第106話 雪の朝

文字数 1,334文字

 前夜から雪はちらっいていた。
ここは南国。雪は降っているはずないと、ぃくゆっくりカーテンを引いた
「アアッ」と小躍りした。驚くなかれ、視界は銀世界。墨絵の世界が
展開していてその上、深々と雪が降っている。目の前に立つ赤と黄色の
市場の看板が何と目障りなことか。雪は降り続け見ているうちにも積もってゆく。
 朝食に焼き芋一つ食べただけで、飽きもせず、積雪を眺めている。
眼下の道路の東行きは流れているが西行きは遅々とも動かない。
 何年も履かないブーツを出して玄関へ出た。誰も踏んでない新雪を踏む。
かためているのだろう。雪は「きゅっ」と音を立てる。
みるみるうちにオーバーに雪が止まる。それでも落とさない。心は青春のど真ん中。
生きていることの有り難さを実感した雪の朝。
 私は雪女。観測史上一番目と言うこの雪は、過去の雪が浮かんでは消えてゆく。
祖母の暮す山村で孟宗竹を割って作ったスキーで滑った快感。
あれから80年の月日が流れている。
雪合戦に興じた小学生のあの頃はよく雪が降っていた。
 小学校卒業に歌った「蛍の光窓の雪、文読む月重ねつつ」窓の雪明かりで
共に学んだが杉の戸を開けていざ、別れん。卒業の別れの歌詞に胸騒ぎを
覚えたのはいつの日か。それは物思う青春の始まりだったのかもしれない。 
 川端康成の「雪国」を実践した。トンネルを出た先に見た雪国は異次元の
世界で雪女は、そこに色褪せた故郷を重ねた。雪の庄内平野。雪の人形峠。
城崎の太鼓橋の向こうの雪。いずれも亡夫の一緒だった。

 月に一度の座禅の定例会は雪の日だった。
定刻より早く瑞巌寺へ向かった。(座禅と坐禅は字が異なるように定義も
異なるが、難しいことは置いておく)
 枯山水に梅と古木に雪が積もっていて、
その風情は一幅の絵としか言いようのない古典的な雪景色だった。
 この日は5〜6人いただろうか。いつもより少なかった。
 住職の法話は「この世とあの世」で最も聞きたい法話であるが、
なにぶん雪に舞い上がっていて法話は全て耳を素通りした。
いつのまにか決まっていた自分の席につき足を組んで背を伸ばす。
目は半眼て1メートル先をみる。手は右手下にその上に左手を乗せ
下腹部へ置く。始まりの合図があったが、すっかり忘れている。
住職は前でケイサクという棒というけど、平たい板状だったよう
な気がする。 
 調身、調息、調心、といわれるだけあって、己の吐く息が聞こえるだけの世界で
自分と向き合い精神統一をはかる。言うは易し行うは難しである。この日は雪のこと
ばかり考えていたので雑念はなかったが、とにかく足が痛い。少しでも足を動かそう
ものなら禅堂に伝わる。衣ずれの音になって静寂を破るのである。
うつら、うつら、していたら雨垂れの音が微かに聞こえたようだ。
 叩かれたか座をと解く音が微かに聞こえてきた。
「バシッ」背中を叩かれて開眼した。爽やかな開眼だった。
行儀もヘッタクレもない、とにかく痛い足を伸ばした。
日が昇り雪解けが始まっていた。竹の葉の雪がバサット落ちた。
それに呼応して竹は皆、綿帽子を脱いだ。
雪解けの音が静かな禅堂を包んでゆく。
 住職が入れてくれた緑茶はゆっくり胃の腑に落ちていった。
 禅堂を出た。
山懐の冬の陽は暖かく、梅の古木に名残りの雪が光っていた。









ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み