第四章 思わぬライバル 第七話
文字数 2,922文字
出てきたのは少女だった。ふわふわの茶色い巻き毛を揺らして、ふっくらとした丸い頬はバラ色に上気し、小さな顎の上の唇もぽってりとして、鼻も丸みを帯びて、幼気な愛らしさに溢れていた。そして大きな瞳は吸い込まれるような青色で、好奇心にキラキラと輝いている。
まるでビスクドールが生きて歩いているようだ。目の醒めるような青緑のスカートを両手でつまんで、同じ色の靴が見えるのを厭わずに小走りで列の前まで行って、人だかりに驚き、指さしてはしきりに馬車の方を振り返って声を上げている。
「王女様、そんなふうに走ってはいけませんよ」
馬車の中から落ち着いた大人の女性の声が、リヴェール語で少女に語り掛けた。その後、声の主が姿を現した。その姿を見て、リゼットは息を飲んだ。
若草色に黄色のブレードが上品に這うドレスに身を包み、鎖骨の印影が美しい広いデコルテから、ほっそりとした首が伸びている。滑らかな卵形の輪郭に桜色の唇、その上すっと細く高い鼻があり、幅のある瞼は少々憂え気に深い茶色の瞳に影を作っている。眉は柔らかく弓なりに伸び、ウェーブした前髪が白い額を縁取っている。ハーフアップにした髪は真珠のネットでまとめられ、残りの毛束が背中に豊かに広がっている。
(何、この超美しい人は!)
美しすぎて年齢を推測することができないが、あの少女の母親には見えない。それに王女様と呼びかけていたのだし。
「ん? ちょっと待って、王女様?」
「そう聞こえたわね。リヴェールの王女様が来賓としていらっしゃるなんて、聞いていないわ」
父親が宮廷の中枢にいるブランシュも知らなかったようである。
列に並んだ人々がざわついている間に、馬車からは侍女と思しき女性やらお付きの使用人やらが四人ほど出てきた。
そして、離宮の中から出てきたのリヴェール大使が一行を出迎えた。
「王女様、ようこそおこしに。さぁ、ここは人が多うございますから、別の入り口へご案内いたします」
「わたしは並ばないの? みんな行列しているのに、ずるしたくない」
「お立場ゆえです。それに、ここではトレゾールの言葉でお話しなさいませ」
女性が優しく肩に手を添えて少女を誘導し、大使とともに離宮内へ消えた。
リゼットたちはあっけに取られて眺めていた。
「後から出てきたあの方、アンリエット様ではないの?」
「ええ? サビーナの知り合い?」
「違うわ。でも知らない人ではないの。あの人、元はこのトレゾールの伯爵令嬢よ。そして、昔皇太子殿下が憧れていた女性なの。
まだ皇太子殿下が14歳の頃、アンリエット様は社交界の花で、殿方のみならず、女性たちからも羨望と敬愛の眼差しを向けられていたとか。殿下も例に漏れず、あの方に恋してしまったのですって。まぁ、まだ殿下は子供だったし、あの方も当時のリヴェール大使のご子息との縁談を受けて、嫁いでいかれたということだけど」
ルシアンにそんな人がいたとはリゼットは初耳だった。
行列は進み、一行は離宮の中へ入った。丁度その時、入り口の次の広間から、皇帝陛下、という声が聞こえた。リゼットたちが人をかき分けて行ってみると、腕の取れた大きな女性の彫刻の前に皇帝夫妻と皇太子がいた。周辺は衛兵によって空間をあけられている。集まった人々は、皇帝万歳を唱え、ロイヤルファミリーに手を振っている。
別の衛兵に守られた一団が、その空間の中へ入ってきた。先ほどの大使と少女であった。あの美しい女性も一緒だった。
「陛下、リヴェールより参られました、第五王女様でございます」
「始めまして皇帝陛下、キトリィです」
少女は元気いっぱいにスカートを広げてしゃがんで挨拶をした。
「リヴェール国王陛下からの建国500年への祝いとして、今日より、キトリィ王女様も皇太子妃選びに参加いたします。何卒よろしくと、国王陛下から書簡を預かっております」
大使は青いリボンで巻かれた書簡を恭しく皇帝へ差し出した。皇帝はざっと目を通して、大使にねぎらいの言葉をかけ、さらにキトリィにも二言三言言葉をかけた。
