第一章 労多くして功少なし 第一話
文字数 2,886文字
「辞めよっかな」
大部屋の化粧前で、そう呟いた。鏡には、ドーランで頬や目の下に陰影をつけ、粉を叩いただけの、彫の深いのっぺらぼうのような顔が映っている。
「え、えっちゃん辞めるの?」
隣で化粧をしていた同期の紫貴 ゆうやは、ルボタンの筆を右手に抓んだままこちらを向いた。片目だけアイラインを引いた状態で、それがいかに目を大きく見せているかがよくわかる。
「辞めちゃうんですか?」
斜め後ろからも同じ言葉が飛んできた。手伝いをしてくれている下級生の晴日 つばめだ。うなじから背中にかけて、ドーランを塗ってもらっているところだった。
そこで初めて、えっちゃんこと夢園 さゆりは、“辞める”などという単語が己の口からこぼれていたことに気が付いた。
退団を決意したわけでも、考えているわけでもなかった。今日もいつものように、バレエのメイクを独自に進化させたような、独特の濃い舞台化粧を顔に施していただけで、ほぼ無心であったのに。
「違う違う。あの、ネックレスの話だよ。パレードのやつ。赤い衣装だから、去年のを少しアレンジして使ってたんだけど、やっぱり衣装と合ってないんじゃないかってずっと思ってて、新しく作ろうかと」
「なんだ、ネックレスか」
慌てて言いつくろうと、紫貴ゆうやは安心したのか、くるりと鏡に向き直り、もう片方のアイラインを書き始めた。
「びっくりしました。えっちゃんさんが辞めちゃうんじゃないかと思って」
晴日つばめもドーラン塗りを再会した。鏡に心底ほっとしたような表情が映っている。
「それにしても、公演が始まって結構たつのに、ネックレスを変えようってお思いになるなんて」
「今更だよね」
「そんなことありません! 衣装とアクセサリーの相性を常に考えて、もし納得いかなければその時にすぐに変更して、一番ベストな姿で舞台に立とうとする。娘役として素晴らしい心がけだと思います。流石です」
小刻みに首を振って否定し、鏡越しに顔を見て褒める姿は必死にすら見える。上下関係の厳しさからくるものだ。夢園さゆりは苦笑して、紫のアイシャドウをブラシにとって、瞼に乗せた。
ネックレスを変えるつもりなどなかったが、こうなった手前、近いうちに新しいものをつけないといけない。
材料はどうしようか。今回のパレードの衣装に合いそうなネックレスは今使っているものしかないので、全て新しく買わなくてはいけない。
(ミサワヤに、出来あいでちょうどいいの売ってればいいけどな)
溜息が出そうになったが、とめた。
いつもの手順で、すいすいとメイクを進めながら、夢園さゆりの脳内で、自身の口から出た“辞める”という言葉が膨らんでいた。
無意識でこぼれ出るほど、退団を望んでいたのだろうか。そうではない。だが、やる気に満ち溢れて、舞台に立ち続けたいと望んでいるかといえば、それも違う。結局は、辞めたいという気持ちが確かにあるのだ。しかもそれは自覚よりも大きくなっていた。
去年百周年を迎えた宝川歌劇団は、大正時代に群馬県宝川温泉街に客を呼び込むため、温泉の上に板を渡して舞台とし、少女たちに演劇をさせたのが始まりだ。それが評判を呼び、その後西洋式のレビューを取り入れて、どんどん規模を大きくし、少女歌劇という一大ジャンルを築いた。今では本拠地である群馬に加え、東京にも常設劇場を持ち、通年公演を行っている。
団員は全員未婚女性であり、男装して男性を演じる男役と、女性を演じる娘役に別れている。団員は梅組、菊組、松組、桐組、藤組と名付けられた公演チームに振り分けられ、各組に男役のトップスターがおり、彼女を頂点としたスター制が敷かれている。
劇団に入るには十五歳から十八歳までの間に、宝川歌舞養成学校、略して歌舞校に入学し、二年間舞台人となるべく歌、ダンス、芝居を学ぶ。
華やかなレビューの世界に憧れて、才能あふれる若い女の子が歌舞校受験に殺到する。東大と匹敵する狭き門と言われ、毎年受験シーズンになると、受験生を追ったドキュメンタリー番組が放送されたり、合格発表の場面がニュースで伝えられたりする。
夢園さゆり、本名大川悦子も、高校一年生の冬に狭き門を突破した。母親が宝川歌劇団のファンだったので、幼いころから自分の世界の中に宝川歌劇団があった。だから思春期に漠然と将来のことを考えた時、歌劇の世界も選択肢として存在していた。
