この二人ならば――最後はツヅミグサが全力疾走で五時間。合わせて八時間。
ハシバミは腕の時計を見る。いまは短い針が九。現地での悪だくみを三十分で済ませば……朝の六時までに村へ帰れる。日の出が四時半だから遅すぎる……頑張るしかない。ツヅミグサたちにしても。カツラたちにしても。僕にしても。
「うまく行くとは思えないよ」
水深が浅くなり歩かざるを得ない地点で、クロイミが言う。
返事などしない。それすら時間の無駄だ。立ちどまって最後の覚悟を決める場所は、沢の入り口。そこから先は僕たちの再来に備えて待ちかまえているだろう。僕だったらそうする。ライデンボクにしても。エブラハラにしても。ナトハン家の長だって。
だとしても行くしかない。
「犬を連れてくるべきだったかな。みんなの朝飯になっちゃうかも」
ツヅミグサが言う。
「だったら牛たちもだ」クロイミが笑う。
「コウリンがゆるさないだろ。そもそも楽しくない冗談だ」
枝流と合流して水かさが増える。三人は暗闇をひたすら泳ぐ。
***
山猫である私が追いつけない。ここの住人は異常だ。おそらく奴らは真夜中に川へと入った。武器もランプも持たないのか。そもそも夜でなかろうと、この流れを泳げるものなのか? 水への恐怖がないのか?
パセルは途方に暮れる。諦めて戻るには早すぎる。だから、あと一時間だけ道を下ろう。それでは足りない。三時間夜道を一人歩こう。それから戻ればちょうど明け方の襲撃だ。手ぶらで帰ってきたことも多少はうやむやになる。終わった人間の烙印を押されようとも。
***
三人はナトハン家への渓流に到着した。
「あの犬は気づくよな」先頭のツヅミグサが言う。
「うん」とハシバミが答える。足が引きつるほどに痛い。
「ここまで来たらどうにもならない」クロイミが背後で言う。
沢は真っ暗なのにランプもロウソクもない。予想の倍以上時間がかかりそうだ。
「……銃を奪うなんて無謀だよな」
ツヅミグサが振り向かず言う。「親方が囮になり、その隙に奪う。あの夜と同じになろうと、俺は村へと走る。そして林から将軍を狙撃する。……ほんとうにゴセントが成功すると言ったの?」
「ああ」とハシバミは大嘘を吐く。
嘘だけど成功する気がする。僕もゴセントの兄だから、多少は予言めいたことができるかも……。違ったとしても無様な結末にさせない。みんなのために。水舟丘陵のために。
でも、なにかが違うと感じる。過去の遺物であるクラブハウスに頼り、飛行機に頼り、さらにはライフルに頼るために、近隣の住人を襲撃する。脅すだけだとしても……。
なにかが違うけど仕方ない。ただ……こんなのもユートピアじゃないよな。
*
「子どもがいるから危険なことはしないと思う」
クロイミの予想通り、沢に罠はなかった。鳴子が仕掛けられていたが、誤作動のが多いだろう。つまりはったりだ。
「もうすぐだぜ」
暗闇の中でツヅミグサが立ち止まる。
「行こう」ハシバミは躊躇を見せない。
朝はまだ遠く、犬はまだ吠えない。じきに三人は沢を離れる。