第二章 レーブジャルダン家 第三話
文字数 2,961文字
元のようにベッドに横たわると、女性も男性も慈愛に満ちた顔を向けてきた。どうやら眠るまでずっと見ているつもりらしい。仕方がないので狸寝入りをすると、しばらくして衣擦れの音を残し、人の気配が消えた。
(わたしを娘だって言っていたわ。あとから来たあの男の人は妹って。それにリゼットって呼んでいた。おかしい。何もかもがおかしい)
ぱちりと目を開けて体を起こす。とにかく起きないと、このわけのわからない状況はどうにもならない。
「まったく。余計な心配をさせて」
ベッドから降りようとしたところだったので、地面につけようとしていた足を持ち上げてしまった。扉の方に先ほどの青年と侍女が立っていた。
「で、出て行ったんじゃなかったの?」
「お前が馬鹿なことを言って父上と母上を惑わすから、お二人にひとまずご退席願ったまでだ。まったく、真夜中に逃げ出そうとして広間の階段から落ちて頭を打つとは、とんだ間抜けだ」
「ちょっと待って、確かにわたしは階段から落ちたけど、それは大階段であって、広間の階段っていうのは違うんですけど。それから、ここはどこ? 公演はどうなったの? わたしは休演するのかしら。何日くらい? あ、劇団に連絡しないと、ケータイどこやったっけ」
「なんだ、本当に頭がおかしくなったのか」
青年はつかつかと近付いてきて、中途半端に座った夢園さゆりの顔を無遠慮に覗き込んだ。
「頭を打って記憶が失われたのかも。ですが、そうであればいっそ都合がいいのでは?」
メイドが彼の後ろに立ってそう意見する。青年その意見を吟味した後に、一人頷き、夢園さゆりの手を取り、立ち上がらせた。
「いいだろう。それなら一から全て教えてやるから、よく覚えるんだぞ」
青年に導かれてドレッサーの前の猫足の椅子に座らされる。侍女が扉を開いて鏡を出すと、そこに映っているのは、明るい茶色の髪に、丸いヘーゼルの瞳、陶器のような白い肌にバラ色の頬、細い鼻梁にツンとした鼻、花びらのような口と、まるで本来の自分とは似ても似つかない、愛らしい白人の少女だった。ふわりとした生成り色のレースのネグリジェを身に着けている。
(これがわたし? めっちゃ可愛い!)
「お前はリゼット・ド・レーブジャルダン子爵令嬢。先ほどの二人はお前の両親、ジョルジュ・ド・レーブジャルダン子爵とシュザンヌ・ド・レーブジャルダン子爵夫人だ。わたしはお前の兄、シモン・ド・レーブジャルダン。そこにいるのはお前付きの侍女、ノエルだ」
青年が両手で肩をつかみ、鏡の中の少女を覗き込みながら言い聞かせてきた。
「ここはトレゾールという国のクルベットノン、レーブジャルダン家の領地だ。首都からは馬車で17日の田舎だが……。まぁそれはいい。トレゾールは帝政を敷いている。グリシーヌ皇家の治世はここ百六十年ほどだが、建国からは500年経っている。今年の冬が丁度その節目だ。それに向けて、首都ではまぁ色々と催し物があるらしい。そのうちの一つが皇太子ルシアンの……」
「ちょ、ちょっと待って、情報量が多すぎる。一回整理させて。つまりわたしはリゼットという名前の貴族の令嬢で、あなたはお兄さんで、さっきの二人は両親ってことね。わたしって何歳かしら。この肌の感じ、随分若いみたいなんだけど」
「18歳だ」
人生で一番みずみずしくて美しい時だ。
俄かには信じられないが、どうやら階段から落ちたのが原因で、どこか別の世界に来てしまったようだ。しかも姿かたちはこの可愛らしい白人少女にかわっている。これはつまり、いわゆる異世界転生というやつなのかもしれない。サブカル方面にあまり詳しくないのではっきりしたことはよくわからないが、交通事故に遭ってゲームや小説の中ような世界に転生するというのが定番の展開らしい。今回は、それこそ宝川歌劇団の芝居のような世界に来てしまったと解釈するのが妥当だろう。
「で、そのシモンさん、えっとお兄さんって言ったほうがいいの?」
「お兄様ですよ。お嬢様、そんな下々のような言葉づかいはいけません」
侍女がすかさず口を挟んだ。確かに、貴族のご令嬢であれば、お兄様、が妥当だ。
「そうだ。記憶を失って、貴族の礼儀作法や所作まで忘れてしまったようだな。言葉もまったくなっていない。これではわたしも父上も母上も恥をかく。明日から、もう一度行儀見習いをする必要があるようだ。
安心しろ。このノエルが手取り足取り教えてくれる。ノエルのは都仕込みだからな。そこいらの家庭教師なんぞより、よっぽどためになるぞ」
「はぁ……」
