第十二章 ざわめく社交界 第二話
文字数 2,976文字
しかし、今は慙愧に打ちひしがれている時ではない。ルシアンは少ししてからすぐに精神を立ち直らせた。
「だが、そうであるならわたしはユーグ、いや本当の名はソフィというのか。ソフィに皇太子妃になってほしい。過去の事件に疑惑があるなら、それは正さねばならない。濡れ衣で名門一族を処罰し、みすみす暗殺まで許したとあっては国の恥だ。
それにしても、ソフィはエストカピタールへ戻っているのだな。何とかして会えないものだろうか。もはや我らの間には、一切のすれ違いはないのだから、顔を見て、抱きしめたい」
ルシアンは情熱的にソフィを求めていた。あまりにも率直な愛情の吐露にパメラは赤面したが、セブランは慣れた調子でルシアンの肩を軽くたたいて宥めた。
「気持ちはわかるが、ソフィ嬢は匿われている状態なんだ。お前が会いに行ったら、リゼット嬢たちの計らいが全て水の泡になってしまう。第一、お前は治療中ということになっている。男色が治ったと言えば、それでは皇太子妃を選ぼうと、そういう運びになってしまう。それまでにソフィ嬢の名誉が回復するかどうか」
「では、しばらくは病気のふりをして、時間を稼いだ方がいいということか」
「そうですわ。ただ、殿下が治ったと宣言しようがしまいが、皇后陛下はメリザンド様を無理やり皇太子妃にしてしまおうと、そう考えていらっしゃるご様子。いずれにしても与えられた時間は少ないのです」
「ならば、もっと手の付けられないような病になったふりをすればいいのではないか」
ルシアンは二人にラナンキュラスの花を持ってきてくれるように頼んだ。また、セブランには、仮面舞踏会で使ったハーブで作ったちょっとしたものを持ってくるように言った。二人は、その日はつつがなく音楽療法を終えたふりをして帰り、翌日頼まれたものを持って、ルシアンの部屋へやってきた。
ルシアンはまずはラナンキュラスの葉をちぎって顔や腕に擦り付けて肌を爛れさせた。またハーブで作ったちょっとしたものを飲んで、声をがらがらにして、ベッドに横になった。
セブランとパメラは殿下の様子がおかしいと、殊更に騒ぎ立てた。皇帝と皇后が医者を引き連れて様子を見に来ると、顔に発疹を浮かべたルシアンがベッドの上でうんうんうなって、そのうえ声まで枯れている。二人は飛び上がらんばかりに驚いた。
「治療の最中から体がだるいとおっしゃって、横になったと思ったらだんだんと発疹が出てくるではありませんか。わたくしもうどうした良いのかわからず」
パメラは上手く嘘をついたので、皇帝夫妻は息子が精神的なものではない病に侵されたと信じきって、直ちに医者たちに看させた。
「この発疹は天然痘ではないか?」
一人の医者の見立ては皇帝夫妻を絶望させた。天然痘にかかって助かる見込みは薄い。
「そんな! 昨日までまったく健康だったというのに。本当に天然痘なのですか」
絶望のあまり皇后は医者たちの見立てを疑った。医者の一人は皇帝夫妻の気持ちを軽くしようと思ったのか、あるいは歓心を買おうと思ったのか、こんなことを言った。
「いや、天然痘にしては声が枯れているのがおかしい。熱もさほど高くはないようですし。何か別の病なのでは?」
「しかしこのような症例は見たことがありませんぞ。もしや新種の病では」
「し、新種の病ですって!」
皇后はそのまま後ろにひっくり返りそうになった。侍女たちが慌てて抱きとめる。
「皇后陛下、お気を確かに。わたくしは天然痘だと思います」
「いいや、そう断じるのはよろしくない……」
医者たちはその場で喧々諤々言い争いを始めた。元より、男色の治療のために呼ばれた医者たちだから、しっかりした医学を修めている者もあれば、そうでない者もいて、いい加減な意見も混じっていた。それにしてもルシアンの症状は全て偽装であるから、病名を特定できるわけがないのだ。ちゃんとした医者ならなおさらである。
天然痘だろうが新種の病気だろうが、皇帝夫妻にとって、いやトレゾールにとって一大事である。この噂はすぐに都中にひろまり、社交界ではその話題でもちきりになった。
「皇太子殿下は天然痘にかかられて余命いくばくもないとか」
「あら、わたくしは新種の奇病にかかったと聞きましたわよ」
「医師があれこれ治療を試しているらしいが、ずっとベッドから起き上がれないらしい」
「パメラ嬢の歌を聞くと、多少楽になるとかで、定期的にお側に呼んでいるそうだ。音楽で症状が軽くなるとは不思議なことですな」
「パメラ嬢はご親友のセブラン様としょっちゅう殿下のお部屋に入っていると。それでお二人ともお変わりないなら、うつる病ではないということですわね」
「大きな声では言えませんけれど、それを知って安心しました。新しい流行り病が蔓延でもしたら大変ですもの」
