第九章 エストカピタールにて 第十話
文字数 2,938文字
ポーッラク卿は夜会の賑わいを見回して満足そうに微笑んだ。
「いやはや、皇后陛下と対立してどうなることかと思ったが、やってみれば大成功じゃ。明日も明後日もチケットは完売じゃろう。今日の評判を聞いて、残りの日程のチケットもはけるんじゃないかの」
「終演直後にもう一度見たいという客が殺到していましたよ。だから定価より高い料金で売りさばくよう言いつけておきました」
ポーラック卿にシモンが得意げに答えていると、遠くから聞きなれた声でシモンとリゼットを呼ぶ声がした。目を向けてみると、レーブジャルダン子爵夫妻がこちらへやってきた。
二人とも、リゼットが手配した新しい揃いの衣服を着ていて、貧乏田舎貴族の面影はまったくなかった。都の社交界が移動してきたような夜会に興奮し、またいくらか緊張もしていたようで、息子と娘を見つけると、手を振らんばかりの笑顔で、早足でやってきた。
「リゼット、シモン、元気でやっているようだな。リゼットは妃選びで候補に残っていると聞いている。さすが我が娘だな」
「本当よ。こんなに素晴らしい演目を上演して、おまけに素敵なお友達もたくさん作って。王女様ともお知り合いだなんて、鼻が高いわ。よく頑張ったわね」
両親の熱烈な抱擁を受けて、リゼットは照れながら一堂に両親を紹介した。すると、ポーラック卿がはっと何かに気が付いたように、子爵夫妻の前に立った。
「お二人はクルベットノンからいらっしゃったということじゃな。もしやと思うが、二十数年前に、スリに遭って難儀していた夫婦に、当座の金を貸し、都へ戻る馬車を手配してくれたことはないかの?」
いきなり現れた上品な老人の言葉を、目を瞬いて聞いていた子爵夫妻は、顔を見合わせて記憶をたどった。
「そういえば、そんなこともあったな。ほら、まだ婚約中に、琥珀色の雨が降るという湖のほとりへ出かけた時に」
「ええ、ええ、思い出しました。夕暮れ時に雨が降ってきて、二人で眺めて歩いていたら、雨の中で途方に暮れているご夫婦がいて」
「そうじゃ。わしは妻とともにあの地方へ旅行していたんじゃ。あの時はまだ現役じゃったから、急遽都へ戻らねばならなくなったのじゃが、スリに財布を取られてのう。馬車の手配もできず困っていたころを、若い二人が金を工面してくれたんじゃ。しかもその土地に不慣れなわしらを助けて、馬車まで手配してくれてのう。あの時は本当に助かった。特に妻は、あの時お金を貸してくれなければ、婚約指輪を売って金を工面せざるを得なかったのだと、深く感謝していたんじゃ。亡くなる前も、心残りはあの二人の名前を聞いておらず、お礼ができていないことじゃと言っておった」
「ではリゼットのご両親が、おじい様とおばあ様を助けてくださっていたということなの? 何という巡り合わせかしら」
ブランシュはもちろん子爵夫妻も驚いた。ポーッラク卿は二人の手を握って篤く礼を述べた。
「あの時貸してもらった金をきっちりお返ししたい。それというのも妻は生前、いつかお二人にお返ししようと金を貯めていたのじゃ。それをそっくりお二人に渡そう」
「そんな、たった2000トレズ程度、律儀にお返しいただかなくても」
「正しくは2673トレズじゃ。それで現在は4856325トレズになっておるのじゃが」
「4856325トレズ! 何がどうしてそんな大金になるんだ」
「それは、妻が感謝を込めて高利貸しもびっくりな利子をつけて計算しとったから。あとは時々、感謝と長年返せない事へのお詫びとか言って、いくらか追加していたからのぉ」
シモンは立ち眩みするほど驚いていた。お金に関してはシモンに任せっきりにしていたリゼットも、4856325トレズが大金だということはわかる。
「そんなにたくさん、いただけませんよ」
あまりの大金に子爵夫妻は青くなった。だがポーラック卿は渡さなければ死んでも死にきれないと言い張った。そして屋敷へ連絡して、子爵夫妻がこちらに逗留している間に、急いで金を持て来るようブランシュに言いつけた。そこまでされると受け取らないこともできず、子爵夫妻は申し出を受け入れた。
「なんてこった。借金をチャラにしても少し余るくらいだ」
毛嫌いしていた両親のお人好しが、思わぬ幸運を手繰り寄せた。その事実におののくシモンに、運命の女神はさらに微笑んだ。
「わしは大蔵大臣と知り合いなんじゃが、彼から、部下の一人が退職することになったので、誰か優秀な者を探してほしいと頼まれておるんじゃ。チケットを売りさばいているのを見るに、シモン君は財政に携わるのによさそうじゃ。推薦しようと思うのじゃが、どうじゃろう、受けてくれるかの? なに、金は妻らかの礼として、これはわしの感謝の気持ちと思ってくれ」