「わかったら今日一日は休んでおけ。父上も母上も安心しないだろうからな」
強引に立ち上がらされると、そのままベッドに戻らされた。意識ははっきりとしてしまったので、横たわっても眠気は来なかったが、元の世界でもこちらの世界でも頭を強打したのは事実であって、暫く安静にしたほうが良いだろう。
シモンはさっさと部屋から出て行ってしまった。侍女は残って、母親が座っていた椅子を片付けたりしていた。
「ねぇ、ノエル、さん。行儀見習いっていうのは、一体どういう内容なの?」
「ノエルと、呼び捨てにしてください。お嬢様が侍女に丁寧に接するなんておかしいですから。具体的なことは、明日一からお話ししますわ。それより先に、お屋敷の中をご案内します。どこにどなたのお部屋があるかも、お忘れのようですからね」
「そう。ありがとう。それじゃあ、明日からよろしくね」
ノエルも部屋から出て行ってしまった。一人きりになって、夢園さゆり改めリゼットは白い天井を見つめて考えに耽った。
(この世界に転生したってことは、元の世界のわたしは死んじゃったの? けっこうショックなんですけど……)
ショックというか、情けなかった。パレードの最中に階段から落ちてそのまま死ぬなんて前代未聞。なんとも間の抜けた死にざまだ。舞台の上で死んだのは、役者冥利に尽きると言えなくもないが。
後悔先に立たずというが、こんなことなら行ってみたかった場所、やってみたかったこと、食べてみたかったもの、沢山あった。両親を始め、沢山の人々の顔を思い浮かべては、最後に一目会っておけばよかったと悔いた。
だが、舞台についての後悔は少なかった。既に集合日退団を決意していたくらいだから、宝川歌劇藤組娘役夢園 さゆりに何の希望もなかったのだ。
(まぁ、これで良かったのかもしれない。普通死んだら終りなのに、こうして転生できたんだから、生まれ変わったつもりで、新しい人生を生きてゆくのがいいわ。
それに、子爵令嬢ってことは、お嬢様でしょう。稽古にレッスンに、その他もろもろに追われて忙しくする必要もない、ファンの目を気にする必要もない、それって最高じゃない。
しかもまだ18歳だって。その頃は歌舞校にいたから、初舞台に向けてひたすらレッスン、レッスン、またレッスンで、普通の同世代の女の子みたいに遊ぶ暇も休む暇もなかったな。それはそれはで青春ではあったけど、ちょっと勿体なかったとも思うんだよね。せっかくおまけの人生が歩めるんだったら、この世界ではゆったり、まったりっていう青春を味わうのもいんじゃない? 貴族なんだから働かないでお屋敷でのんびりしていればいいわけだしね。これからは気楽に楽しく生きよう)
(わたしを娘だって言っていたわ。あとから来たあの男の人は妹って。それにリゼットって呼んでいた。おかしい。何もかもがおかしい)
ぱちりと目を開けて体を起こす。とにかく起きないと、このわけのわからない状況はどうにもならない。
「まったく。余計な心配をさせて」
ベッドから降りようとしたところだったので、地面につけようとしていた足を持ち上げてしまった。扉の方に先ほどの青年と侍女が立っていた。
「で、出て行ったんじゃなかったの?」
「お前が馬鹿なことを言って父上と母上を惑わすから、お二人にひとまずご退席願ったまでだ。まったく、真夜中に逃げ出そうとして広間の階段から落ちて頭を打つとは、とんだ間抜けだ」
「ちょっと待って、確かにわたしは階段から落ちたけど、それは大階段であって、広間の階段っていうのは違うんですけど。それから、ここはどこ? 公演はどうなったの? わたしは休演するのかしら。何日くらい? あ、劇団に連絡しないと、ケータイどこやったっけ」
「なんだ、本当に頭がおかしくなったのか」
青年はつかつかと近付いてきて、中途半端に座った夢園さゆりの顔を無遠慮に覗き込んだ。
「頭を打って記憶が失われたのかも。ですが、そうであればいっそ都合がいいのでは?」
メイドが彼の後ろに立ってそう意見する。青年その意見を吟味した後に、一人頷き、夢園さゆりの手を取り、立ち上がらせた。
「いいだろう。それなら一から全て教えてやるから、よく覚えるんだぞ」
青年に導かれてドレッサーの前の猫足の椅子に座らされる。侍女が扉を開いて鏡を出すと、そこに映っているのは、明るい茶色の髪に、丸いヘーゼルの瞳、陶器のような白い肌にバラ色の頬、細い鼻梁にツンとした鼻、花びらのような口と、まるで本来の自分とは似ても似つかない、愛らしい白人の少女だった。ふわりとした生成り色のレースのネグリジェを身に着けている。
(これがわたし? めっちゃ可愛い!)
