085 夏草の匂い
文字数 2,368文字
撃たれた瞬間に夏草の匂いを思いだした。
ハシバミは燃えた鉄柱で抉 られたような右足を引きずり森を下る。全身にぬめった汗がとめどない。また転がり、立ち上がる。
離れなきゃ。ここから逃げないといけない。捕まってもすぐには殺されない。みんなの村へと案内させられる。途中で力尽きて捨てられる。
侮った。銃弾はあの距離に届いたんだ。父の弓でも無理だ。銃はあの距離で正確に当てられたんだ。僕の腕でも無理だ。
「親父こっちだ。盗っ人は遠くに行ってないと思うが」
すぐ後ろで人の声がした。「モガミを放すか? 奴は血を流した獲物ほど好きなものはない」
その声の向きへと、ハシバミは弓を構える。……毒矢。使いたくないから来ないでくれ。僕は陰麓から来たのではない。
「野犬がいただろ。それに、どれくらい深手か分からない。今夜は家を守るべきだな。明朝あらためて探そう」
「それまでに犬に食われるかもな」
月の明かりは森の中を照らさない。ナトハン家の男たちの声が遠ざかる。
縛らなきゃ。さもないと朝まで持たない。
ハシバミは上着を脱ぎ、血みどろの太ももを括る。歯をくいしばり暗闇を這う。
***
沢の途中で聞こえた銃声ほど、カツラの心を凍らせたものはなかった。直後に怒りで溶けだす。
「戻ってはいけないよ。カツラの役目はみんなを率いること」
クロイミが背後で言う。
「それはハシバミの仕事だ。だから俺は戻る――」
後方から気配が近づいた。
「俺だニシツゲだ。妻もいる」
さすが住人だけあって、灯火なしで沢を下ってきた。
「君らの長たちが息子の救出に向かった。感謝しているが――、あの音が聞こえたならばもはや誰も手助けできない。母屋から大長 に狙い撃ちされる。彼は畑のはずれの杭に銃弾を当てることができる。しかも、今夜の月は半分しかないくせにやけに明るい」
「私はここで待つ。ニシキギを待つ」
母が言う。
「僕も弟を待つ」
兄が言う。
「もちろんだ。俺たちも長と女好きを待たしてもらうさ」
カツラが沢沿いの岩に腰かける。滅多に感じない不安が押し寄せる。
下流から笛が一度聞こえたので二度返す。ベロニカとコウリンが戻ってきた。
*
しばらくして灯が近づいてきた。クロイミとコウリンが左右の林に紛れる。カツラは岩に身を隠し、弓を向けながら「誰だ」と声かける。ベロニカは、奴隷だった人たちの前で槍を闇へと向けている。
「射つなよ。やんちゃ坊主もいる」
ツヅミグサの声がして全員が安堵する。
抱えられたニシキギが回収したランプを持っていた。ツヅミグサは合流するまでそれきり黙ったままだった。子どもを父親に渡し、カツラの隣の石に腰かける。ようやく口にする。
「ハシバミが撃たれた」
月が傾き沢の流れを映しだした。
「それは間違いないのか」
最初に口を開いたのはベロニカだった。「ツヅミグサは助けにいかなかったのか」
「やめろ。てんでこんこだ」
カツラがやけに冷静に言葉を口にする。「そもそもあいつに弾が当たるはずない」
「撃たれたところを見たわけじゃない。でも『仕留めた』という声は聞こえた」
また沢の流れの音だけになる。
俺は子どもを連れていた。誰よりも危険だった。逃げるしかなかった。
ツヅミグサはそう口にしたい。言い訳を並べて楽になりたい。
「とにかくここで待とう」
カツラの言葉にそれぞれがうなずく。クロイミは蒼然としていた。夏草の匂いが漂う。
***
カツラたち五人。ヨツバたち五人。十人は長い時間待った。子どもたちは眠っている。
「引き返してみる」とカツラが立ち上がる。
「声をかけて探すのかい。それに、いずれ朝になる」
クロイミが岩に腰かけたままで言う。それ以上は何も告げない。決断をカツラに任せる。なおも向かうというならば付き合うだけだ。
