第五章 仮面舞踏会 第十話
文字数 2,972文字
鏡の間では勘違いした令嬢たちと、皇太子に成りすましたセブランとユーグの攻防が続いていた。
ユーグは半ば強引にキトリィに連れられて、会場の隅の、飲み物と軽食が用意してあるテーブルまで連れてこられていた。
「わたしが風邪をひいたときに、お姉さまが飲ませてくれた飲み物があるの」
キトリィはワイングラスの一つに菓子に乗っているドライフルーツと粉砂糖を入れて、肉料理をつまんで、上に乗っているハーブを落とした。
「はい! ワインで作ったちょっとしたものよ。お酒はちょっとだけだから大丈夫、とってもおいしいのよ。わたしはこれを飲んでいすぐ元気になったんだから」
恐らく彼女が昔飲んだのは、こんな雑につくられたものではないだろう。無理やり押し付けられたユーグは一口飲んで思わず吐き出しそうになった。ものすごく甘いうえに、ハーブやワインの苦みが妙に際立っていて、とても飲めたものではない。
キトリィはまったく気にせずに、またユーグの方手を掴み、もう片方をメリザンドに掴ませた。
「手のひらにツボがあるのよ。そこを押せば熱が引くの」
と言って人差し指と中指の付け根の当たりを力任せにぐいぐい押した。痛いというユーグに構わずに、メリザンドにも同じところを押すように指示した。さらに前屈の姿勢にさせてリアーヌに押さえつけさせ、腰のあたりをスプーンの柄でぐりぐり刺激したり、立ったまま上半身を横に倒させ、そのまま片足を持ちあげて引っ張ったりした。いずれも体調不良に効くツボ押しや体操だという。
ユーグが痛みに悶絶していると、誰かが飛んできてキトリィをユーグから引きはがした。彼女がアンリエットであるのは言わずもがなだった。
開放されたユーグは逃げ出したが、身長を誤魔化すためにはいた厚底の靴に慣れず、ふらついて、偶々そこにいたパメラにぶつかって倒れた。パメラはユーグを心配したが、ユーグはとにかくキトリィの暴行から逃れようと、パメラの手を取って立ち上がると、無理やりダンスの輪の中に入った。
パメラと一緒にいたブランシュとサビーナは一連の全てを見ていた。
「まぁ、あれはなんなの?」
サビーナが困惑していると、ブランシュは目を輝かせて答えた。
「サビーナ、あれこそ恋ですわ!」
「はぁ?」
「どなたかわからないけれど、きっとパメラに思いを寄せていたのだわ。それであんなに熱烈に抱き着いて、連れて行ってしまったのよ」
「その割には、ふらふらしていたようだけど。ただぶつかっただけではないの?
それに、皇太子殿下を探してお側へ行かなくては。サルタンの仮面の方はどこに行ったのかしら」
「どうかな。そのサルタンの仮面の男、本当に皇太子殿下だろうか」
二人の後ろから現れたのはシモンだった。
「仮面舞踏会では正体を明かさないのが鉄則。サルタンの仮面だと噂が流れているのに、のこのこそのままの仮面をつけてくるほど皇太子も馬鹿じゃないはず。それにさっきパメラを連れて行った男の仮面は、藤の花をアメシストであしらってあった。藤は国花でアメシストは国石だ」
「では、先ほどの男性が皇太子殿下だというの?」
「いや。そうだとしたら、捻りがなさすぎる。ずっと気になっているのは、あのユーグとかいう皇太子の従者だ。いくら皇太子から許されたとはいえ、従者が仮面舞踏会に参加するとは考えにくい。周りを見てみろ、使用人たちは仮面をつけて普段通り職分を果たしているではないか。従者が新しい仮面を誂えたというのが不自然だ。もしかしてだが、皇太子はユーグが注文した仮面をつけているのではないか?」
「あの緑色の仮面ということ? でもあの仮面の方を見かけないわ」
「探し出すんだ。それからリゼットもだ。あいつ、ちょっと目を離したすきに、どこかへ行ってしまったからな」
一方、サルタンの仮面の男に群がっていたローズも違和感を感じていた。どうも目の前の男はルシアンではないような気がする。
すると男の右手の光る指輪が目に入った。ラピスラズリをはめ込んだあの指輪は、見覚えがあった。セブランが愛用しているものだ。
「まさか、セブラン様なの?」
思わず大声を出してしまい、周りの令嬢たちの仮面をつけた顔が一斉にローズに集まり、その後サルタンの仮面の男へと集まる。
セブランはこれ幸いとリアーヌの姿を探しに走り去った。その動きを見て、令嬢たちはローズの言う通りなのだと悟って、すぐに本当の皇太子を探しに会場中に散った。
「どうして止めるのよ! 私の勘ではあの仮面の藤の花の仮面の方が皇太子殿下よ。仲良くなるために、わたしの国の体操とかツボ押しを教えてあげただけなのに」
キトリィはアンリエットと彼女に加勢したリヴェール大使に阻まれて、頬を膨らませて不満を漏らした。その、藤の花の仮面の殿方が皇太子、というところだけが、多くの令嬢たちの耳に届き、彼女らはパメラと人込みに紛れていた藤の花の仮面の男に殺到した。
