第二章 レーブジャルダン家 第十話
文字数 2,945文字
元農民だからか、前世で歌とダンスのあるハードな舞台をこなしていた夢園 さゆり顔負けの体力で、気が付いたら町にたどり着いていた。
町の中にはまだ灯りが付いている家もちらほらあり、酒場が集まるような所は、酒飲みたちの声で賑やかだった。光に集まる蛾のように、リゼットはそちらへ近づいていった。
途中で路地から出てきた男にぶつかった。
「危ねぇな、どこ見て歩いてんだ!」
尻もちをついたまま、手で体を払う相手の顔を見ると、それは昼間馬車を止めた物乞いだった。しかし、その顔にあったはずの赤い発疹はきれいさっぱり消えていた。
「良かった、病院へ行って薬をもらったのね」
ほっとするリゼットを、物乞いの男はきょとんとした目で見つめ、それから大笑いしだした。
「薬だって? お嬢ちゃん、何も知らないんだな。あれはラナンキュラスの葉をすり潰してかぶれさせてただけなんだぜ。そうやってると哀れぽく見えるだろう。物乞いの常識よ」
「え? じゃあ病気って嘘だったの?」
リゼットの疑問は無視して、物乞いの男はぶしつけにリゼットの腕を取った。
「それにしてもお嬢ちゃん。こんな夜中にお供も連れずに、家出かい?」
「ま、まぁ、そういうことになるかしらね」
「それならちょうどいい。俺っちがいい働き口を紹介してやる。住み込みで、三食食事つき。お嬢ちゃんみたいなかわいこちゃんにはぴったりの仕事さね」
「……そ、それは、有り難いのかしら……」
このままホイホイついていっていいものか。戸惑っているうちに、物乞いは酒場の集まる場所をどんどん進んで行き、一本路地に入った小汚い店にリゼットを連れ込んだ。
外から見ればただの酒場のようだったが、中に入ってリゼットは言葉を失った。薄暗い店内には下卑た笑い声に満ちて、顔を赤くして散乱する椅子や酒樽、木箱に座った男たちに、けばけばしい化粧をした肌も露わな女たちがしなだれかかっている。一目でいかがわしい店だとわかる。
「おい! 上玉を連れてきてやったぞ。貴族のお嬢さんだ、高くつくだろう」
物乞いはリゼットの腕をがっちりつかんで店の店主らしき柄の悪い男を呼び寄せた。その声を聞いた客の視線がリゼットに集中する。値踏みするような視線が気持ち悪い。鳥肌を立てていると、男たちは店主に向かって手を挙げて、いくらだ、いくらだと金額を叫んだ。それが自分を一晩買う金額なのだとわかるまで、少し時間がかかった。
「嫌! 放して!」
我に返って、なんとか物乞いの腕を振りほどくと、扉にぶつかるように外に飛び出した。後ろからは怒号が聞こえ、誰かが追いかけてくる気配があった。ここで捕まったら娼婦にされてしまう。リゼットは暗がりが広がる大通りの方へとひたすらに走った。
この町に頼れる場所など無い。走ってもどこへ向かえばいいのかわからない。急に心細くなった。昼間のシモンの言葉が蘇る。拾ってもらっていなければ、場末の酒場で男に股を開いて日銭を稼いでいた、と。
「リゼット! リゼット!」
夢中で走っていたので、気が付かなかったが、道の先から自分の名前を呼ぶ声がした。見覚えのある馬車がランタンに灯りをともしてこちらへ走ってくる。扉を開けて、身を乗り出してこちらを見ているのは、紛れもない子爵だった。
「お父様!」
思わずそう叫んで馬車へ走った。一度止まった馬車から子爵が飛び降りて、リゼットを抱きしめてくれる。
「心配したぞ。急にいなくなってしまうから。怖い思いをしただろう。さぁ、馬車に乗って、家に帰ろう」
子爵に促されて馬車に乗ると、頑丈な要塞にしっかり守られているようで安心できた。安心すると、己の無鉄砲さと無力さを漢字て、リゼットは涙を流した。子爵は優しく肩を抱いていてくれた。
「昼間は私たちのせいで、嫌な思いをさせてしまったな。だが、お前には手出しさせないから安心しなさい」
子爵は、借金取りを見て怖くなったから逃げ出したと思っているようだった。
「……昼間、お父様がお金をあげた物乞いに会ったわ。あの人、病気だというのは嘘だったのですって。植物の汁を使って、そう見せかけていただけだって」
まるで他人の悪事を言いつける子供のように言った。子爵は穏やかに頷いた。
「そうか。そういうこともあるかもしれないね。だが、その人はそんな嘘をつくしかないくらいには、貧乏だったんだ。だからやはり我らがお金をあげるべきだったのだよ」
「……そう、かもしれません」
リゼットは涙を拭いて暗がりの中の父の顔を見つめた。
「お父様は、どうしてこんなに良くしてくださるの? だってわたしは、本当の娘ではないのに」
「なんてことを言うんだ。お前は私たちの娘だよ。屋敷へやってきた経緯はどうあれ、家族として迎えたのだから、本当の娘だと思っている。お前も本当の家族だと思ってほしい」