「……分かった。村に戻ろう。仕切り直しだ」
カツラが言う。新しい村人こそを保護しないとならない。そうしないとハシバミに怒られる。
十人は沢を下る。
「やっぱり俺はここに残る」
道にでたところで、ツヅミグサが立ち止まる。自責の念にかられた彼へと誰も振り向かない。
***
翌朝。雨はなおも降らない。ニイニイゼミの初鳴きが聞こえた。八人は放浪者の一団のごとく崩れたアスファルトを進む。時折振り返る。誰も追ってこない。
川の手前のガードレールでユドノとハグロが待っていた。カツラはクロイミと犬たちを村へと先行させる。彼がブナ林に到着したとき、村から一人駆けおりてきた。ゴセントだった。
犬たちが追い越す。クロイミとゴセントだけになる。
「悪い知らせがある」
「知っている」ゴセントが答える。「いま分かった。ハシバミは戻らないんだね」
「どうして?」
「昨夜、銃声が聞こえた」
「ここまで聞こえるはずない」
「でも聞こえた。そして君たちを感じて迎えにきた。君を血まみれの足を引きずる人が必死に追っていた。誰だろうともう一度見たら……君だけになった」
それを聞いてもクロイミはうつむくだけだった。
*
新しい住人を迎えた集いは暗く、ブルーミーさえしおれていた。ゴセントはハチの巣の物見台に登ったきりだった。
偶然は悪意のように重なる。
梅雨前に水舟丘陵へと導かれたルートを用いて、ヒイラギたちがエブラハラから戻ってきた。彼はまたしても幽鬼のようだった。サジーは顔にも怪我をしており、ヤイチゴはそのまま地面に倒れ込んだ。
「早すぎないか」
カツラが労りの心をちょっとだけ滲ませて言う。
「だがエブラハラにはたどり着けた。その一角にな」
比較的元気なシロガネが答える。「休みもせず一睡もせずに戻ってきた。長に報告したい」
「ここにはいない」
「どういう意味だ?」
「おたがいに話すことがたっぷりってことだ」
夏草のうっそうとした匂いが梅雨がじきに明けると告げているのに、村人は誰も気づけなかった。
ハシバミは燃えた鉄柱で
離れなきゃ。ここから逃げないといけない。捕まってもすぐには殺されない。みんなの村へと案内させられる。途中で力尽きて捨てられる。
侮った。銃弾はあの距離に届いたんだ。父の弓でも無理だ。銃はあの距離で正確に当てられたんだ。僕の腕でも無理だ。
「親父こっちだ。盗っ人は遠くに行ってないと思うが」
すぐ後ろで人の声がした。「モガミを放すか? 奴は血を流した獲物ほど好きなものはない」
その声の向きへと、ハシバミは弓を構える。……毒矢。使いたくないから来ないでくれ。僕は陰麓から来たのではない。
「野犬がいただろ。それに、どれくらい深手か分からない。今夜は家を守るべきだな。明朝あらためて探そう」
「それまでに犬に食われるかもな」
月の明かりは森の中を照らさない。ナトハン家の男たちの声が遠ざかる。
縛らなきゃ。さもないと朝まで持たない。
ハシバミは上着を脱ぎ、血みどろの太ももを括る。歯をくいしばり暗闇を這う。
***
沢の途中で聞こえた銃声ほど、カツラの心を凍らせたものはなかった。直後に怒りで溶けだす。
「戻ってはいけないよ。カツラの役目はみんなを率いること」
クロイミが背後で言う。
「それはハシバミの仕事だ。だから俺は戻る――」
後方から気配が近づいた。
「俺だニシツゲだ。妻もいる」
さすが住人だけあって、灯火なしで沢を下ってきた。
「君らの長たちが息子の救出に向かった。感謝しているが――、あの音が聞こえたならばもはや誰も手助けできない。母屋から
「私はここで待つ。ニシキギを待つ」
母が言う。
「僕も弟を待つ」
兄が言う。
「もちろんだ。俺たちも長と女好きを待たしてもらうさ」
