104 老兵と娘たち
文字数 2,138文字
総合病院であった建造物を利用した若年組宿舎は、百年にわたり外壁を清掃されることなく黒ずんでいた。窓ガラスは意図的に除去されて雨戸が嵌めこまれている。それらのためもあり男たちの宿舎よりはるかに威圧的だった。男たちに見下ろされる位置にあってもだ。
「すでに匂いが違うぜ」
カツラは本来の潜入任務を忘れて、歯をむき出しにする。
「そりゃここから先は禁煙だからな。娘どもの掟に従わないと大騒ぎになる」
オオネグサが吸殻を地面に落とす。草履で踏みにじる。
自動ドアであった玄関は、木製の引き戸に作り直されていた。ここにも両脇にかがり火がある。兵士の一人が戸を開けると薄闇の玄関に光が淡く差し込む。年老いた男が出迎えてくれた。むき出しの上半身。その黒い肌は傷だらけだった。
まずカツラは、その黒人を英雄だと思った。カツラより小柄であるが、幾多の戦いを経験した称賛されるべき者だろうと感じた。すぐに間違いだと悟った。その男の傷は、戦いで受けたものだけではなかった。何よりその男は両手を上からの縄で縛られていた。
「おい、新入りに挨拶しろ」
オオネグサが男の頬を叩く。
うつむいていた男が顔を上げる。うつろな眼差しだ。
「私の名前はバクラバです。クロジソ将軍の恩寵により生き長らえている者です」
「彼は罪人か?」
カツラはオオネグサに聞く。何故に若い娘たちの宿舎の玄関に縛りつけられている?
「答えてやれ」別の者がそう言って、バクラバの腹を殴る。
バクラバは呻いてまた顔を落とす。
無防備の男を殴るのか? 性根が温かいカツラに怒りが湧きたつ。態度にだすほど愚かでない。
「私はこの偉大な土地から逃亡を図りました。裏切り者である私は、その姿をみんなに晒さないとなりません。将軍の怒りと慈悲の両方を見せないとならないのです」
バクラバがうつむいたまま絞りだすように言う。
玄関から少女たちの一団が入ってくる。草履を脱いで順番に水桶で足を洗い屋内へ消える。まるでカツラやバクラバたちが見えないようだった。
このでかい建物に娘っこが百人以上いるのかと、カツラは思う。何人だろうが静かすぎる。縛られた傷だらけの男の呻き声だけだ。
「水を飲ませて牢に連れていけ」
オオネグサが警備の男たちに命じてからカツラへと笑う。「こいつは夜だけ横になれる」
カツラは衝撃を受けて返事できなかった。オオネグサに続いて表に出る。薄暗くなりだしていた。
「オオネグサとジライヤ。やっと見つけた」
パセル群長が提灯を持ってきた。「私は山の手で家族と暮らしているが、今夜は営舎で一緒に食事をしよう」
パセルもかがり火で煙草に火をつける。カツラには進めてこなかった。
「バクラバを見たか?」
「たった今な。ずいぶん堪えていた」
「そりゃそうだ。奴がセキチク群長に捕らえられたのは半月前だ。ネズミのようだった」
パセルが口から煙を吐きながら笑う。
「それからずっと、不平不満だらけの娘たちへの見せしめにしている。……俺の考えだとあいつはもう長くないだろうな。あいつよりもっと黒いのが、あいつの屍を引き取りに来る」
カツラは陰麓の黒屍の話を思いだして身震いした。
また女の子たちが複数やってきた。褐色肌でチリチリ頭の子や金髪で白い肌の子もいた。
「お疲れ。お疲れだったな」
パセルは玄関前で一人一人ににこやかに声かける。少女たちはよそよそしく会釈するだけだ。目を合わせずに中へと消える。
「みんな疲れているからな」
カツラへと言い訳がましく言う。
またもんぺ姿の四人がやってきた。いずれも十七八歳ぐらいの年長者だ。
「やあイラクサ。教育係ご苦労だな」
カツラが先頭の子に声かける。
「パセル群長こそお疲れ様です」
イラクサと呼ばれた子が立ち止まる。すらっとした体で鼻筋も通ったべっぴんだ。黒髪を短く刈りこんでいる。もんぺをたくし上げていて、どうしても目線がそこに向かってしまう。
「アオイ群長が亡くなられたそうですね。ご愁傷さまです。パセルさんも気を付けるべきですね」
イラクサはしばらくパセルを見つめていたが、彼に返答する意思がないのを察して屋内へと入っていく。
「ずいぶんな言われ様だな」
カツラが苦笑いする。
「おとなしいのもいれば生意気なのもいる。……この宿舎に二百近くの乙女を押し込めておくのは難しいと思うよ」
パセル群長が小声になる。「楯突くということは体制を認めている。甘えている。なので、あの子はマシな部類だ」
「鬱憤がたまっているんだよ。女だって男が欲しい。でも将軍は禁欲的だ」
オオネグサも話に加わる。
「もちろん将軍の意図は分かる。だが手綱を引くのは俺たちだ。もしかすると遠征や大哨戒のが楽しいかもしれない。将軍の目が届かない場所にも女はいるからな」
パセルが下卑た笑いを漏らす。
「ジライヤも若いから彼女たちと仲良くやってくれ。でも複数と関係を持つのは駄目だぞ。女同士でとんでもない大騒ぎになる。男の取り合いだ」
「分かったよ。ひっそりと嫁さんを探して、連れだしてみるさ」
カツラは素気なく言う。もともとそのつもりだと、村へ連れ帰るつもりだと心で毒づく。
オオネグサもパセルもいい奴だけど悪さに慣れ親しみ過ぎている。これ以上に仲よくできそうもなかった。
「すでに匂いが違うぜ」
カツラは本来の潜入任務を忘れて、歯をむき出しにする。
「そりゃここから先は禁煙だからな。娘どもの掟に従わないと大騒ぎになる」
オオネグサが吸殻を地面に落とす。草履で踏みにじる。
自動ドアであった玄関は、木製の引き戸に作り直されていた。ここにも両脇にかがり火がある。兵士の一人が戸を開けると薄闇の玄関に光が淡く差し込む。年老いた男が出迎えてくれた。むき出しの上半身。その黒い肌は傷だらけだった。
まずカツラは、その黒人を英雄だと思った。カツラより小柄であるが、幾多の戦いを経験した称賛されるべき者だろうと感じた。すぐに間違いだと悟った。その男の傷は、戦いで受けたものだけではなかった。何よりその男は両手を上からの縄で縛られていた。
「おい、新入りに挨拶しろ」
オオネグサが男の頬を叩く。
うつむいていた男が顔を上げる。うつろな眼差しだ。
「私の名前はバクラバです。クロジソ将軍の恩寵により生き長らえている者です」
「彼は罪人か?」
カツラはオオネグサに聞く。何故に若い娘たちの宿舎の玄関に縛りつけられている?