「……ありがとうございます。お父様」
また涙が出てきて、マントの裾で涙をぬぐった。
家に着くと、広間でずっと待っていた子爵夫人が飛びつくように抱きしめてきた。その腕のぬくもりにまた目が潤んだ。夫人は優しく部屋まで付き添ってくれた。
子爵夫人が去ってしまうと、ずっと腕を組んで後ろからついてきていたシモンが、溜息をついて説教を始めた。
「逃げ出すとは、とんだ考えなしだな。若い娘が一人で外に出て、生きてゆくことなどできはしないのに。貴族になったからといって、気が大きくなっていたのか」
「……ええ、そうね。ちょっと浮ついていたわ。何でもできると、思い上がっていたみたい」
「身の程を思い知ったなら、昼間の話の続きだ。わたしに協力して、皇太子妃候補になれ。そして社交界の花となって、皇太子ルシアンを射止めろ」
「わかったわ」
思いがけず素直な返事が出てきたので、てっきり拒絶されると思っていたシモンはノエルと顔を見合わせた。
「お兄様の計画に乗るって言ったの。皇太子妃候補として名乗りを上げて、何とか皇太子殿下のお目に留まるように頑張るわ。保証はできないけどね。
でもそれはお兄様のためではないわ。お父様とお母様のためよ。お二人は確かにお人好しよ。どうしようもないお人好し。でも、あの二人の優しさは、裏が無くてまっすぐなんだもの。わたしのことも、本当の娘のように思ってくれている。だから、少しでも力になりたいの。でも若い娘が一人でできることなんて限られてる。それこそ、皇太子妃選びに参加するくらいしかないわ。
ただし、お兄様の計画ですけれど、実際に皇太子妃選びに参加するのはわたし。だから少しはわたしのことも尊重してほしいわ。ただの道具になるつもりはないの」
シモンはノエルと目配せしあってリゼットの言葉を聞いていたが、やがてことが思い通りに運んだと思ったのか、笑みを浮かべてリゼットの肩を抱いた。
「よしわかった。できる限りお前のことも尊重してやる。そうと決まれば明日から講義を再開するぞ。皇太子妃選びが始まるまで時間がない。覚えることも山ほどあるから、覚悟しろ」
「わかったわ」
リゼットは言うなり部屋を出てゆこうとした。ノエルが止めると、振り返ってこう言った。
「時間がないのでしょう? だったらもう今からやるわ。必要な本を用意してくださる」
ノエルとシモンはまた呆けて顔を見合わせた。
町の中にはまだ灯りが付いている家もちらほらあり、酒場が集まるような所は、酒飲みたちの声で賑やかだった。光に集まる蛾のように、リゼットはそちらへ近づいていった。
途中で路地から出てきた男にぶつかった。
「危ねぇな、どこ見て歩いてんだ!」
尻もちをついたまま、手で体を払う相手の顔を見ると、それは昼間馬車を止めた物乞いだった。しかし、その顔にあったはずの赤い発疹はきれいさっぱり消えていた。
「良かった、病院へ行って薬をもらったのね」
ほっとするリゼットを、物乞いの男はきょとんとした目で見つめ、それから大笑いしだした。
「薬だって? お嬢ちゃん、何も知らないんだな。あれはラナンキュラスの葉をすり潰してかぶれさせてただけなんだぜ。そうやってると哀れぽく見えるだろう。物乞いの常識よ」
「え? じゃあ病気って嘘だったの?」
リゼットの疑問は無視して、物乞いの男はぶしつけにリゼットの腕を取った。
「それにしてもお嬢ちゃん。こんな夜中にお供も連れずに、家出かい?」
「ま、まぁ、そういうことになるかしらね」
「それならちょうどいい。俺っちがいい働き口を紹介してやる。住み込みで、三食食事つき。お嬢ちゃんみたいなかわいこちゃんにはぴったりの仕事さね」
「……そ、それは、有り難いのかしら……」
このままホイホイついていっていいものか。戸惑っているうちに、物乞いは酒場の集まる場所をどんどん進んで行き、一本路地に入った小汚い店にリゼットを連れ込んだ。
外から見ればただの酒場のようだったが、中に入ってリゼットは言葉を失った。薄暗い店内には下卑た笑い声に満ちて、顔を赤くして散乱する椅子や酒樽、木箱に座った男たちに、けばけばしい化粧をした肌も露わな女たちがしなだれかかっている。一目でいかがわしい店だとわかる。
「おい! 上玉を連れてきてやったぞ。貴族のお嬢さんだ、高くつくだろう」
物乞いはリゼットの腕をがっちりつかんで店の店主らしき柄の悪い男を呼び寄せた。その声を聞いた客の視線がリゼットに集中する。値踏みするような視線が気持ち悪い。鳥肌を立てていると、男たちは店主に向かって手を挙げて、いくらだ、いくらだと金額を叫んだ。それが自分を一晩買う金額なのだとわかるまで、少し時間がかかった。
