第二章 レーブジャルダン家 第五話
文字数 2,961文字
「いいですか。貴族のご令嬢というのは、歩き方から声の出し方にいたるまで、生活の全てが洗練されているのです。行儀見習いの時間だけやっていればいいというものではなく、常日頃から意識しなくてはいけません。どこに出しても恥ずかしくない淑女にはなるために、わたしの言うことをよく聞いて、常に意識を切らさぬように。わかりましたね」
「はい!」
厳しい指導にはとにかく返事。理不尽に思っても、不満を感じても、口答えしてはいけない。歌舞校時代の習性で、気をつけをして大声で返事をしてしまった。
「な、何です? そんな軍の下士官のような態度もいけませんよ」
「あー、ごめんなさい。気を付け……ますわ」
「よろしい」
ノエルはそのまま行儀見習いを続けた。
「お嬢様は早口でいけません。抑揚が少ないのもいただけません。何より声がひくくてガサツな感じがします。もっと軽やかで美しい声を出してください」
(そう言われても、生まれながらにこういう声なんだけど)
どうすればお嬢様らしく聞こえるだろうか。リゼットは少し考えてから、ある答えを導き出し、ノエルに話しかけた。
「それでは、こんな感じの声で、こうやって、ゆったりと喋ればよろしいのかしら?」
先ほどとは打って変わって、程よい高さで、それでいて聞き取りやすい声で、少し大げさかと思われる抑揚がついている。ノエルはあまりの変わりように驚いた。
これは舞台での発声だった。喋り方も、芝居で貴族の役柄の台詞を喋るつもりでやってみた。
(あれ、けっこういけてるのかな)
「ノエル。どうかしら?」
調子に乗って畳みかけると、ノエルは目を瞬いて目を泳がせた。
「ま、まぁ、よろしいのではないでしょうか」
味を占めたリゼットは部屋の中を歩き回る。もちろん、舞台に立っているつもりで、しゃなりしゃなりと、スカートの裾さばきも軽やかに。
「そ、それなりですわね」
それから部屋の角からまっすぐノエルの前に進み、片膝を折り、スカートを両手で摘まみ上げて優雅にお辞儀した。
「……ひとまずは、合格です」
もっとビシバシ指摘するつもりでいたのだろう。咳払いして動揺を誤魔化している。
(なるほど。舞台で演じているつもりでやれば通用するのね。それなら楽勝だわ)
日本人が舞台で演じる貴族と本物の貴族は違うはずだが。どうもこの世界は都合よくできているようだ。
リゼットが得意になっていると、扉がやや乱暴に開いた。シモンが無遠慮に部屋に入ってくる。どうやらリセットの様子を見に来たらしい。
「あらお兄様、妹ととはいえノックもせずに女性の部屋に入ってくるなんて、少し不作法ではございませんこと?」
シモンも目を丸くしてまじまじとリゼットを見た。実は朝の両親とのやり取りについて、ノエルと同じ小言を言いに来たのだ。だが文句を言う前に、様変わりしたリゼットを目の当たりにして、文句は引っ込んでしまったようだ。
「まさか! 朝食からろくに時間はたっていないぞ。それなのにもう言葉づかいがなおったというのか」
ノエルを問い詰めるが、彼女もまったく予想外だという。
「まぁ、言葉と日常生活での所作がなおったからといって、学ぶべきことは他にもあるんだ。あれを出せ」
命じられてノエルがキャビネットからと出したのは、見覚えのある代物だった。
「夜会服の用のパニエをつけて優雅に歩けるかな。まぁ、これは誰でも社交界デビューが決まってから歩き方を練習するから、都のご令嬢でも最初は多少揺れてしまうものだがな。しかし日常の動作が洗練されていれば、習得も早い。ちょっとそれらしく振舞えたくらいでは、とても美しく歩けないだろう」
シモンの言葉が終わるまでに、ノエルは竹の輪でドーム型に膨らんだパニエをリゼットに着せた。ドレスの上からきわめて簡易的に穿かせたので、なんだか滑稽な姿になっている。
(輪っかのドレスを揺らさないなんて、娘役の必須スキルじゃない!)