都での出世を望んでいたシモンには願ってもない話だった。息子が国に仕えるのは子爵夫妻にとっても喜ばしいことで、シモンが答える前に承諾した。
シモンがリゼットを妃選びに参加させたのは、皇太子妃の兄として権勢をふるう、もとい何か役職を得て出世することだった。そしてリゼットがその計画に乗った理由の一つは、実家の財政難を救うためだった。その二つが一夜にして解決してしまったのだから、ものすごい幸運だ。
一方で、これでリゼットが皇太子妃の座を手にいれる必要はなくなった。だが、リゼットは妃選びを辞退する気など毛頭なかった。少なくともあの愛の手紙を読んだルシアンの返事を聞くまでは。
「リゼット嬢」
名を呼ばれて顔を上げると、そこには待ちわびた人がいた。白に金の装飾がついた儀礼用の軍服を着たルシアンは、病み上がりとは思われない晴れやかな笑顔でやってくる。
「殿下、よくお越しくださいました。お加減はもうよろしいのですか」
リゼットは優雅にお辞儀をした。
「ああ、もうすかっりよくなった」
ブランシュたちはそっとリゼットの側から離れた。夜会の賑わいが、二人の静かな世界を包み込んだ。
「君の手紙のおかげで、やっとわたしは自らの気持ちを理解し、受け入れることができた。わたしの探し求めていた本当の恋人はすぐ側にいた。この恋路は困難が多いだろう。だが、誰に何と言われようとも、愛しぬき、添い遂げると誓う。リゼット嬢、どうかわたしの思いを受け入れてほしい」
熱烈な愛の告白に、リゼットは天にも昇る心地だった。美しい皇太子が、自分を恋人と呼んだのだ。都へ来て最初の妃選びに参加した時には、想像すらできなかった輝かしい瞬間が訪れたのだ。
「夢のよう! 殿下のお気持ちは、わたくし、しかと受け取りましたわ」
ルシアンは花が咲いたようなほほえみを浮かべて、リゼットの手を引き、丁度始まった音楽に合わせてフロアへ誘った。二人はごく自然に向かい合って、流れるように踊り始めた。
二人はこの上ない幸福に包まれ輝いていた。だがルシアンの感じている幸福は、己の道ならぬ恋を励まし支えてくれる頼もしい人間を得たことによるもので、リゼットの想いとは全く異なっていた。
しかし当人たちはおろか、彼らを取り巻く人々も、誰一人としてこの行き違いに気が付いていなかった。これが不穏で滑稽な円舞曲とは知らず、リゼットは恋の成就に浮かされて飛ぶように踊り続けた。
「いやはや、皇后陛下と対立してどうなることかと思ったが、やってみれば大成功じゃ。明日も明後日もチケットは完売じゃろう。今日の評判を聞いて、残りの日程のチケットもはけるんじゃないかの」
「終演直後にもう一度見たいという客が殺到していましたよ。だから定価より高い料金で売りさばくよう言いつけておきました」
ポーラック卿にシモンが得意げに答えていると、遠くから聞きなれた声でシモンとリゼットを呼ぶ声がした。目を向けてみると、レーブジャルダン子爵夫妻がこちらへやってきた。
二人とも、リゼットが手配した新しい揃いの衣服を着ていて、貧乏田舎貴族の面影はまったくなかった。都の社交界が移動してきたような夜会に興奮し、またいくらか緊張もしていたようで、息子と娘を見つけると、手を振らんばかりの笑顔で、早足でやってきた。
「リゼット、シモン、元気でやっているようだな。リゼットは妃選びで候補に残っていると聞いている。さすが我が娘だな」
「本当よ。こんなに素晴らしい演目を上演して、おまけに素敵なお友達もたくさん作って。王女様ともお知り合いだなんて、鼻が高いわ。よく頑張ったわね」
両親の熱烈な抱擁を受けて、リゼットは照れながら一堂に両親を紹介した。すると、ポーラック卿がはっと何かに気が付いたように、子爵夫妻の前に立った。
「お二人はクルベットノンからいらっしゃったということじゃな。もしやと思うが、二十数年前に、スリに遭って難儀していた夫婦に、当座の金を貸し、都へ戻る馬車を手配してくれたことはないかの?」
いきなり現れた上品な老人の言葉を、目を瞬いて聞いていた子爵夫妻は、顔を見合わせて記憶をたどった。
「そういえば、そんなこともあったな。ほら、まだ婚約中に、琥珀色の雨が降るという湖のほとりへ出かけた時に」
「ええ、ええ、思い出しました。夕暮れ時に雨が降ってきて、二人で眺めて歩いていたら、雨の中で途方に暮れているご夫婦がいて」
「そうじゃ。わしは妻とともにあの地方へ旅行していたんじゃ。あの時はまだ現役じゃったから、急遽都へ戻らねばならなくなったのじゃが、スリに財布を取られてのう。馬車の手配もできず困っていたころを、若い二人が金を工面してくれたんじゃ。しかもその土地に不慣れなわしらを助けて、馬車まで手配してくれてのう。あの時は本当に助かった。特に妻は、あの時お金を貸してくれなければ、婚約指輪を売って金を工面せざるを得なかったのだと、深く感謝していたんじゃ。亡くなる前も、心残りはあの二人の名前を聞いておらず、お礼ができていないことじゃと言っておった」