カツラが沢沿いの岩に腰かける。滅多に感じない不安が押し寄せる。
下流から笛が一度聞こえたので二度返す。ベロニカとコウリンが戻ってきた。
*
しばらくして灯が近づいてきた。クロイミとコウリンが左右の林に紛れる。カツラは岩に身を隠し、弓を向けながら「誰だ」と声かける。ベロニカは、奴隷だった人たちの前で槍を闇へと向けている。
「射つなよ。やんちゃ坊主もいる」
ツヅミグサの声がして全員が安堵する。
抱えられたニシキギが回収したランプを持っていた。ツヅミグサは合流するまでそれきり黙ったままだった。子どもを父親に渡し、カツラの隣の石に腰かける。ようやく口にする。
「ハシバミが撃たれた」
月が傾き沢の流れを映しだした。
「それは間違いないのか」
最初に口を開いたのはベロニカだった。「ツヅミグサは助けにいかなかったのか」
「やめろ。てんでこんこだ」
カツラがやけに冷静に言葉を口にする。「そもそもあいつに弾が当たるはずない」
「撃たれたところを見たわけじゃない。でも『仕留めた』という声は聞こえた」
また沢の流れの音だけになる。
俺は子どもを連れていた。誰よりも危険だった。逃げるしかなかった。
ツヅミグサはそう口にしたい。言い訳を並べて楽になりたい。
「とにかくここで待とう」
カツラの言葉にそれぞれがうなずく。クロイミは蒼然としていた。夏草の匂いが漂う。
***
カツラたち五人。ヨツバたち五人。十人は長い時間待った。子どもたちは眠っている。
「引き返してみる」とカツラが立ち上がる。
「声をかけて探すのかい。それに、いずれ朝になる」
クロイミが岩に腰かけたままで言う。それ以上は何も告げない。決断をカツラに任せる。なおも向かうというならば付き合うだけだ。
「……分かった。村に戻ろう。仕切り直しだ」
カツラが言う。新しい村人こそを保護しないとならない。そうしないとハシバミに怒られる。
十人は沢を下る。
「やっぱり俺はここに残る」
道にでたところで、ツヅミグサが立ち止まる。自責の念にかられた彼へと誰も振り向かない。
***
翌朝。雨はなおも降らない。ニイニイゼミの初鳴きが聞こえた。八人は放浪者の一団のごとく崩れたアスファルトを進む。時折振り返る。誰も追ってこない。
川の手前のガードレールでユドノとハグロが待っていた。カツラはクロイミと犬たちを村へと先行させる。彼がブナ林に到着したとき、村から一人駆けおりてきた。ゴセントだった。
犬たちが追い越す。クロイミとゴセントだけになる。
「悪い知らせがある」
「知っている」ゴセントが答える。「いま分かった。ハシバミは戻らないんだね」
「どうして?」
「昨夜、銃声が聞こえた」
「ここまで聞こえるはずない」
「でも聞こえた。そして君たちを感じて迎えにきた。君を血まみれの足を引きずる人が必死に追っていた。誰だろうともう一度見たら……君だけになった」
それを聞いてもクロイミはうつむくだけだった。
*
新しい住人を迎えた集いは暗く、ブルーミーさえしおれていた。ゴセントはハチの巣の物見台に登ったきりだった。
偶然は悪意のように重なる。
梅雨前に水舟丘陵へと導かれたルートを用いて、ヒイラギたちがエブラハラから戻ってきた。彼はまたしても幽鬼のようだった。サジーは顔にも怪我をしており、ヤイチゴはそのまま地面に倒れ込んだ。
「早すぎないか」
カツラが労りの心をちょっとだけ滲ませて言う。
「だがエブラハラにはたどり着けた。その一角にな」
比較的元気なシロガネが答える。「休みもせず一睡もせずに戻ってきた。長に報告したい」
「ここにはいない」
「どういう意味だ?」
「おたがいに話すことがたっぷりってことだ」
夏草のうっそうとした匂いが梅雨がじきに明けると告げているのに、村人は誰も気づけなかった。