リゼットは得意げに、はなから出来っこないと決めつけてくるシモンの前を横切って見せた。パニエを揺らさずに、滑るように優雅に。シモンもノエルも驚きで言葉を失っている。
「な、なら次はダンスだ。お前はステップすら知らないだろう。いや、そもそも手をどこに置くかも……」
「お兄様とペアになって踊ればよろしいのですね」
シモンが言い終わる前に、リゼットは片手で彼の手を取り、もう片方の手を彼の腰に回した。背はしなやかに美しく反らせて。そして先んじてステップを踏んだ。リゼットがリードする形で、狭い部屋の中で家具を避けながら、二人はくるくると周り乍ら軽やかに踊った。
一通り踊ると、リゼットは自然に足を止めて、胸に片手を当ててお辞儀する。社交ダンスのように踊るなんて、舞台の上で男役とよくやっていたから慣れっこだ。
「こいつは、天才なのか」
あまりにもできすぎていて、シモンは思わずつぶやいた。
娘役時代に培った技術が思わぬところで役に立ち、リゼットは少々興奮していた。劇団にいた頃は、努力して技術を身につけても、それに着目してくれる客は少なかったし、できなくて叱られることはあれど、できて褒められることもなかった。
リゼットの顔には自然と笑みが浮かんだ。それにつられたのか、シモンも驚愕と戸惑いから、口角を吊り上げて微笑へと表情を変えた。
「これなら、思っていたよりも早く、しかももっと高いところまで教育できるな」
彼の小さな呟きは、リゼットの耳には届かなかった。
「よし。所作や言葉づかい、ダンスの稽古は減らそう。そのかわり座学を増やす」
と、半ば強引にシモンに連れられて書斎へ連れていかれた。そして机に座らされると、どさりと、古ぼけた分厚い本を何冊も目の前に積み上げられる。
「貴族の令嬢たるもの教養も必須だ。まずトレゾールの歴史、地理、主な産業を頭に叩き込め。一昨日まで教えていたこともきれいさっぱり忘れてしまったようだからな」
こんなに沢山。リゼットは本のうち一つをとりあげて開いてみる。日本語ではない文字が連なっているが、きちんと意味が頭に入ってくる。こういうところも都合よくできている。
「終わったら文字の書き取りだ。それから文学や詩を学ぶ。社交界での会話は、戯曲や小説、詩の内容を引用することが多いから、わからなければ無知と馬鹿にされる。あと、皇族と名家の貴族についても一通り覚えておけ。社交界で上手く立ち回るためにな。リヴェール語も喋れるようになってもらう」
突如として始まったシモンによる怒涛の座学に、リゼットはついてゆくので必死だった。なんせお勉強など歌舞校に入学した17歳以降まったくしていない。
午前中いっぱい、シモンの講義で精神的にへとへとになっていると、ノエルが昼食を用意したと、自室へ戻るよう指示した。
「お部屋に用意したのは、テーブルマナーを練習するためです。奥様と旦那様の前で厳しく指導するわけにはいきませんから。今朝スプーン一つで食べられるように配慮したのも、粗が出ないようにです」
テーブルマナーも、外側から食器を使う程度の話ではなかった。いちいちナイフの角度だの、スプーンを握る手の形だのを指摘され、全く食べた気がしなかった。せっかくの豪勢な昼食だというのに。
(全然楽勝じゃない!)
リゼットは心の中で叫んだ。
「はい!」
厳しい指導にはとにかく返事。理不尽に思っても、不満を感じても、口答えしてはいけない。歌舞校時代の習性で、気をつけをして大声で返事をしてしまった。
「な、何です? そんな軍の下士官のような態度もいけませんよ」
「あー、ごめんなさい。気を付け……ますわ」
「よろしい」
ノエルはそのまま行儀見習いを続けた。
「お嬢様は早口でいけません。抑揚が少ないのもいただけません。何より声がひくくてガサツな感じがします。もっと軽やかで美しい声を出してください」
(そう言われても、生まれながらにこういう声なんだけど)
どうすればお嬢様らしく聞こえるだろうか。リゼットは少し考えてから、ある答えを導き出し、ノエルに話しかけた。
「それでは、こんな感じの声で、こうやって、ゆったりと喋ればよろしいのかしら?」
先ほどとは打って変わって、程よい高さで、それでいて聞き取りやすい声で、少し大げさかと思われる抑揚がついている。ノエルはあまりの変わりように驚いた。
これは舞台での発声だった。喋り方も、芝居で貴族の役柄の台詞を喋るつもりでやってみた。
(あれ、けっこういけてるのかな)
「ノエル。どうかしら?」
調子に乗って畳みかけると、ノエルは目を瞬いて目を泳がせた。
「ま、まぁ、よろしいのではないでしょうか」
味を占めたリゼットは部屋の中を歩き回る。もちろん、舞台に立っているつもりで、しゃなりしゃなりと、スカートの裾さばきも軽やかに。
「そ、それなりですわね」
それから部屋の角からまっすぐノエルの前に進み、片膝を折り、スカートを両手で摘まみ上げて優雅にお辞儀した。
「……ひとまずは、合格です」
もっとビシバシ指摘するつもりでいたのだろう。咳払いして動揺を誤魔化している。