ある日の舞踏会で、人々の噂話を耳にしたローズは、ますます怪しんだ。
「天然痘だろうと何だろうと、特別悪化もしなければ治る見込みもない。そのうえ歌を聞いて症状が軽くなるですって。馬鹿げた作り話よ」
「ということは、殿下のお芝居の可能性が高いと」
ローズの唱えるリゼット暗躍説を全面的に信じてはいないリアーヌも、ちかごろはどうも妙だと思い始めていた。
「ええ。そしてリゼットの企みに違いないわ」
「けれど、こんな嘘をついてリゼットに何の得がありまして? 殿下が芝居を打っているとすれば、それは例の従者への未練を断ち切れず、他の女性と結婚するのを先延ばしにするためでしょうけど、それを手助けしたところで、リゼットが皇太子妃になれるわけでもなし」
「でもリゼットのことだから、思いもよらない方法で皇太子妃の座を獲得しようとしているかもしれなくてよ。例えばですけれど、殿下はどのみち従者と結婚するわけにはいかないのですから、表向きはリゼットが妻になって、殿下は従者をお側に置いて、そうして三人仲良く暮らすつもりとか。聞くところによると、例の従者は姿を消したそうよ。従者を探し出して差し上げるから、自分を皇太子妃にしてくれとでも言ったのではないかしら」
「まぁ、お飾りの妃になるなんて。そんな哀れで惨めな思いをしてまで皇太子妃になりたいとは、ずいぶんがめついこと」
とはいえ、相手はあのお人よしである。ローズの仮説もありえなくはない。
「それで、あなたはリゼットを見張っているのではなかったかしら。あくまで裏があるというのは、何か怪しい動きがあったからですの?」
彼女の諜報活動に水を向けると、ローズは高慢な顔つきをして、スッと身を引いた。
「探りたいならどうぞご勝手に、そうおっしゃったのはどこの誰? わたくしが探って知りえたことを、あなたにお伝えする必要はないと思いますけれど」
これを聞いてリアーヌも厭味ったらしい微笑みを浮かべた。
「それもそうね。あなたが勝手に調べているだけですもの。わたくしに教えてくれなくても、文句は言えませんわね。でも残念ですわ。せっかくあなたの仮説を裏付ける良い情報がありましたのに」
それぞれリゼットについて、または皇太子の病気について、有益な情報を持っているらしい。二人はしばし睨み合い、軽い嫌味の応酬をしたが、ついにここは互いに打ち明けるのが得策と、人気のないところへ場所を移した。
そんな二人の動きにサビーナは目を光らせていた。
「だが、そうであるならわたしはユーグ、いや本当の名はソフィというのか。ソフィに皇太子妃になってほしい。過去の事件に疑惑があるなら、それは正さねばならない。濡れ衣で名門一族を処罰し、みすみす暗殺まで許したとあっては国の恥だ。
それにしても、ソフィはエストカピタールへ戻っているのだな。何とかして会えないものだろうか。もはや我らの間には、一切のすれ違いはないのだから、顔を見て、抱きしめたい」
ルシアンは情熱的にソフィを求めていた。あまりにも率直な愛情の吐露にパメラは赤面したが、セブランは慣れた調子でルシアンの肩を軽くたたいて宥めた。
「気持ちはわかるが、ソフィ嬢は匿われている状態なんだ。お前が会いに行ったら、リゼット嬢たちの計らいが全て水の泡になってしまう。第一、お前は治療中ということになっている。男色が治ったと言えば、それでは皇太子妃を選ぼうと、そういう運びになってしまう。それまでにソフィ嬢の名誉が回復するかどうか」
「では、しばらくは病気のふりをして、時間を稼いだ方がいいということか」
「そうですわ。ただ、殿下が治ったと宣言しようがしまいが、皇后陛下はメリザンド様を無理やり皇太子妃にしてしまおうと、そう考えていらっしゃるご様子。いずれにしても与えられた時間は少ないのです」
「ならば、もっと手の付けられないような病になったふりをすればいいのではないか」
ルシアンは二人にラナンキュラスの花を持ってきてくれるように頼んだ。また、セブランには、仮面舞踏会で使ったハーブで作ったちょっとしたものを持ってくるように言った。二人は、その日はつつがなく音楽療法を終えたふりをして帰り、翌日頼まれたものを持って、ルシアンの部屋へやってきた。
ルシアンはまずはラナンキュラスの葉をちぎって顔や腕に擦り付けて肌を爛れさせた。またハーブで作ったちょっとしたものを飲んで、声をがらがらにして、ベッドに横になった。
セブランとパメラは殿下の様子がおかしいと、殊更に騒ぎ立てた。皇帝と皇后が医者を引き連れて様子を見に来ると、顔に発疹を浮かべたルシアンがベッドの上でうんうんうなって、そのうえ声まで枯れている。二人は飛び上がらんばかりに驚いた。
「治療の最中から体がだるいとおっしゃって、横になったと思ったらだんだんと発疹が出てくるではありませんか。わたくしもうどうした良いのかわからず」
