第四章 思わぬライバル 第十話
文字数 2,954文字
「ありがとうございます。お付きの美容師がいたら、お教えいただいてその者にやらせましたが、王女様を探しに出払ってしまったものですから。それにしても器用でいらっしゃるのね。こんなに上手に髪をセットするご令嬢を見たことがございませんわ」
間近でその美貌とにじみ出る気品を目の当たりにして、リゼットは返事をするのに一拍遅れた。
「それほどのことでは。でも美容師の真似事が上手いなんて、淑女らしくありませんわよね」
「とんでもない。どんなことでも、上手くできるということは素晴らしい才能です。きっとあなたの身の助けになるはずですわ。卑下することなどありません」
——えっちゃんは器用でセンスがある。それは娘役として絶対に役に立つことだからね。もっと自信をもって。
アンリエットの声が記憶の中の深月 あやめのものと重なる。ふと、前世に置いてきたはずのもやもやが心に溢れて、口から零れ落ちた。
「アンリエット様は虚しくありませんの?」
「え?」
アンリエットは微笑を崩さず聞き返した。初対面の相手にこんな質問をするなんてぶしつけすぎるが、それでもリゼットはもやもやを言葉にするのを止められなかった。
「だって昔はこの国一の淑女と謳われて、皇太子殿下から思いを寄せられて、あなたも多少なりとも殿下を好ましいとお思いだったのでしょう。それなのに年上だからとか、国のためとか、そういう理由で引き離されて、辛くて、悲しくて、これまでの自分の努力は一体何だったんだって、自分の存在は何だったんだって、虚しくなりますでしょう?
あなたが皇太子殿下と結ばれていれば、この皇太子妃選びだってなかったはずで、わたくしみたいな美しさも心映えもあなたの足元にも及ばないような人間が、候補になることもなかったはずです。あなただって、昔好きだった殿下の未来のお妃候補の世話係として、未来の妃が選ばれるのを見ているなんて、我慢できないことではございませんの? わたくしだったら、とても平気ではいられませんわ」
大きく息を吸う。コルセットのせいで、まるで走った後のように大げさに見える。アンリエットは微笑を消してじっとリゼットの言葉を聞いていた。そして少し間をおいて、穏やかな表情で答えた。
「どうでしょう? 虚しさがないとは言い切れませんわ。過去には、悔しさや悲しさを感じたこともあったように思います。でも、それ以上に喜びや楽しさ、幸せも感じてきましたわ。
確かに、傍から見ればわたくしは、皇太子殿下と心が通じていたにもかかわらず、皇太子妃の座を逃し、政略で引き裂かれ遠くへ追いやられた可哀そうな女かもしれません。ですが誠実な良き夫と穏やかに過ごし、お可愛らしい王女様のお側で成長を見守る幸福に満ちた生活は、皇太子妃となっていたら手に入らなかったでしょう。
もし皇太子殿下と結ばれていたら、それはそれで幸せだったでしょうが、その後の困難も大きかったはず。きっとどのような人生にも、悲しみも苦しみも、喜びも楽しさもあるのでしょう。だから虚しさに打ちひしがれるということはありませんわ。
でも、あなたは今虚しさばかりだと。皇太子妃選びに疲れてしまっているのでしょうか」
逆に尋ねられ、リゼットは戸惑いながらも、素直に心の内を吐露した。
「何をやっているんだろう、って思ってしまうんです。国一番の淑女に、一体どうすればなれるのか、誰も明確な答えをくれません。わたくしはこれまでの妃選びで、失敗してきたんです。けっこう沢山。でもこうして残っています。他に相応しい方がいたんじゃないかとも思いますし、反対にどうしてこの方がって、思うこともあります。何が功を奏するかわからない、まったく運任せみたいで、あれこれ努力して、意味があるのなかって」
アンリエットは微笑みで頼りなく佇むリゼットを包み込んだ。
「夫と出会って真実の愛を知ったから、かつて皇太子殿下とわたくしとの間にあったものは、愛には及ばないどころか恋とも呼べないような、未熟な感情であったとわかりました。トレゾールの社交界でそれなりの評価を得ていたことが、王女様のお世話係に選ばれる決め手になりました。それを思えば、月並みですけれど、人生においてまったく無意味なことなど無いのですよ」