「答えてやれ」別の者がそう言って、バクラバの腹を殴る。
バクラバは呻いてまた顔を落とす。
無防備の男を殴るのか? 性根が温かいカツラに怒りが湧きたつ。態度にだすほど愚かでない。
「私はこの偉大な土地から逃亡を図りました。裏切り者である私は、その姿をみんなに晒さないとなりません。将軍の怒りと慈悲の両方を見せないとならないのです」
バクラバがうつむいたまま絞りだすように言う。
玄関から少女たちの一団が入ってくる。草履を脱いで順番に水桶で足を洗い屋内へ消える。まるでカツラやバクラバたちが見えないようだった。
このでかい建物に娘っこが百人以上いるのかと、カツラは思う。何人だろうが静かすぎる。縛られた傷だらけの男の呻き声だけだ。
「水を飲ませて牢に連れていけ」
オオネグサが警備の男たちに命じてからカツラへと笑う。「こいつは夜だけ横になれる」
カツラは衝撃を受けて返事できなかった。オオネグサに続いて表に出る。薄暗くなりだしていた。
「オオネグサとジライヤ。やっと見つけた」
パセル群長が提灯を持ってきた。「私は山の手で家族と暮らしているが、今夜は営舎で一緒に食事をしよう」
パセルもかがり火で煙草に火をつける。カツラには進めてこなかった。
「バクラバを見たか?」
「たった今な。ずいぶん堪えていた」
「そりゃそうだ。奴がセキチク群長に捕らえられたのは半月前だ。ネズミのようだった」
パセルが口から煙を吐きながら笑う。
「それからずっと、不平不満だらけの娘たちへの見せしめにしている。……俺の考えだとあいつはもう長くないだろうな。あいつよりもっと黒いのが、あいつの屍を引き取りに来る」
カツラは陰麓の黒屍の話を思いだして身震いした。
また女の子たちが複数やってきた。褐色肌でチリチリ頭の子や金髪で白い肌の子もいた。
「お疲れ。お疲れだったな」
パセルは玄関前で一人一人ににこやかに声かける。少女たちはよそよそしく会釈するだけだ。目を合わせずに中へと消える。
「みんな疲れているからな」
カツラへと言い訳がましく言う。
またもんぺ姿の四人がやってきた。いずれも十七八歳ぐらいの年長者だ。
「やあイラクサ。教育係ご苦労だな」
カツラが先頭の子に声かける。
「パセル群長こそお疲れ様です」
イラクサと呼ばれた子が立ち止まる。すらっとした体で鼻筋も通ったべっぴんだ。黒髪を短く刈りこんでいる。もんぺをたくし上げていて、どうしても目線がそこに向かってしまう。
「アオイ群長が亡くなられたそうですね。ご愁傷さまです。パセルさんも気を付けるべきですね」
イラクサはしばらくパセルを見つめていたが、彼に返答する意思がないのを察して屋内へと入っていく。
「ずいぶんな言われ様だな」
カツラが苦笑いする。
「おとなしいのもいれば生意気なのもいる。……この宿舎に二百近くの乙女を押し込めておくのは難しいと思うよ」
パセル群長が小声になる。「楯突くということは体制を認めている。甘えている。なので、あの子はマシな部類だ」
「鬱憤がたまっているんだよ。女だって男が欲しい。でも将軍は禁欲的だ」
オオネグサも話に加わる。
「もちろん将軍の意図は分かる。だが手綱を引くのは俺たちだ。もしかすると遠征や大哨戒のが楽しいかもしれない。将軍の目が届かない場所にも女はいるからな」
パセルが下卑た笑いを漏らす。
「ジライヤも若いから彼女たちと仲良くやってくれ。でも複数と関係を持つのは駄目だぞ。女同士でとんでもない大騒ぎになる。男の取り合いだ」
「分かったよ。ひっそりと嫁さんを探して、連れだしてみるさ」
カツラは素気なく言う。もともとそのつもりだと、村へ連れ帰るつもりだと心で毒づく。
オオネグサもパセルもいい奴だけど悪さに慣れ親しみ過ぎている。これ以上に仲よくできそうもなかった。