「アンリエット、久しぶりですね」
ルシアンはキトリィへの挨拶もそこそこに、王女の後ろの麗人に声をかけた。その顔は驚きと戸惑いと、喜びに満ちていた。
「お久しぶりです殿下。リヴェールで王女様の教育係を任されておりまして、この度グリシーヌでお妃選びに参加するにあたり、こちらの勝手がわかる人間が付き添ったほうが良いと、お供して参りました。思いがけず故郷を再び目にすることができ、嬉しい限りです」
「そうですか。良い機会ですから、懐かしい場所など巡ってみては」
「そういたします」
短いやり取りだったが、二人の間に何か強い絆のようなものがあった。
皇帝一家は王女に王家の宝を見せながら、どんどん先へ進んでいってしまった。
「まさかアンリエット様が戻ってくるとは」
リアーヌと一緒に訪れていたセブランも驚き、昔のことを回述した。
「殿下は早くに社交の場に顔を出していたから、あの方とも交流があった。年上の姉を慕うような気持ちが、段々と淡い思いに変わっていたのは、友として私もよく知っている。ただ、あの方は5歳も年上だったから、皇太子妃にとはならなかった。当時のリヴェール大使令息との縁談も、多分に国同士の政略的な意味があって、殿下に諦めさせるためだったのではと噂されていたが」
「それよりも、王女様が皇太子妃選びに参加するとはどういうことですの? 普通は他の王家からお妃を迎えるところを、建国500年を記念して、国内から選ぶことになったのに」
リアーヌが気にかかっているのはそこだった。王女を前にしたら、たかが貴族令嬢など蹴散らされてしまう。
「皇太子殿下の初恋の人が戻ってきて、おまけに王女様まで参戦するなんて。どうやって殿下のお心を掴めっていうのよ!」
同じく会場に来ていたローズも思わず恨み言をつぶやいた。
リゼットたちはゆるゆると会場を見て回ったが、彫刻や壁画、陶磁器などを見ても、まったく心に残らなかった。先ほどの出来事に心を持っていかれてしまったからだ。
「アンリエットとかいうのはさほど問題ではない。もう人妻で、しかも政略結婚なら尚更皇太子殿下も本人も迂闊なことはできないだろうからな。問題は王女だ。こちらも政略で送り込まれてきたなら、内々には皇太子妃と決まっているのかもしれない」
「それじゃあ、わたしたち、これからは出来レースを盛り上げるだけってこと?」
リゼットは落胆を隠せなかった。シモンの言う通りなら、もう皇太子妃の座は手に入らない。
それに、ルシアンとアンリエットの間にある感情は、単なる昔の恋といえるほど冷えていないようだった。
(でも、あんなに綺麗な人ならしょうがないわよね。それに皇太子殿下もあの人も、お互いに気持ちがあるのに、政略結婚で引き離されてしまったなんて、辛いわよね。本当なら皇太子妃はあの人だったかもしれないのに)
リゼットはリヴェールの軍が遠い大陸へ遠征して入手してきたという、象形文字の刻み込まれた石板を眺めながら、悲劇の恋人たち、特にあの麗しいアンリエットに思いをはせた。そのまま思考は前世の記憶へ向かって行った。らいひ
まるでビスクドールが生きて歩いているようだ。目の醒めるような青緑のスカートを両手でつまんで、同じ色の靴が見えるのを厭わずに小走りで列の前まで行って、人だかりに驚き、指さしてはしきりに馬車の方を振り返って声を上げている。
「王女様、そんなふうに走ってはいけませんよ」
馬車の中から落ち着いた大人の女性の声が、リヴェール語で少女に語り掛けた。その後、声の主が姿を現した。その姿を見て、リゼットは息を飲んだ。
若草色に黄色のブレードが上品に這うドレスに身を包み、鎖骨の印影が美しい広いデコルテから、ほっそりとした首が伸びている。滑らかな卵形の輪郭に桜色の唇、その上すっと細く高い鼻があり、幅のある瞼は少々憂え気に深い茶色の瞳に影を作っている。眉は柔らかく弓なりに伸び、ウェーブした前髪が白い額を縁取っている。ハーフアップにした髪は真珠のネットでまとめられ、残りの毛束が背中に豊かに広がっている。
(何、この超美しい人は!)