特別な才能があるとか、容姿端麗だとか、うぬぼれてはいないが、四歳から続けているバレエは、ちょっとした大会で入賞するくらいの腕前だったし、踊るのが好きだった。踊りを仕事にできたなら。彼女が考える踊りの仕事の中には、当然宝川歌劇も入っている。
幼いころから観劇していて見慣れてしまったからか、熱狂的に夢中になることはなかったけれど、豪華な衣装と輝くセット、美しいスターたちが歌い踊る夢の舞台は、彼女にとっても好ましくないものではなかった。
(一度くらいは、挑戦してみてもいいんじゃないか)
そうして、近くの音楽教室で声楽を習い、受験に挑んだのだった。
晴れて入学を果たした彼女は、歌舞校での二年間を経て、夢園さゆりという芸名を名乗り、宝川歌劇団の一員となった。初心忘るべからずで、劇団では歌舞校を卒業した団員をも生徒と位置づけ、研究科生の生徒と呼んでいる。ちなみに先輩を上級生、後輩を下級生と呼ぶ習わしだ。入団一年目の団員は、研究科一年、略して研1と呼ばれる。研1の初舞台から時が流れて、彼女はもう研7となっていた。
宝川歌劇団の常設劇場で、各組全員が出演する公演を本公演という。
本公演の期間中に一公演だけ、新人公演、略して新公というものがある。これは研7までの生徒だけで本公演と同じ演目を演じるものだ。宝川歌劇団の演目の多くは、一部が芝居で二部がレビューショーとなっている。新人公演は芝居のみ行われる。
若手の団員たちが、本来担えない主役やヒロイン、重要な役を演じるのだから、若手を育成する意義と同時に、スターの登竜門という側面もある。実際、新人公演主演経験者は、劇団からもファンからもトップスター候補とみなされ、本公演でも目立つ役を与えられていく。
通常の本公演で夢園さゆりに与えられた役はアンサンブル。ある時は町の民衆、ある時は貴族、といった具合に忙しく衣装を変えて舞台に登場しては、動く背景に徹する。セリフも役も、ソロ歌唱もソロダンスもない。トップスターを頂点としたピラミッドの上から順番に役が割り振られるので、研7の娘役としては、特別不遇というわけではない。
では新公ではどうだろう。今回の公演、芝居は『薔薇の紡ぐ愛』。とある王国の王子が薔薇の咲く森の中で偶然ヒロインと出会い恋に落ちる。身分の違いが二人を阻むが、最後はヒロインが実は貴族の令嬢であったとわかり、結ばれる。ロマンチックなラブロマンスだ。
そして夢園さゆりの役は、ヒロインの乳母だ。
母のようにヒロインを見守り、最後にはヒロインの出自を明かす重要な役だ。セリフも多い。だがそれで大喜びできるほど、夢園さゆりはおめでたくはない。
大部屋の化粧前で、そう呟いた。鏡には、ドーランで頬や目の下に陰影をつけ、粉を叩いただけの、彫の深いのっぺらぼうのような顔が映っている。
「え、えっちゃん辞めるの?」
隣で化粧をしていた同期の
「辞めちゃうんですか?」
斜め後ろからも同じ言葉が飛んできた。手伝いをしてくれている下級生の
そこで初めて、えっちゃんこと
退団を決意したわけでも、考えているわけでもなかった。今日もいつものように、バレエのメイクを独自に進化させたような、独特の濃い舞台化粧を顔に施していただけで、ほぼ無心であったのに。
「違う違う。あの、ネックレスの話だよ。パレードのやつ。赤い衣装だから、去年のを少しアレンジして使ってたんだけど、やっぱり衣装と合ってないんじゃないかってずっと思ってて、新しく作ろうかと」
「なんだ、ネックレスか」
慌てて言いつくろうと、紫貴ゆうやは安心したのか、くるりと鏡に向き直り、もう片方のアイラインを書き始めた。
「びっくりしました。えっちゃんさんが辞めちゃうんじゃないかと思って」
晴日つばめもドーラン塗りを再会した。鏡に心底ほっとしたような表情が映っている。
「それにしても、公演が始まって結構たつのに、ネックレスを変えようってお思いになるなんて」
「今更だよね」
「そんなことありません! 衣装とアクセサリーの相性を常に考えて、もし納得いかなければその時にすぐに変更して、一番ベストな姿で舞台に立とうとする。娘役として素晴らしい心がけだと思います。流石です」
小刻みに首を振って否定し、鏡越しに顔を見て褒める姿は必死にすら見える。上下関係の厳しさからくるものだ。夢園さゆりは苦笑して、紫のアイシャドウをブラシにとって、瞼に乗せた。
ネックレスを変えるつもりなどなかったが、こうなった手前、近いうちに新しいものをつけないといけない。
材料はどうしようか。今回のパレードの衣装に合いそうなネックレスは今使っているものしかないので、全て新しく買わなくてはいけない。