(なるほど。舞台で演じているつもりでやれば通用するのね。それなら楽勝だわ)
日本人が舞台で演じる貴族と本物の貴族は違うはずだが。どうもこの世界は都合よくできているようだ。
リゼットが得意になっていると、扉がやや乱暴に開いた。シモンが無遠慮に部屋に入ってくる。どうやらリセットの様子を見に来たらしい。
「あらお兄様、妹ととはいえノックもせずに女性の部屋に入ってくるなんて、少し不作法ではございませんこと?」
シモンも目を丸くしてまじまじとリゼットを見た。実は朝の両親とのやり取りについて、ノエルと同じ小言を言いに来たのだ。だが文句を言う前に、様変わりしたリゼットを目の当たりにして、文句は引っ込んでしまったようだ。
「まさか! 朝食からろくに時間はたっていないぞ。それなのにもう言葉づかいがなおったというのか」
ノエルを問い詰めるが、彼女もまったく予想外だという。
「まぁ、言葉と日常生活での所作がなおったからといって、学ぶべきことは他にもあるんだ。あれを出せ」
命じられてノエルがキャビネットからと出したのは、見覚えのある代物だった。
「夜会服の用のパニエをつけて優雅に歩けるかな。まぁ、これは誰でも社交界デビューが決まってから歩き方を練習するから、都のご令嬢でも最初は多少揺れてしまうものだがな。しかし日常の動作が洗練されていれば、習得も早い。ちょっとそれらしく振舞えたくらいでは、とても美しく歩けないだろう」
シモンの言葉が終わるまでに、ノエルは竹の輪でドーム型に膨らんだパニエをリゼットに着せた。ドレスの上からきわめて簡易的に穿かせたので、なんだか滑稽な姿になっている。
(輪っかのドレスを揺らさないなんて、娘役の必須スキルじゃない!)
リゼットは得意げに、はなから出来っこないと決めつけてくるシモンの前を横切って見せた。パニエを揺らさずに、滑るように優雅に。シモンもノエルも驚きで言葉を失っている。
「な、なら次はダンスだ。お前はステップすら知らないだろう。いや、そもそも手をどこに置くかも……」
「お兄様とペアになって踊ればよろしいのですね」
シモンが言い終わる前に、リゼットは片手で彼の手を取り、もう片方の手を彼の腰に回した。背はしなやかに美しく反らせて。そして先んじてステップを踏んだ。リゼットがリードする形で、狭い部屋の中で家具を避けながら、二人はくるくると周り乍ら軽やかに踊った。
一通り踊ると、リゼットは自然に足を止めて、胸に片手を当ててお辞儀する。社交ダンスのように踊るなんて、舞台の上で男役とよくやっていたから慣れっこだ。
「こいつは、天才なのか」
あまりにもできすぎていて、シモンは思わずつぶやいた。
娘役時代に培った技術が思わぬところで役に立ち、リゼットは少々興奮していた。劇団にいた頃は、努力して技術を身につけても、それに着目してくれる客は少なかったし、できなくて叱られることはあれど、できて褒められることもなかった。
リゼットの顔には自然と笑みが浮かんだ。それにつられたのか、シモンも驚愕と戸惑いから、口角を吊り上げて微笑へと表情を変えた。
「これなら、思っていたよりも早く、しかももっと高いところまで教育できるな」
彼の小さな呟きは、リゼットの耳には届かなかった。
「よし。所作や言葉づかい、ダンスの稽古は減らそう。そのかわり座学を増やす」
と、半ば強引にシモンに連れられて書斎へ連れていかれた。そして机に座らされると、どさりと、古ぼけた分厚い本を何冊も目の前に積み上げられる。
「貴族の令嬢たるもの教養も必須だ。まずトレゾールの歴史、地理、主な産業を頭に叩き込め。一昨日まで教えていたこともきれいさっぱり忘れてしまったようだからな」
こんなに沢山。リゼットは本のうち一つをとりあげて開いてみる。日本語ではない文字が連なっているが、きちんと意味が頭に入ってくる。こういうところも都合よくできている。
「終わったら文字の書き取りだ。それから文学や詩を学ぶ。社交界での会話は、戯曲や小説、詩の内容を引用することが多いから、わからなければ無知と馬鹿にされる。あと、皇族と名家の貴族についても一通り覚えておけ。社交界で上手く立ち回るためにな。リヴェール語も喋れるようになってもらう」
突如として始まったシモンによる怒涛の座学に、リゼットはついてゆくので必死だった。なんせお勉強など歌舞校に入学した17歳以降まったくしていない。
午前中いっぱい、シモンの講義で精神的にへとへとになっていると、ノエルが昼食を用意したと、自室へ戻るよう指示した。
「お部屋に用意したのは、テーブルマナーを練習するためです。奥様と旦那様の前で厳しく指導するわけにはいきませんから。今朝スプーン一つで食べられるように配慮したのも、粗が出ないようにです」
テーブルマナーも、外側から食器を使う程度の話ではなかった。いちいちナイフの角度だの、スプーンを握る手の形だのを指摘され、全く食べた気がしなかった。せっかくの豪勢な昼食だというのに。
(全然楽勝じゃない!)
リゼットは心の中で叫んだ。