「では、報われないのに、このまま努力を続けるしかないのでしょうか」
「報いは必ずあります。あなたが思っている形ではないかもしれませんけれど。もちろん、皇太子妃選びから降りてもいいのです。その道の先にある未来を信じ、幸せに納得するなら。でもあなたは、皇太子妃選びを続けることに虚しさを覚えているけれど、さりとて降りた先に希望が見いだせていない。そのために、ますます悩みを深めている。そうお見受けします。
最後は自ら選ぶしかないのです。降りてみたら、思わぬ幸せに巡り合えるかもしれませんが、それは続けた場合も同じ。未来の事は誰にもわからないのですから。
ただ、失敗しても残っているということですし、降りてしまうのはもったいないですわよ。あなたは魅力的な淑女ですし、王女様のわがままを聞いてくれるお優しさは、きっとあなたを良い未来へ導いてくれるはずです」
どちらをとっても幸せと不幸がある。まして両親の借金のことを考えると、降りてしまった道には不幸しかない。どちらの道を選ぶかは、自明の理だった。
(いつか報われると信じて、続けるしかないのね)
これまでならば、そのいつかを信じることができなかったが、自信に満ちた輝きを放つアンリエットが、明るい未来の存在を裏付けていた。
「お話は終わった?」
自分の姿に見飽きたのか、キトリィがアンリエットの手を引いた。
「はい。さぁ庭園へ参りましょう。皇帝陛下も皇后陛下もお待ちかねです。リゼット様もご一緒に」
「ええ」
リゼットの表情には明るさが戻っていた。この強く美しい人が言うなら、信じて先へ進もうと思えた。
「なんだかリゼット様は初めて会った気がしませんわ。まるで昔の友のよう。王女様もリゼット様がお好きなようですし、滞在中は仲良くしてくださいませね」
「有り難いお言葉です。わたくしこそ励まされましたわ」
三人は階段を下りて庭園へ出た。先ほど鬼ごっこして通ったのとは違う道を歩くと、程なく見事な藤棚に囲まれた東屋があった。そして東屋の前に佇んでいたのは、皇太子ルシアンだった。
リゼットはもちろん、アンリエットもキトリィも驚いてお辞儀をした。
(これ、きっとお邪魔虫よね)
人気のない庭園の隅っこに皇太子が一人だけとは、明らかにアンリエットに会いに来たにのだ。
「ではわたくしたちは先に行っておりますわね」
と、キトリィの手を引いて東屋から離れる。アンリエットは少しキトリィを気にしているようだったが、ルシアンに促されて東屋の屋根の下に入った。
(でも、お付きのアンリエット様じゃなくて、私が王女様を連れて来たら変に思われるわよね。それに途中でお兄様に見つかったら? やっぱりアンリエット様を待とう)
丁度背の高い生垣が並び日陰ができてるところがあった。待つのにちょうどいい。だが近付いてみると先客がいた。
ひょろっとした宮廷の使用人だった。彼はキトリィを見るなり、慌てて二人の前に立ちふさがって、通せんぼをした。
間近でその美貌とにじみ出る気品を目の当たりにして、リゼットは返事をするのに一拍遅れた。
「それほどのことでは。でも美容師の真似事が上手いなんて、淑女らしくありませんわよね」
「とんでもない。どんなことでも、上手くできるということは素晴らしい才能です。きっとあなたの身の助けになるはずですわ。卑下することなどありません」
——えっちゃんは器用でセンスがある。それは娘役として絶対に役に立つことだからね。もっと自信をもって。
アンリエットの声が記憶の中の
「アンリエット様は虚しくありませんの?」
「え?」
アンリエットは微笑を崩さず聞き返した。初対面の相手にこんな質問をするなんてぶしつけすぎるが、それでもリゼットはもやもやを言葉にするのを止められなかった。
「だって昔はこの国一の淑女と謳われて、皇太子殿下から思いを寄せられて、あなたも多少なりとも殿下を好ましいとお思いだったのでしょう。それなのに年上だからとか、国のためとか、そういう理由で引き離されて、辛くて、悲しくて、これまでの自分の努力は一体何だったんだって、自分の存在は何だったんだって、虚しくなりますでしょう?