(ミサワヤに、出来あいでちょうどいいの売ってればいいけどな)
溜息が出そうになったが、とめた。
いつもの手順で、すいすいとメイクを進めながら、夢園さゆりの脳内で、自身の口から出た“辞める”という言葉が膨らんでいた。
無意識でこぼれ出るほど、退団を望んでいたのだろうか。そうではない。だが、やる気に満ち溢れて、舞台に立ち続けたいと望んでいるかといえば、それも違う。結局は、辞めたいという気持ちが確かにあるのだ。しかもそれは自覚よりも大きくなっていた。
去年百周年を迎えた宝川歌劇団は、大正時代に群馬県宝川温泉街に客を呼び込むため、温泉の上に板を渡して舞台とし、少女たちに演劇をさせたのが始まりだ。それが評判を呼び、その後西洋式のレビューを取り入れて、どんどん規模を大きくし、少女歌劇という一大ジャンルを築いた。今では本拠地である群馬に加え、東京にも常設劇場を持ち、通年公演を行っている。
団員は全員未婚女性であり、男装して男性を演じる男役と、女性を演じる娘役に別れている。団員は梅組、菊組、松組、桐組、藤組と名付けられた公演チームに振り分けられ、各組に男役のトップスターがおり、彼女を頂点としたスター制が敷かれている。
劇団に入るには十五歳から十八歳までの間に、宝川歌舞養成学校、略して歌舞校に入学し、二年間舞台人となるべく歌、ダンス、芝居を学ぶ。
華やかなレビューの世界に憧れて、才能あふれる若い女の子が歌舞校受験に殺到する。東大と匹敵する狭き門と言われ、毎年受験シーズンになると、受験生を追ったドキュメンタリー番組が放送されたり、合格発表の場面がニュースで伝えられたりする。
夢園さゆり、本名大川悦子も、高校一年生の冬に狭き門を突破した。母親が宝川歌劇団のファンだったので、幼いころから自分の世界の中に宝川歌劇団があった。だから思春期に漠然と将来のことを考えた時、歌劇の世界も選択肢として存在していた。
特別な才能があるとか、容姿端麗だとか、うぬぼれてはいないが、四歳から続けているバレエは、ちょっとした大会で入賞するくらいの腕前だったし、踊るのが好きだった。踊りを仕事にできたなら。彼女が考える踊りの仕事の中には、当然宝川歌劇も入っている。
幼いころから観劇していて見慣れてしまったからか、熱狂的に夢中になることはなかったけれど、豪華な衣装と輝くセット、美しいスターたちが歌い踊る夢の舞台は、彼女にとっても好ましくないものではなかった。
(一度くらいは、挑戦してみてもいいんじゃないか)
そうして、近くの音楽教室で声楽を習い、受験に挑んだのだった。
晴れて入学を果たした彼女は、歌舞校での二年間を経て、夢園さゆりという芸名を名乗り、宝川歌劇団の一員となった。初心忘るべからずで、劇団では歌舞校を卒業した団員をも生徒と位置づけ、研究科生の生徒と呼んでいる。ちなみに先輩を上級生、後輩を下級生と呼ぶ習わしだ。入団一年目の団員は、研究科一年、略して研1と呼ばれる。研1の初舞台から時が流れて、彼女はもう研7となっていた。
宝川歌劇団の常設劇場で、各組全員が出演する公演を本公演という。
本公演の期間中に一公演だけ、新人公演、略して新公というものがある。これは研7までの生徒だけで本公演と同じ演目を演じるものだ。宝川歌劇団の演目の多くは、一部が芝居で二部がレビューショーとなっている。新人公演は芝居のみ行われる。
若手の団員たちが、本来担えない主役やヒロイン、重要な役を演じるのだから、若手を育成する意義と同時に、スターの登竜門という側面もある。実際、新人公演主演経験者は、劇団からもファンからもトップスター候補とみなされ、本公演でも目立つ役を与えられていく。
通常の本公演で夢園さゆりに与えられた役はアンサンブル。ある時は町の民衆、ある時は貴族、といった具合に忙しく衣装を変えて舞台に登場しては、動く背景に徹する。セリフも役も、ソロ歌唱もソロダンスもない。トップスターを頂点としたピラミッドの上から順番に役が割り振られるので、研7の娘役としては、特別不遇というわけではない。
では新公ではどうだろう。今回の公演、芝居は『薔薇の紡ぐ愛』。とある王国の王子が薔薇の咲く森の中で偶然ヒロインと出会い恋に落ちる。身分の違いが二人を阻むが、最後はヒロインが実は貴族の令嬢であったとわかり、結ばれる。ロマンチックなラブロマンスだ。
そして夢園さゆりの役は、ヒロインの乳母だ。
母のようにヒロインを見守り、最後にはヒロインの出自を明かす重要な役だ。セリフも多い。だがそれで大喜びできるほど、夢園さゆりはおめでたくはない。