パメラは上手く嘘をついたので、皇帝夫妻は息子が精神的なものではない病に侵されたと信じきって、直ちに医者たちに看させた。
「この発疹は天然痘ではないか?」
一人の医者の見立ては皇帝夫妻を絶望させた。天然痘にかかって助かる見込みは薄い。
「そんな! 昨日までまったく健康だったというのに。本当に天然痘なのですか」
絶望のあまり皇后は医者たちの見立てを疑った。医者の一人は皇帝夫妻の気持ちを軽くしようと思ったのか、あるいは歓心を買おうと思ったのか、こんなことを言った。
「いや、天然痘にしては声が枯れているのがおかしい。熱もさほど高くはないようですし。何か別の病なのでは?」
「しかしこのような症例は見たことがありませんぞ。もしや新種の病では」
「し、新種の病ですって!」
皇后はそのまま後ろにひっくり返りそうになった。侍女たちが慌てて抱きとめる。
「皇后陛下、お気を確かに。わたくしは天然痘だと思います」
「いいや、そう断じるのはよろしくない……」
医者たちはその場で喧々諤々言い争いを始めた。元より、男色の治療のために呼ばれた医者たちだから、しっかりした医学を修めている者もあれば、そうでない者もいて、いい加減な意見も混じっていた。それにしてもルシアンの症状は全て偽装であるから、病名を特定できるわけがないのだ。ちゃんとした医者ならなおさらである。
天然痘だろうが新種の病気だろうが、皇帝夫妻にとって、いやトレゾールにとって一大事である。この噂はすぐに都中にひろまり、社交界ではその話題でもちきりになった。
「皇太子殿下は天然痘にかかられて余命いくばくもないとか」
「あら、わたくしは新種の奇病にかかったと聞きましたわよ」
「医師があれこれ治療を試しているらしいが、ずっとベッドから起き上がれないらしい」
「パメラ嬢の歌を聞くと、多少楽になるとかで、定期的にお側に呼んでいるそうだ。音楽で症状が軽くなるとは不思議なことですな」
「パメラ嬢はご親友のセブラン様としょっちゅう殿下のお部屋に入っていると。それでお二人ともお変わりないなら、うつる病ではないということですわね」
「大きな声では言えませんけれど、それを知って安心しました。新しい流行り病が蔓延でもしたら大変ですもの」
ある日の舞踏会で、人々の噂話を耳にしたローズは、ますます怪しんだ。
「天然痘だろうと何だろうと、特別悪化もしなければ治る見込みもない。そのうえ歌を聞いて症状が軽くなるですって。馬鹿げた作り話よ」
「ということは、殿下のお芝居の可能性が高いと」
ローズの唱えるリゼット暗躍説を全面的に信じてはいないリアーヌも、ちかごろはどうも妙だと思い始めていた。
「ええ。そしてリゼットの企みに違いないわ」
「けれど、こんな嘘をついてリゼットに何の得がありまして? 殿下が芝居を打っているとすれば、それは例の従者への未練を断ち切れず、他の女性と結婚するのを先延ばしにするためでしょうけど、それを手助けしたところで、リゼットが皇太子妃になれるわけでもなし」
「でもリゼットのことだから、思いもよらない方法で皇太子妃の座を獲得しようとしているかもしれなくてよ。例えばですけれど、殿下はどのみち従者と結婚するわけにはいかないのですから、表向きはリゼットが妻になって、殿下は従者をお側に置いて、そうして三人仲良く暮らすつもりとか。聞くところによると、例の従者は姿を消したそうよ。従者を探し出して差し上げるから、自分を皇太子妃にしてくれとでも言ったのではないかしら」
「まぁ、お飾りの妃になるなんて。そんな哀れで惨めな思いをしてまで皇太子妃になりたいとは、ずいぶんがめついこと」
とはいえ、相手はあのお人よしである。ローズの仮説もありえなくはない。
「それで、あなたはリゼットを見張っているのではなかったかしら。あくまで裏があるというのは、何か怪しい動きがあったからですの?」
彼女の諜報活動に水を向けると、ローズは高慢な顔つきをして、スッと身を引いた。
「探りたいならどうぞご勝手に、そうおっしゃったのはどこの誰? わたくしが探って知りえたことを、あなたにお伝えする必要はないと思いますけれど」
これを聞いてリアーヌも厭味ったらしい微笑みを浮かべた。
「それもそうね。あなたが勝手に調べているだけですもの。わたくしに教えてくれなくても、文句は言えませんわね。でも残念ですわ。せっかくあなたの仮説を裏付ける良い情報がありましたのに」
それぞれリゼットについて、または皇太子の病気について、有益な情報を持っているらしい。二人はしばし睨み合い、軽い嫌味の応酬をしたが、ついにここは互いに打ち明けるのが得策と、人気のないところへ場所を移した。
そんな二人の動きにサビーナは目を光らせていた。