ユーグはあっという間にもみくちゃにされた。最初から彼を追ってたリアーヌも、その渦に巻き込まれていた。そこへサルタンの仮面のセブランがリアーヌの手を引いて、人の渦から救出した。
「リアーヌ、予定が変わったんだ」
「皇太子殿下は緑の仮面ですって?」
その声はまた他の令嬢たちに聞こえていた。
「令嬢たちが急に緑の仮面の方を探し始めたようね」
「みんなようやく気が付いたというところか。まぁいい、あの仮面を見たことがあるのは私たちだけだ。急いで探すんだ」
シモンもブランシュとサビーナをけしかけて、本物の皇太子を探そうとした。
鏡の間は人が右往左往する大混乱となった。もう皇太子妃選びの審査どころではないし、審査に当たる貴族たちも、令嬢たちに当てられて、皇太子はどこにいるのかと探し出した。
妙な熱気が最高潮に達し、鏡がくもり出した時に、柱時計が深夜12時を告げた。
「今宵の仮面舞踏会は、これまでとなりました。皆さん、仮面を取って、お隣にいるのがいったい誰なのかお確かめください」
カラスの仮面の男性が、また杖で床を叩いて告げた。その男性が仮面を取るのを合図に、動きを止めた人々は、次々と仮面を取った。
サルタンの仮面をかぶっていたのはセブランであったこと、そして藤の花の仮面はユーグであったことが知れた。
「まぁ、ではルシアンは、皇太子はどこにいるのです?」
皇后は驚きと困惑で思わず声を上げた。確かに、見回してもルシアンの姿がない。
すると、ぱたりと鏡の張られた扉が開いた。まだ仮面をつけたままの男女が寄り添って入ってくる。二人は周りが既に縋を晒しているのを見て、焦って仮面を外した。緑の仮面をつけていたのはルシアンで、その隣にいたのはリゼットだった。
令嬢たちは、皇太子が鏡の間におらず、一人の令嬢と一緒にいて、しかもそれがまったく有力候補ではないリゼットだったことに、驚きと嫉妬を覚えた。皇太子妃候補以外の人間も、驚きや戸惑いを感じているようだ。一番驚いているのは他でもないないリゼットだった。
(うそ! 皇太子殿下だったの? ユーグさんじゃなくて? どういうこと?)
腰を抜かさなかったことを褒めてほしいくらいだった。目を丸くして隣に立つルシアンの端正な顔を見つめるしかない。そんなリゼットにルシアンは少し申し訳なさの混じった微笑みをくれた。
ユーグは半ば強引にキトリィに連れられて、会場の隅の、飲み物と軽食が用意してあるテーブルまで連れてこられていた。
「わたしが風邪をひいたときに、お姉さまが飲ませてくれた飲み物があるの」
キトリィはワイングラスの一つに菓子に乗っているドライフルーツと粉砂糖を入れて、肉料理をつまんで、上に乗っているハーブを落とした。
「はい! ワインで作ったちょっとしたものよ。お酒はちょっとだけだから大丈夫、とってもおいしいのよ。わたしはこれを飲んでいすぐ元気になったんだから」
恐らく彼女が昔飲んだのは、こんな雑につくられたものではないだろう。無理やり押し付けられたユーグは一口飲んで思わず吐き出しそうになった。ものすごく甘いうえに、ハーブやワインの苦みが妙に際立っていて、とても飲めたものではない。
キトリィはまったく気にせずに、またユーグの方手を掴み、もう片方をメリザンドに掴ませた。
「手のひらにツボがあるのよ。そこを押せば熱が引くの」
と言って人差し指と中指の付け根の当たりを力任せにぐいぐい押した。痛いというユーグに構わずに、メリザンドにも同じところを押すように指示した。さらに前屈の姿勢にさせてリアーヌに押さえつけさせ、腰のあたりをスプーンの柄でぐりぐり刺激したり、立ったまま上半身を横に倒させ、そのまま片足を持ちあげて引っ張ったりした。いずれも体調不良に効くツボ押しや体操だという。
ユーグが痛みに悶絶していると、誰かが飛んできてキトリィをユーグから引きはがした。彼女がアンリエットであるのは言わずもがなだった。
開放されたユーグは逃げ出したが、身長を誤魔化すためにはいた厚底の靴に慣れず、ふらついて、偶々そこにいたパメラにぶつかって倒れた。パメラはユーグを心配したが、ユーグはとにかくキトリィの暴行から逃れようと、パメラの手を取って立ち上がると、無理やりダンスの輪の中に入った。
パメラと一緒にいたブランシュとサビーナは一連の全てを見ていた。
「まぁ、あれはなんなの?」
サビーナが困惑していると、ブランシュは目を輝かせて答えた。
「サビーナ、あれこそ恋ですわ!」
「はぁ?」
「どなたかわからないけれど、きっとパメラに思いを寄せていたのだわ。それであんなに熱烈に抱き着いて、連れて行ってしまったのよ」
「その割には、ふらふらしていたようだけど。ただぶつかっただけではないの?