「嫌! 放して!」
我に返って、なんとか物乞いの腕を振りほどくと、扉にぶつかるように外に飛び出した。後ろからは怒号が聞こえ、誰かが追いかけてくる気配があった。ここで捕まったら娼婦にされてしまう。リゼットは暗がりが広がる大通りの方へとひたすらに走った。
この町に頼れる場所など無い。走ってもどこへ向かえばいいのかわからない。急に心細くなった。昼間のシモンの言葉が蘇る。拾ってもらっていなければ、場末の酒場で男に股を開いて日銭を稼いでいた、と。
「リゼット! リゼット!」
夢中で走っていたので、気が付かなかったが、道の先から自分の名前を呼ぶ声がした。見覚えのある馬車がランタンに灯りをともしてこちらへ走ってくる。扉を開けて、身を乗り出してこちらを見ているのは、紛れもない子爵だった。
「お父様!」
思わずそう叫んで馬車へ走った。一度止まった馬車から子爵が飛び降りて、リゼットを抱きしめてくれる。
「心配したぞ。急にいなくなってしまうから。怖い思いをしただろう。さぁ、馬車に乗って、家に帰ろう」
子爵に促されて馬車に乗ると、頑丈な要塞にしっかり守られているようで安心できた。安心すると、己の無鉄砲さと無力さを漢字て、リゼットは涙を流した。子爵は優しく肩を抱いていてくれた。
「昼間は私たちのせいで、嫌な思いをさせてしまったな。だが、お前には手出しさせないから安心しなさい」
子爵は、借金取りを見て怖くなったから逃げ出したと思っているようだった。
「……昼間、お父様がお金をあげた物乞いに会ったわ。あの人、病気だというのは嘘だったのですって。植物の汁を使って、そう見せかけていただけだって」
まるで他人の悪事を言いつける子供のように言った。子爵は穏やかに頷いた。
「そうか。そういうこともあるかもしれないね。だが、その人はそんな嘘をつくしかないくらいには、貧乏だったんだ。だからやはり我らがお金をあげるべきだったのだよ」
「……そう、かもしれません」
リゼットは涙を拭いて暗がりの中の父の顔を見つめた。
「お父様は、どうしてこんなに良くしてくださるの? だってわたしは、本当の娘ではないのに」
「なんてことを言うんだ。お前は私たちの娘だよ。屋敷へやってきた経緯はどうあれ、家族として迎えたのだから、本当の娘だと思っている。お前も本当の家族だと思ってほしい」
「……ありがとうございます。お父様」
また涙が出てきて、マントの裾で涙をぬぐった。
家に着くと、広間でずっと待っていた子爵夫人が飛びつくように抱きしめてきた。その腕のぬくもりにまた目が潤んだ。夫人は優しく部屋まで付き添ってくれた。
子爵夫人が去ってしまうと、ずっと腕を組んで後ろからついてきていたシモンが、溜息をついて説教を始めた。
「逃げ出すとは、とんだ考えなしだな。若い娘が一人で外に出て、生きてゆくことなどできはしないのに。貴族になったからといって、気が大きくなっていたのか」
「……ええ、そうね。ちょっと浮ついていたわ。何でもできると、思い上がっていたみたい」
「身の程を思い知ったなら、昼間の話の続きだ。わたしに協力して、皇太子妃候補になれ。そして社交界の花となって、皇太子ルシアンを射止めろ」
「わかったわ」
思いがけず素直な返事が出てきたので、てっきり拒絶されると思っていたシモンはノエルと顔を見合わせた。
「お兄様の計画に乗るって言ったの。皇太子妃候補として名乗りを上げて、何とか皇太子殿下のお目に留まるように頑張るわ。保証はできないけどね。
でもそれはお兄様のためではないわ。お父様とお母様のためよ。お二人は確かにお人好しよ。どうしようもないお人好し。でも、あの二人の優しさは、裏が無くてまっすぐなんだもの。わたしのことも、本当の娘のように思ってくれている。だから、少しでも力になりたいの。でも若い娘が一人でできることなんて限られてる。それこそ、皇太子妃選びに参加するくらいしかないわ。
ただし、お兄様の計画ですけれど、実際に皇太子妃選びに参加するのはわたし。だから少しはわたしのことも尊重してほしいわ。ただの道具になるつもりはないの」
シモンはノエルと目配せしあってリゼットの言葉を聞いていたが、やがてことが思い通りに運んだと思ったのか、笑みを浮かべてリゼットの肩を抱いた。
「よしわかった。できる限りお前のことも尊重してやる。そうと決まれば明日から講義を再開するぞ。皇太子妃選びが始まるまで時間がない。覚えることも山ほどあるから、覚悟しろ」
「わかったわ」
リゼットは言うなり部屋を出てゆこうとした。ノエルが止めると、振り返ってこう言った。
「時間がないのでしょう? だったらもう今からやるわ。必要な本を用意してくださる」
ノエルとシモンはまた呆けて顔を見合わせた。