あなたが皇太子殿下と結ばれていれば、この皇太子妃選びだってなかったはずで、わたくしみたいな美しさも心映えもあなたの足元にも及ばないような人間が、候補になることもなかったはずです。あなただって、昔好きだった殿下の未来のお妃候補の世話係として、未来の妃が選ばれるのを見ているなんて、我慢できないことではございませんの? わたくしだったら、とても平気ではいられませんわ」
大きく息を吸う。コルセットのせいで、まるで走った後のように大げさに見える。アンリエットは微笑を消してじっとリゼットの言葉を聞いていた。そして少し間をおいて、穏やかな表情で答えた。
「どうでしょう? 虚しさがないとは言い切れませんわ。過去には、悔しさや悲しさを感じたこともあったように思います。でも、それ以上に喜びや楽しさ、幸せも感じてきましたわ。
確かに、傍から見ればわたくしは、皇太子殿下と心が通じていたにもかかわらず、皇太子妃の座を逃し、政略で引き裂かれ遠くへ追いやられた可哀そうな女かもしれません。ですが誠実な良き夫と穏やかに過ごし、お可愛らしい王女様のお側で成長を見守る幸福に満ちた生活は、皇太子妃となっていたら手に入らなかったでしょう。
もし皇太子殿下と結ばれていたら、それはそれで幸せだったでしょうが、その後の困難も大きかったはず。きっとどのような人生にも、悲しみも苦しみも、喜びも楽しさもあるのでしょう。だから虚しさに打ちひしがれるということはありませんわ。
でも、あなたは今虚しさばかりだと。皇太子妃選びに疲れてしまっているのでしょうか」
逆に尋ねられ、リゼットは戸惑いながらも、素直に心の内を吐露した。
「何をやっているんだろう、って思ってしまうんです。国一番の淑女に、一体どうすればなれるのか、誰も明確な答えをくれません。わたくしはこれまでの妃選びで、失敗してきたんです。けっこう沢山。でもこうして残っています。他に相応しい方がいたんじゃないかとも思いますし、反対にどうしてこの方がって、思うこともあります。何が功を奏するかわからない、まったく運任せみたいで、あれこれ努力して、意味があるのなかって」
アンリエットは微笑みで頼りなく佇むリゼットを包み込んだ。
「夫と出会って真実の愛を知ったから、かつて皇太子殿下とわたくしとの間にあったものは、愛には及ばないどころか恋とも呼べないような、未熟な感情であったとわかりました。トレゾールの社交界でそれなりの評価を得ていたことが、王女様のお世話係に選ばれる決め手になりました。それを思えば、月並みですけれど、人生においてまったく無意味なことなど無いのですよ」
「では、報われないのに、このまま努力を続けるしかないのでしょうか」
「報いは必ずあります。あなたが思っている形ではないかもしれませんけれど。もちろん、皇太子妃選びから降りてもいいのです。その道の先にある未来を信じ、幸せに納得するなら。でもあなたは、皇太子妃選びを続けることに虚しさを覚えているけれど、さりとて降りた先に希望が見いだせていない。そのために、ますます悩みを深めている。そうお見受けします。
最後は自ら選ぶしかないのです。降りてみたら、思わぬ幸せに巡り合えるかもしれませんが、それは続けた場合も同じ。未来の事は誰にもわからないのですから。
ただ、失敗しても残っているということですし、降りてしまうのはもったいないですわよ。あなたは魅力的な淑女ですし、王女様のわがままを聞いてくれるお優しさは、きっとあなたを良い未来へ導いてくれるはずです」
どちらをとっても幸せと不幸がある。まして両親の借金のことを考えると、降りてしまった道には不幸しかない。どちらの道を選ぶかは、自明の理だった。
(いつか報われると信じて、続けるしかないのね)
これまでならば、そのいつかを信じることができなかったが、自信に満ちた輝きを放つアンリエットが、明るい未来の存在を裏付けていた。
「お話は終わった?」
自分の姿に見飽きたのか、キトリィがアンリエットの手を引いた。
「はい。さぁ庭園へ参りましょう。皇帝陛下も皇后陛下もお待ちかねです。リゼット様もご一緒に」
「ええ」
リゼットの表情には明るさが戻っていた。この強く美しい人が言うなら、信じて先へ進もうと思えた。
「なんだかリゼット様は初めて会った気がしませんわ。まるで昔の友のよう。王女様もリゼット様がお好きなようですし、滞在中は仲良くしてくださいませね」
「有り難いお言葉です。わたくしこそ励まされましたわ」
三人は階段を下りて庭園へ出た。先ほど鬼ごっこして通ったのとは違う道を歩くと、程なく見事な藤棚に囲まれた東屋があった。そして東屋の前に佇んでいたのは、皇太子ルシアンだった。
リゼットはもちろん、アンリエットもキトリィも驚いてお辞儀をした。
(これ、きっとお邪魔虫よね)
人気のない庭園の隅っこに皇太子が一人だけとは、明らかにアンリエットに会いに来たにのだ。
「ではわたくしたちは先に行っておりますわね」
と、キトリィの手を引いて東屋から離れる。アンリエットは少しキトリィを気にしているようだったが、ルシアンに促されて東屋の屋根の下に入った。
(でも、お付きのアンリエット様じゃなくて、私が王女様を連れて来たら変に思われるわよね。それに途中でお兄様に見つかったら? やっぱりアンリエット様を待とう)
丁度背の高い生垣が並び日陰ができてるところがあった。待つのにちょうどいい。だが近付いてみると先客がいた。
ひょろっとした宮廷の使用人だった。彼はキトリィを見るなり、慌てて二人の前に立ちふさがって、通せんぼをした。