それに、皇太子殿下を探してお側へ行かなくては。サルタンの仮面の方はどこに行ったのかしら」
「どうかな。そのサルタンの仮面の男、本当に皇太子殿下だろうか」
二人の後ろから現れたのはシモンだった。
「仮面舞踏会では正体を明かさないのが鉄則。サルタンの仮面だと噂が流れているのに、のこのこそのままの仮面をつけてくるほど皇太子も馬鹿じゃないはず。それにさっきパメラを連れて行った男の仮面は、藤の花をアメシストであしらってあった。藤は国花でアメシストは国石だ」
「では、先ほどの男性が皇太子殿下だというの?」
「いや。そうだとしたら、捻りがなさすぎる。ずっと気になっているのは、あのユーグとかいう皇太子の従者だ。いくら皇太子から許されたとはいえ、従者が仮面舞踏会に参加するとは考えにくい。周りを見てみろ、使用人たちは仮面をつけて普段通り職分を果たしているではないか。従者が新しい仮面を誂えたというのが不自然だ。もしかしてだが、皇太子はユーグが注文した仮面をつけているのではないか?」
「あの緑色の仮面ということ? でもあの仮面の方を見かけないわ」
「探し出すんだ。それからリゼットもだ。あいつ、ちょっと目を離したすきに、どこかへ行ってしまったからな」
一方、サルタンの仮面の男に群がっていたローズも違和感を感じていた。どうも目の前の男はルシアンではないような気がする。
すると男の右手の光る指輪が目に入った。ラピスラズリをはめ込んだあの指輪は、見覚えがあった。セブランが愛用しているものだ。
「まさか、セブラン様なの?」
思わず大声を出してしまい、周りの令嬢たちの仮面をつけた顔が一斉にローズに集まり、その後サルタンの仮面の男へと集まる。
セブランはこれ幸いとリアーヌの姿を探しに走り去った。その動きを見て、令嬢たちはローズの言う通りなのだと悟って、すぐに本当の皇太子を探しに会場中に散った。
「どうして止めるのよ! 私の勘ではあの仮面の藤の花の仮面の方が皇太子殿下よ。仲良くなるために、わたしの国の体操とかツボ押しを教えてあげただけなのに」
キトリィはアンリエットと彼女に加勢したリヴェール大使に阻まれて、頬を膨らませて不満を漏らした。その、藤の花の仮面の殿方が皇太子、というところだけが、多くの令嬢たちの耳に届き、彼女らはパメラと人込みに紛れていた藤の花の仮面の男に殺到した。
ユーグはあっという間にもみくちゃにされた。最初から彼を追ってたリアーヌも、その渦に巻き込まれていた。そこへサルタンの仮面のセブランがリアーヌの手を引いて、人の渦から救出した。
「リアーヌ、予定が変わったんだ」
「皇太子殿下は緑の仮面ですって?」
その声はまた他の令嬢たちに聞こえていた。
「令嬢たちが急に緑の仮面の方を探し始めたようね」
「みんなようやく気が付いたというところか。まぁいい、あの仮面を見たことがあるのは私たちだけだ。急いで探すんだ」
シモンもブランシュとサビーナをけしかけて、本物の皇太子を探そうとした。
鏡の間は人が右往左往する大混乱となった。もう皇太子妃選びの審査どころではないし、審査に当たる貴族たちも、令嬢たちに当てられて、皇太子はどこにいるのかと探し出した。
妙な熱気が最高潮に達し、鏡がくもり出した時に、柱時計が深夜12時を告げた。
「今宵の仮面舞踏会は、これまでとなりました。皆さん、仮面を取って、お隣にいるのがいったい誰なのかお確かめください」
カラスの仮面の男性が、また杖で床を叩いて告げた。その男性が仮面を取るのを合図に、動きを止めた人々は、次々と仮面を取った。
サルタンの仮面をかぶっていたのはセブランであったこと、そして藤の花の仮面はユーグであったことが知れた。
「まぁ、ではルシアンは、皇太子はどこにいるのです?」
皇后は驚きと困惑で思わず声を上げた。確かに、見回してもルシアンの姿がない。
すると、ぱたりと鏡の張られた扉が開いた。まだ仮面をつけたままの男女が寄り添って入ってくる。二人は周りが既に縋を晒しているのを見て、焦って仮面を外した。緑の仮面をつけていたのはルシアンで、その隣にいたのはリゼットだった。
令嬢たちは、皇太子が鏡の間におらず、一人の令嬢と一緒にいて、しかもそれがまったく有力候補ではないリゼットだったことに、驚きと嫉妬を覚えた。皇太子妃候補以外の人間も、驚きや戸惑いを感じているようだ。一番驚いているのは他でもないないリゼットだった。
(うそ! 皇太子殿下だったの? ユーグさんじゃなくて? どういうこと?)
腰を抜かさなかったことを褒めてほしいくらいだった。目を丸くして隣に立つルシアンの端正な顔を見つめるしかない。そんなリゼットにルシアンは少し申し訳なさの混じった微笑みをくれた。