「お前はリゼット・ド・レーブジャルダン子爵令嬢。先ほどの二人はお前の両親、ジョルジュ・ド・レーブジャルダン子爵とシュザンヌ・ド・レーブジャルダン子爵夫人だ。わたしはお前の兄、シモン・ド・レーブジャルダン。そこにいるのはお前付きの侍女、ノエルだ」
青年が両手で肩をつかみ、鏡の中の少女を覗き込みながら言い聞かせてきた。
「ここはトレゾールという国のクルベットノン、レーブジャルダン家の領地だ。首都からは馬車で17日の田舎だが……。まぁそれはいい。トレゾールは帝政を敷いている。グリシーヌ皇家の治世はここ百六十年ほどだが、建国からは500年経っている。今年の冬が丁度その節目だ。それに向けて、首都ではまぁ色々と催し物があるらしい。そのうちの一つが皇太子ルシアンの……」
「ちょ、ちょっと待って、情報量が多すぎる。一回整理させて。つまりわたしはリゼットという名前の貴族の令嬢で、あなたはお兄さんで、さっきの二人は両親ってことね。わたしって何歳かしら。この肌の感じ、随分若いみたいなんだけど」
「18歳だ」
人生で一番みずみずしくて美しい時だ。
俄かには信じられないが、どうやら階段から落ちたのが原因で、どこか別の世界に来てしまったようだ。しかも姿かたちはこの可愛らしい白人少女にかわっている。これはつまり、いわゆる異世界転生というやつなのかもしれない。サブカル方面にあまり詳しくないのではっきりしたことはよくわからないが、交通事故に遭ってゲームや小説の中ような世界に転生するというのが定番の展開らしい。今回は、それこそ宝川歌劇団の芝居のような世界に来てしまったと解釈するのが妥当だろう。
「で、そのシモンさん、えっとお兄さんって言ったほうがいいの?」
「お兄様ですよ。お嬢様、そんな下々のような言葉づかいはいけません」
侍女がすかさず口を挟んだ。確かに、貴族のご令嬢であれば、お兄様、が妥当だ。
「そうだ。記憶を失って、貴族の礼儀作法や所作まで忘れてしまったようだな。言葉もまったくなっていない。これではわたしも父上も母上も恥をかく。明日から、もう一度行儀見習いをする必要があるようだ。
安心しろ。このノエルが手取り足取り教えてくれる。ノエルのは都仕込みだからな。そこいらの家庭教師なんぞより、よっぽどためになるぞ」
「はぁ……」
「わかったら今日一日は休んでおけ。父上も母上も安心しないだろうからな」
強引に立ち上がらされると、そのままベッドに戻らされた。意識ははっきりとしてしまったので、横たわっても眠気は来なかったが、元の世界でもこちらの世界でも頭を強打したのは事実であって、暫く安静にしたほうが良いだろう。
シモンはさっさと部屋から出て行ってしまった。侍女は残って、母親が座っていた椅子を片付けたりしていた。
「ねぇ、ノエル、さん。行儀見習いっていうのは、一体どういう内容なの?」
「ノエルと、呼び捨てにしてください。お嬢様が侍女に丁寧に接するなんておかしいですから。具体的なことは、明日一からお話ししますわ。それより先に、お屋敷の中をご案内します。どこにどなたのお部屋があるかも、お忘れのようですからね」
「そう。ありがとう。それじゃあ、明日からよろしくね」
ノエルも部屋から出て行ってしまった。一人きりになって、夢園さゆり改めリゼットは白い天井を見つめて考えに耽った。
(この世界に転生したってことは、元の世界のわたしは死んじゃったの? けっこうショックなんですけど……)
ショックというか、情けなかった。パレードの最中に階段から落ちてそのまま死ぬなんて前代未聞。なんとも間の抜けた死にざまだ。舞台の上で死んだのは、役者冥利に尽きると言えなくもないが。
後悔先に立たずというが、こんなことなら行ってみたかった場所、やってみたかったこと、食べてみたかったもの、沢山あった。両親を始め、沢山の人々の顔を思い浮かべては、最後に一目会っておけばよかったと悔いた。
だが、舞台についての後悔は少なかった。既に集合日退団を決意していたくらいだから、宝川歌劇藤組娘役
(まぁ、これで良かったのかもしれない。普通死んだら終りなのに、こうして転生できたんだから、生まれ変わったつもりで、新しい人生を生きてゆくのがいいわ。
それに、子爵令嬢ってことは、お嬢様でしょう。稽古にレッスンに、その他もろもろに追われて忙しくする必要もない、ファンの目を気にする必要もない、それって最高じゃない。
しかもまだ18歳だって。その頃は歌舞校にいたから、初舞台に向けてひたすらレッスン、レッスン、またレッスンで、普通の同世代の女の子みたいに遊ぶ暇も休む暇もなかったな。それはそれはで青春ではあったけど、ちょっと勿体なかったとも思うんだよね。せっかくおまけの人生が歩めるんだったら、この世界ではゆったり、まったりっていう青春を味わうのもいんじゃない? 貴族なんだから働かないでお屋敷でのんびりしていればいいわけだしね。これからは気楽に楽しく生きよう)