「ではリゼットのご両親が、おじい様とおばあ様を助けてくださっていたということなの? 何という巡り合わせかしら」
ブランシュはもちろん子爵夫妻も驚いた。ポーッラク卿は二人の手を握って篤く礼を述べた。
「あの時貸してもらった金をきっちりお返ししたい。それというのも妻は生前、いつかお二人にお返ししようと金を貯めていたのじゃ。それをそっくりお二人に渡そう」
「そんな、たった2000トレズ程度、律儀にお返しいただかなくても」
「正しくは2673トレズじゃ。それで現在は4856325トレズになっておるのじゃが」
「4856325トレズ! 何がどうしてそんな大金になるんだ」
「それは、妻が感謝を込めて高利貸しもびっくりな利子をつけて計算しとったから。あとは時々、感謝と長年返せない事へのお詫びとか言って、いくらか追加していたからのぉ」
シモンは立ち眩みするほど驚いていた。お金に関してはシモンに任せっきりにしていたリゼットも、4856325トレズが大金だということはわかる。
「そんなにたくさん、いただけませんよ」
あまりの大金に子爵夫妻は青くなった。だがポーラック卿は渡さなければ死んでも死にきれないと言い張った。そして屋敷へ連絡して、子爵夫妻がこちらに逗留している間に、急いで金を持て来るようブランシュに言いつけた。そこまでされると受け取らないこともできず、子爵夫妻は申し出を受け入れた。
「なんてこった。借金をチャラにしても少し余るくらいだ」
毛嫌いしていた両親のお人好しが、思わぬ幸運を手繰り寄せた。その事実におののくシモンに、運命の女神はさらに微笑んだ。
「わしは大蔵大臣と知り合いなんじゃが、彼から、部下の一人が退職することになったので、誰か優秀な者を探してほしいと頼まれておるんじゃ。チケットを売りさばいているのを見るに、シモン君は財政に携わるのによさそうじゃ。推薦しようと思うのじゃが、どうじゃろう、受けてくれるかの? なに、金は妻らかの礼として、これはわしの感謝の気持ちと思ってくれ」
都での出世を望んでいたシモンには願ってもない話だった。息子が国に仕えるのは子爵夫妻にとっても喜ばしいことで、シモンが答える前に承諾した。
シモンがリゼットを妃選びに参加させたのは、皇太子妃の兄として権勢をふるう、もとい何か役職を得て出世することだった。そしてリゼットがその計画に乗った理由の一つは、実家の財政難を救うためだった。その二つが一夜にして解決してしまったのだから、ものすごい幸運だ。
一方で、これでリゼットが皇太子妃の座を手にいれる必要はなくなった。だが、リゼットは妃選びを辞退する気など毛頭なかった。少なくともあの愛の手紙を読んだルシアンの返事を聞くまでは。
「リゼット嬢」
名を呼ばれて顔を上げると、そこには待ちわびた人がいた。白に金の装飾がついた儀礼用の軍服を着たルシアンは、病み上がりとは思われない晴れやかな笑顔でやってくる。
「殿下、よくお越しくださいました。お加減はもうよろしいのですか」
リゼットは優雅にお辞儀をした。
「ああ、もうすかっりよくなった」
ブランシュたちはそっとリゼットの側から離れた。夜会の賑わいが、二人の静かな世界を包み込んだ。
「君の手紙のおかげで、やっとわたしは自らの気持ちを理解し、受け入れることができた。わたしの探し求めていた本当の恋人はすぐ側にいた。この恋路は困難が多いだろう。だが、誰に何と言われようとも、愛しぬき、添い遂げると誓う。リゼット嬢、どうかわたしの思いを受け入れてほしい」
熱烈な愛の告白に、リゼットは天にも昇る心地だった。美しい皇太子が、自分を恋人と呼んだのだ。都へ来て最初の妃選びに参加した時には、想像すらできなかった輝かしい瞬間が訪れたのだ。
「夢のよう! 殿下のお気持ちは、わたくし、しかと受け取りましたわ」
ルシアンは花が咲いたようなほほえみを浮かべて、リゼットの手を引き、丁度始まった音楽に合わせてフロアへ誘った。二人はごく自然に向かい合って、流れるように踊り始めた。
二人はこの上ない幸福に包まれ輝いていた。だがルシアンの感じている幸福は、己の道ならぬ恋を励まし支えてくれる頼もしい人間を得たことによるもので、リゼットの想いとは全く異なっていた。
しかし当人たちはおろか、彼らを取り巻く人々も、誰一人としてこの行き違いに気が付いていなかった。これが不穏で滑稽な円舞曲とは知らず、リゼットは恋の成就に浮かされて飛ぶように踊り続けた。