美しすぎて年齢を推測することができないが、あの少女の母親には見えない。それに王女様と呼びかけていたのだし。
「ん? ちょっと待って、王女様?」
「そう聞こえたわね。リヴェールの王女様が来賓としていらっしゃるなんて、聞いていないわ」
父親が宮廷の中枢にいるブランシュも知らなかったようである。
列に並んだ人々がざわついている間に、馬車からは侍女と思しき女性やらお付きの使用人やらが四人ほど出てきた。
そして、離宮の中から出てきたのリヴェール大使が一行を出迎えた。
「王女様、ようこそおこしに。さぁ、ここは人が多うございますから、別の入り口へご案内いたします」
「わたしは並ばないの? みんな行列しているのに、ずるしたくない」
「お立場ゆえです。それに、ここではトレゾールの言葉でお話しなさいませ」
女性が優しく肩に手を添えて少女を誘導し、大使とともに離宮内へ消えた。
リゼットたちはあっけに取られて眺めていた。
「後から出てきたあの方、アンリエット様ではないの?」
「ええ? サビーナの知り合い?」
「違うわ。でも知らない人ではないの。あの人、元はこのトレゾールの伯爵令嬢よ。そして、昔皇太子殿下が憧れていた女性なの。
まだ皇太子殿下が14歳の頃、アンリエット様は社交界の花で、殿方のみならず、女性たちからも羨望と敬愛の眼差しを向けられていたとか。殿下も例に漏れず、あの方に恋してしまったのですって。まぁ、まだ殿下は子供だったし、あの方も当時のリヴェール大使のご子息との縁談を受けて、嫁いでいかれたということだけど」
ルシアンにそんな人がいたとはリゼットは初耳だった。
行列は進み、一行は離宮の中へ入った。丁度その時、入り口の次の広間から、皇帝陛下、という声が聞こえた。リゼットたちが人をかき分けて行ってみると、腕の取れた大きな女性の彫刻の前に皇帝夫妻と皇太子がいた。周辺は衛兵によって空間をあけられている。集まった人々は、皇帝万歳を唱え、ロイヤルファミリーに手を振っている。
別の衛兵に守られた一団が、その空間の中へ入ってきた。先ほどの大使と少女であった。あの美しい女性も一緒だった。
「陛下、リヴェールより参られました、第五王女様でございます」
「始めまして皇帝陛下、キトリィです」
少女は元気いっぱいにスカートを広げてしゃがんで挨拶をした。
「リヴェール国王陛下からの建国500年への祝いとして、今日より、キトリィ王女様も皇太子妃選びに参加いたします。何卒よろしくと、国王陛下から書簡を預かっております」
大使は青いリボンで巻かれた書簡を恭しく皇帝へ差し出した。皇帝はざっと目を通して、大使にねぎらいの言葉をかけ、さらにキトリィにも二言三言言葉をかけた。
「アンリエット、久しぶりですね」
ルシアンはキトリィへの挨拶もそこそこに、王女の後ろの麗人に声をかけた。その顔は驚きと戸惑いと、喜びに満ちていた。
「お久しぶりです殿下。リヴェールで王女様の教育係を任されておりまして、この度グリシーヌでお妃選びに参加するにあたり、こちらの勝手がわかる人間が付き添ったほうが良いと、お供して参りました。思いがけず故郷を再び目にすることができ、嬉しい限りです」
「そうですか。良い機会ですから、懐かしい場所など巡ってみては」
「そういたします」
短いやり取りだったが、二人の間に何か強い絆のようなものがあった。
皇帝一家は王女に王家の宝を見せながら、どんどん先へ進んでいってしまった。
「まさかアンリエット様が戻ってくるとは」
リアーヌと一緒に訪れていたセブランも驚き、昔のことを回述した。
「殿下は早くに社交の場に顔を出していたから、あの方とも交流があった。年上の姉を慕うような気持ちが、段々と淡い思いに変わっていたのは、友として私もよく知っている。ただ、あの方は5歳も年上だったから、皇太子妃にとはならなかった。当時のリヴェール大使令息との縁談も、多分に国同士の政略的な意味があって、殿下に諦めさせるためだったのではと噂されていたが」
「それよりも、王女様が皇太子妃選びに参加するとはどういうことですの? 普通は他の王家からお妃を迎えるところを、建国500年を記念して、国内から選ぶことになったのに」
リアーヌが気にかかっているのはそこだった。王女を前にしたら、たかが貴族令嬢など蹴散らされてしまう。
「皇太子殿下の初恋の人が戻ってきて、おまけに王女様まで参戦するなんて。どうやって殿下のお心を掴めっていうのよ!」
同じく会場に来ていたローズも思わず恨み言をつぶやいた。
リゼットたちはゆるゆると会場を見て回ったが、彫刻や壁画、陶磁器などを見ても、まったく心に残らなかった。先ほどの出来事に心を持っていかれてしまったからだ。
「アンリエットとかいうのはさほど問題ではない。もう人妻で、しかも政略結婚なら尚更皇太子殿下も本人も迂闊なことはできないだろうからな。問題は王女だ。こちらも政略で送り込まれてきたなら、内々には皇太子妃と決まっているのかもしれない」
「それじゃあ、わたしたち、これからは出来レースを盛り上げるだけってこと?」
リゼットは落胆を隠せなかった。シモンの言う通りなら、もう皇太子妃の座は手に入らない。
それに、ルシアンとアンリエットの間にある感情は、単なる昔の恋といえるほど冷えていないようだった。
(でも、あんなに綺麗な人ならしょうがないわよね。それに皇太子殿下もあの人も、お互いに気持ちがあるのに、政略結婚で引き離されてしまったなんて、辛いわよね。本当なら皇太子妃はあの人だったかもしれないのに)
リゼットはリヴェールの軍が遠い大陸へ遠征して入手してきたという、象形文字の刻み込まれた石板を眺めながら、悲劇の恋人たち、特にあの麗しいアンリエットに思いをはせた。そのまま思考は前世の記憶へ向かって行った。らいひ