112 オベリスク

文字数 2,710文字

 アイヌ犬の末裔にひたすら吠えられる。
 カツラには分かる。この犬は周囲の人間に『こいつは味方じゃない。敵だ』と訴えている。クロジソ将軍へも。

 先制攻撃すべきか? カツラは思いとどまる。屈強な男七名の相手は無理だ。俺より縦にも横にもでかい将軍の相手をするだけで大仕事だ。

「将軍、わざわざ何でしょう?」
 カツラはクロジソを真似て空を見上げる。「荒れそうですね」

「私が気にしているのは空模様ではない」
 クロジソが青い目をカツラに向ける。「君は若年組の宿舎に行ったそうだね」

「先ほどの話ですか? おっしゃるとおりですけど」
「何のためだ?」

 将軍は俺の企てをすべて知っている。いや、そんなはずはない。

「バクラバを見物に……というのは嘘で、正直に言うと女性の園に興味がありました」

「君はそこでノボロ副長とすれ違った」
「誰でしょう?」
「私に質問するな」

 そこで会話がとまる。将軍の色素の薄い目に、心の奥を覗かれそうな恐怖を感じる。

「君はノボロと会っているな」
「誰かも知りません。……どういう意味でしょう?」
「質問しているのは私だ。犬がうるさい。連れていけ」

 将軍が配下の一人に命じる。
 口笛が一度だけ聞こえた。
 その音の主はカツラを一瞥して歩きだす。犬が尻尾を振ってついていく。人も犬も敏捷そうで賢そうな奴だった。しかも苦難にへこたれない面構え、高台から突き落とされたぐらいでは……。

「いまのがノボロだ。君はあの犬とも会っている。どこでだと思う?」

 まずいことになったぞ。
 しかもだ、そう思った感情を顔に出してしまった。いまの俺は、将軍の真ん前で青ざめているかもしれない。
 奴とは間違いなく湖で遭遇しているのだろう。でも認めるべきなのか。
 夕闇が迫っている。行動を起こさないカツラを見限り、ミカヅキはもう飛んでいない。明日の朝には戻ってくれると信じている。

「まったく分かりません」しばらくしてそう答える。

 将軍はその言葉とカツラの態度を吟味したあとに言う。

「君はダムにいたな?」
「ダム?」
「峠の先にある湖のことだ」
「でしたら、ここへ来るまえにおりました」
「そこで君は私の優秀な配下を幾人も殺した。生き延びたのはノボロ副長と犬だけだ」

「将軍」
 カツラは姿勢を正す。「俺は彼らを盗賊だと思いました。なので湖に落としました。しかし刀で傷つけておりません。怪我程度で済ますつもりでした」

 嘘は半分しか言っていない。足場が良い場所にいた俺は人の返り血を嫌った。足場の悪い場所に位置した彼らが怪我だけで済むとは思えなかった。無傷で生き延びる奴がいるとも……。将軍はまた黙る。
 カツラは次の言葉を待ち続ける。将軍はエブラハラの中心だと感じる。エブラハラのど真ん中にそびえ立っていると感じる。エブラハラそのものだとも感じる。俺はいまエブラハラと対峙している。

「アオイ群長こそ有能だった。君はなぜに生き延びられた?」
 ようやくと感じるころに将軍が口にした。

「俺のが強かったからです」
 そう答えるしかない。

「違うな。アオイ群長の銃が暴発したからだ。崩落地での小競り合い。そうでなければ君が勝てるはずない」

 そこまで情報を得ているのか。カツラは内心で舌を打つ。

「それで、私は咎められるのですか? 罰を受けるのですか?」
 カツラは本心から尋ねる。回答によってはそれこそ大暴れしてやる。

「ジライヤ、もうひとつ尋ねるぞ」
 将軍がまたカツラの目を覗き込む。「あの十人ほどの集団は何だ? 奴らはどこへ行った?」

「やはり違う連中だったのですね。俺は挟み撃ちされたと思って森へ逃げました。明るくなるまで潜んでいました」
「奴らと一緒ではなかったのか?」
「そしたら一緒にエブラハラへ来ているのでは?」
「もう一度聞く。奴らはどこへ行った?」
「知る由がありません」

 そこでようやくクロジソ将軍がカツラから目をはずす。……この男は俺を咎める気がないらしい。配下を四人殺した俺を、むしろ重宝しそうだ。

 聞きたいことは以上だ、行っていい。この男は泰然とそう告げるだろう。

「もうひとつ聞きたいことがある」
 将軍は暗くなる一方の空を見ながら言う。左手を耳の横へ曲げながら尋ねてくる。癖なのだろうか、指先で金属を転がす音がした。
「君は飛行機を知っていたな?」

 並の人間ならば、この一言に震えだしたかもしれない。でもカツラこそ豪胆だった。

「いいえ。エブラハラに着いてから初めて見ました」

 森に逃げた女のことを聞かれたらどう答えるべきだろうか。

「あれは、過去からやってきた黒い怨霊と呼ばれている。地面に降りた飛行機を皆は恐れて近づけなかった。……さきほども、やけに低く飛んだな」
 将軍がカツラの目を三たび覗きこむ。「私は君を観察していた。君だけが飛行機を恐れていなかった。平然としていた」

 沈黙が流れる。将軍の手で金属がこすれる音だけがする。

「俺だって怖いです。でもパセル群長にいいところを見せたかったのです」
 そうだよ。腹に一物ない俺だったらこうするに決まっている。
「話が伝わっているかもしれませんが、俺は着陸した飛行機から逃げました。糞をしている女の子へと向かいました。その時はうまいことやれたと思いましたが、群長やオオネグサ殿に笑われたかもと思って……、それで、つい今しがた、飛行機に舌を向けたのです」

「勇気を見せる相手が違うな。それは私にだけでいい」
 将軍が薄く笑う。「近々砦の向こうへと、私が大哨戒を率いる。君はその一員になる。夏だから厳しいものになるだろう。だが活躍を見せてくれ」

「分かりました。楽しみに待っています」

 カツラはまだ安堵を見せない。解放されたと楽観しない。
 案の定、将軍は話を切り上げなかった。カツラからの余計な一言を待っているようだった。
 配下の一人が火打石を叩く。ランプが灯される。

「ジライヤは娘たちに興味を持っているらしいな」
 ようやく将軍が口にする。「年ごろになった彼女たちこそ不穏だ。同年代の男が少ないからだ。……彼女たちにたぶらかされるなよ。そしてたぶらかすな」

「どうしたものでしょう」とカツラはにやり笑う。

「冗談で言っているのではない」
 将軍が左手をおろす。
「私は彼女たちを甘やかした。甘やかし過ぎたかもしれない。見返りとして、今後は私が彼女たちの相手を決める。中央地区にいる幹部たちだ。彼女たちには彼らの息子や娘を産んでもらう。
エブラハラに恋愛は不要だ。ジライヤも女が欲しいなら、私に力を見せるのだ。
私はしばらく南地区にいる。営舎に寝泊まりするが、気をかけないでくれたまえ」

 将軍が背中を向ける。ランプを持った一団が去り、カツラは薄暮に取り残される。
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