第120話 故郷への手紙

文字数 1,524文字

 西の窓を開けると薄墨色の山並みが見える。
天気の良い日は風車も見ることができる。どこにいても
故郷はこいしい。ふるさとは懐かしい。
しのぶ時間は充分ある。しかし、ふるさとは、
父母が逝き兄が逝きだんだん遠くなってゆく。

 旭が丸の峰高く園瀬の川の水清し。
この歌に育まれて6年間通った宮の前小学校。
私は入学式の校門を誰とくぐったのか記憶にないのだ。
傷痍していたから父ではない。あの祖母は晴れやかな
ところへはゆかないだろう。そしたら七歳上の兄貴しかない。
嬉しいはずの教科書はまっちゃんのお下がり。
これでは意気揚々とはならないだろうが、結構学校は楽しかった。
ともだちがいっぱいできて。
 3年生の時、大東亜戦争が勃発。農家でありながら、米を作りながら、
大半は供出米としてお上に強制的に取られた(子供はそう思っていた)
食糧難の戦時中でも空腹を覚えることはなかった。米は制限されていたが、
麦、芋、粟、キビ、なんば(トーモロコシ)と故郷は恵まれていた。
清流の川には、ウナギ、どじょう、ふな、渡り蟹にじんぞくが生息していた。
子供でもジンゾクは取ることができた。
 貝殻に穴を開け棕櫚縄で繋いだものを両端で持ち、ごろごろと
引きながら縮めて大きな堤にジンゾクを追い込む。
一夏に一度か2度。ゴロをを引いたものだ。父と兄、弟と4人で。
ジンゾク丼にして食べた。それは故郷の馳走、ふるさとの味覚。
 大戦が始まるまでは桑を植えカイコを飼っていた。
数少ない農家の収入源であったのだろう。
開戦後、まもなく食糧難で芋を植えるため桑の畑を一掃した。
といっても、一本、1本手で掘りおこす労力は大変だったと、
子供の目にも映った。もう桑の実を食べることもできなくなった。
が、ゆすらんめ、すもも、山桃、枇杷と新鮮な果物がどこの家にも
あった。猿のように木に登ってもぎたての枇杷をモンペにすりつけて
かぶりついた。未熟な枇杷はボイト捨てた。

 村は空爆は免れたが食糧難だった。都会からたくさん疎開してきた。
驚いたことに疎開してきた子の勉強のよくできのには、目を白黒させた。
生徒の質というより、先生の質が違っているのではないか?
負けん気な子ども心に感じたものだ。現実はその両方だった。
 必勝祈願の三社詣での帰り森林組合の前で玉音放送を聞いた。
負けた。戦争に負けた。神風はふかなんだ。大人たちの声を遠くに
聞いて、帰途3キロの道を家に急いだ。
 潮が引くように疎開の子供たちは都会へ帰った。
神世の昔から決まっていたのだろう。村は3分、校区も3分していた。
国の政策に沿って村の校区は一つになり、一村一校となった。
市との合併は長い間、議論に上がったが今日に至って合併はない。
蜜柑ブームで村は豊だっからと聞く。どっちが村民のためなのか
部外者の私にはわからない。しかし、兄は長い間、村議として
村のお役に立っていたと思うのだが。

 蜜柑ブームは去った。
ご多分に漏れず少子高齢化で村の人口も減っただろう。
桃イチゴは今、名を馳せているが生産農家は限られていると聞く。
村が潤う産業はないものか。
希少価値のあるものを生み出せないのか。
他所ながら村の発展を願っている。

 平成4年完成の民族と民話の村史を読んだ。
懐かしい顔に釘づけになり、民話に出てくる祖父や父に
思いを馳せている。
ふるさとの民話は私の本棚の一等席にあり、ときどき故郷を
偲んでページを巡ってる。
 例年7月に紫陽花祭りがあると聞くが私は、まだ参加していない。
 広大な山頂に所狭しと咲いている紫陽花は絶景であると言うが、
立ち枯れしたのもあり、今年は手入れが届いていなかったと聞く。残念。

 私には昭和の谷間の村である。
 故郷よ永遠に栄えあれ。
 遥かに見上げる、旭が丸の峰に向かって叫ぶ。









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