第一章 労多くして功少なし 第九話
文字数 2,952文字
最後の舞台稽古のあと、見学していた組のプロデューサーが舞台裏にやってきた。生徒たちは衣装や楽屋着でいて、舞台の裏方スタッフたちは黒づくめの動きやすい服装をしているなかで、スーツを着たプロデューサーの姿は多少浮いた感じがする。
主だった生徒に声をかけた後、彼は星華唯を呼び出した。
「いやぁ、星華は群舞の場面でも目立つなぁ。ダイナミックで。やっぱり元男役は違うよ。普通の娘役はさ、なんか綺麗に小さくまとまってる感じで、つまらないんだよね。その調子で頑張って。別箱も期待してるよ」
下級生からしてみたら、プロデューサーは劇団の偉い人に違いない。星華唯は恐縮して頭を下げるしかない。ただ彼がが去った後、とても居心地の悪そうな顔をしていた。たまたま周りにいた娘役たちの視線が突き刺さってくるからだ。
娘役はカスミソウであれ。歌舞校時代からそう言い続けてきたくせに、舞台の上ではそれじゃあつまらないとは。ならもう最初から全員男役として育てて、適宜女性役をやらせればいいではないか。
「そうね、元男役は特別だよね」
独り言のように
やはり一言励ましの言葉をかけるべきだっただろうか。研7の上級生なのだから。だが、何と言えばよかったのだろうか。あの場合、どんな言葉も、慰めにも気休めにもなりはしなかった。
(そうかな? お疲れさま、でもなんでもよかったんじゃないの? なのに知らん顔したのは、元男役は特別ですねって、わたしも思っていたからじゃない?)
星華唯は男役時代も将来を嘱望されているようではあったが、まだその他大勢の一人だった。ところが娘役に転向した途端に路線に躍り出て、次の別箱ではヒロインを取った。
宝川歌劇団では男役が売り物だ。男役が中心だ。男役トップスターが主演であり、その人を中心に世界は回る。そんなことは百も承知だ。だが同じ娘役の土俵に立っているのに、前に男役であったことが評価されるのは、どう考えても納得できない。娘役として求められる技術がなくても、元男役なら問題なしなのだろうか。
いや。そんなことを考えてはいけない。星華唯だって頑張っている。一生懸命男役の癖を抜こうとしている。少しずつ良くなってきている。それに男役時代も路線スター候補とだったのだ。娘役とか男役とか関係なく、才能とスター性があるから抜擢を受けた、ただそれだけの事だ。
化粧前に散乱した化粧品や整髪剤を片付けながら、意地の悪い考えに支配されてはいけないと、必死に暗い深淵に落ちてゆきそうな意識を引っ張り上げていた。
三島さんが東京滞在時に使っているウィークリーマンションまで車で送ってくれた。荷物と一緒に後部座席に座ると、程なくして、携帯電話が震えた。母親からメッセージが届いた。夢園さゆりの母は娘が入団しても変わらずに宝川歌劇団のファンを続けていた。今日は群馬の劇場へ出かけていると聞いた。
——梅組観てきた。えりちゃん頑張ってたよ。とっても良かった。
えりちゃんとは、同期の梅組トップ娘役、
彼女はおっとりしていて、おっちょこちょいなところがあった。夢園さゆりが寝坊した彼女を起こしたり、失敗した三つ編みをやり直してあげたりしていた。厳しい授業と規律に挫けそうになったら、互いに励まし合った。梅組と藤組に分かれてしまっても、何とか予定を合わせて一緒に出掛け、互いの家を行き来する親友であった。ただ、椿えり香がトップ娘役になって多忙になると、会う頻度はぐっと減った。
彼女がトップ娘役に選ばれた時、藤組の同期全員で楽屋で飛び上がって喜んだ。夢園さゆりは誰よりも早く祝福のメッセージを送った。
当初次期トップと目されていた娘役を、トップスターが自分より小顔だから並びたくないと拒否した結果、彼女が選ばれたという、嫌な噂があった。そのせいか、就任当初から今に至るまで、へたくそ、不細工、なんでこの子が、と叩かれることも多かった。
(えりちゃんは努力家。今だってトップに相応しい娘役になろうと頑張ってる)
誰が何と言おうと椿えり香が選ばれたのだから、彼女がトップ娘役だ。誰よりも椿えり香の味方で、ファンであろうとしていた。
母親からこうして観劇の感想が届けば、すぐさま椿えり香にメッセージを送っていた。この場面が良かったって、あの歌が良かったって、と。すると決まって椿えり香から、感謝のメッセージが届く。それから少し世間話をして、可能であれば会う約束を取り付ける。いつもはそうしていた。だが、今日の夢園さゆりはメッセージを贈るどころか、その後連続で送られてくる母親からの感想を読む気も起きなかった。
椿えり香と自分と何が違うのだろう。方やトップ娘役、方やその他大勢。一体の違いがあったのだろう。
虚しい。ウィークリーマンションにたどり着くと、電気もつけずにのそのそと部屋まで進み、着替えもメイク落としもせずに、そのままベッドに倒れこんだ。
トップ娘役になりたいわけではない。そんな大それたうぬぼれや野心はない。ただ、もう少し、ほんの少しで良いから見返りがほしかった。具体的には何かと言われるとわからなかったが、とにかく何か、自分に返ってくるものがほしかった。
芝居、歌、ダンス、スカートさばき、化粧、かつら、アクセサリー、プライベートのファッション、ネイル、ヘアアレンジ、お慕い芸、カスミソウの娘役として生きるためには、膨大な労力がいる。それなのにあまりにも報われなさすぎる。何が評価されるのかわからない中で、膨大な努力——しかもその中の大半は舞台に必須とは言えないもの——をする。これが宝川の娘役なのだと言い聞かせてやってきた。ほんの少しの見返りを望むことさえも、生意気で分不相応なのだろうか。
春海さんに会いたくなったのも、きっと彼女の純粋な好意に満ちた顔を見たら、少しは虚しさがまぎれると思ったから。だが、今や愛すべきファンと会うことも億劫だった。
この虚しさと徒労感が、退団という意思を育てたのだ。