第七章 芸術祭 第四話
文字数 2,973文字
川の対岸には貴族の館や寺院があり、その奥に宮殿が見える。青い空とそれを映す川、二つの青を川辺の緑と建物の白、灰色、茶色、赤茶色が区切るような構図だ。
そして一番気に入ったのはは空と川の青。青い絵具は貴重で、伯爵令嬢のリアーヌであっても普段は節約している。だが、今回は画材店で最高級の青の絵の具を濃淡三色もそろえた。青を美しく表現することで、芸術家たちを唸らせようというのだ。
川の流れを描くために目線を落とすと、川べりにリゼットとパメラがいた。
(あの二人、何をしているのかしら)
リゼットはあの日、何件も問屋を回って、やっと加工に耐えうるコルクの塊を手に入れた。そしてその日は夜遅くまで工房でカミーユと一緒につま先にはまる形になるよう削り出していた。パメラも成り行きでその作業を見守っていた。
削り出しはカミーユに任せて、リゼットはレッスンに励むことにしたが、物置だと狭すぎる上に下の階の工房に迷惑なので、外に出てきた。ちなみに流石に下着姿ではなく、ノエルが急遽作ってくれた、稽古用の動きやすいドレスを着ている。
川に沿うように、シェネ、シャッセ、グランジュッテ、アラベスク。バーを離れたフロアでの練習をしてから、今度は川を正面に見立ててジゼルのバリエーションを細かく区切って何回か繰り返し、最後に通して踊ってみた。
「素晴らしいわ。この前劇場で見たバレエよりも動きが大きくて軽やかで。これもリゼット様がご自身で工夫されたのですね」
パメラは拍手喝采してくれた。まだ一つ一つの動きの完成度は高くないのに、しかもリゼット自身が思いついた動きではないのに。
「それほどでも、まだまだ練習が必要よ。あ、それよりもパメラ、あなたがどうするか、全然考えられてないわ」
浮かれた気持ちを振り払うべく、パメラの出し物を考える。
「なにか得意なことはないかしら。小さいころから習っていたこと以外でもいいわ」
と水を向けてみても、彼女は俯いて言いよどむばかりだ。
「あ、ねぇ、前から歌が好きって言っていたわよね。歌うのはどう?」
「う、歌う? わたくし歌ったことはありませんわ」
「だけど、歌だったら身一つでできるし、何とか形にできるんじゃないかしら。好きこそ物の上手なれっていうしね。試しに何か歌ってみて」
最初は恥ずかしがっていたパメラだが、リゼットが根気よく勧めると、お耳汚しですけれど、と断ってから、素朴なメロディーの童謡を口ずさんだ。リゼットはそれを聞いて固まった。
透き通った綺麗なソプラノ。自信なさげでも澄み切った響きが川辺に木霊する。
(めっちゃ歌うま! リアル天使の歌声! ちゃんと発声練習とかしたら、もっと上手くなるわ)
歌が終わってもリゼットが固まったままだったので、てっきりへたくそだったのだと思い込んで、パメラは後ろ向きな言葉を並べたが、突然リゼットがその手を握って、興奮した様子で褒めちぎったので、驚いて思わず身を引いた。
「素晴らしかったわ! お世辞じゃないわよ。あなたみたいな才能は100年に一度、現れるか現れないかだわ。ねぇ、芸術祭までの間に、本格的に歌のレッスンをしましょう。私が教えてあげるわ。きっとあなたを可憐で素敵なブーケに変えてみせる」
「ま、まぁ、詩的な表現ですわね……」
パメラはまだ戸惑っていたが、リゼットは感激した勢いのまま、彼女の手を引いてサビーナの屋敷を訪ねた。
「ちょっとピアノを貸していただけないかしら」
突然の申し出にサビーナも驚いていたが、快くピアノのある部屋に通してくれた。そこでもう一度先ほどの歌を歌ってもらうと、サビーナも知っている曲で、伴奏ができると言った。
「それじゃあ、本番でも伴奏をしてもらえないかしら」
サビーナは事情を知ると快く伴奏を引き受けた。パメラは遠慮していたが、これは裁判の時リゼットを助けられなかったから、埋め合わせで引き受けるのだと言われて、頼むことにした。
リゼットはパメラに立ち方と発生方法を教えた。もちろん宝川歌劇団仕込みの。少しやっただけでパメラの声はぐっと良くなった。
「肺活量を鍛えた方がいいわね。後は丹田に力を入れるコツも身に着けないと。ねぇ、明日から私と一緒にバレエの練習をしない? 簡単なバーレッスンだけでいいのよ。バレエの立ち方って、けっこういろんなところが鍛えられるから、歌う時の姿勢も良くなるはずだわ」
サビーナはリゼットがバレエを踊ると知って、こう提案してきた。
「そのジゼルとかいう演目、聞いたことがないわ。楽譜がある演目だったら、事前に申請して楽団員に演奏してもらうことができるけど。ないようだったら、わたしが曲をつけて伴奏してもいいわ」
願ってもない申し出だった。リゼットがジゼルのバリエーションの音楽をハミングして聞かせると、サビーナは白紙の五線譜の上にメロディラインを書き写して、それに合わせて適当に伴奏をつけてくれた。コンクールの時はオーケストラの演奏の録音を使っていたので、それを完全に再現はできなかったが、サビーナのつけた伴奏でも十分だった。
翌日からリゼットは河原でパメラと一緒にバレエのレッスンをした。といっても初心者のパメラは、簡単なポーズをキープするだけだったが、そのおかげで段々と声が通るようになってきた。
ブランシュはリゼットのバレエも観たいしパメラの歌も聞きたいと、家に招いた。ブランシュがバイオリンを練習する部屋は無駄に広くて、片側の壁は大きなガラス張りの戸が並んでいた。そこに姿がうっすらと映るのを発見したリゼットはこの部屋で練習させてほしいと頼んだ。ブランシュに否やはなく、ピアノもあることだからと、サビーナとパメラもここで練習することになった。
ポーラック卿は、仲良しの四人が集まって練習しているのを微笑ましく見守っていた。ある時、皇帝が皇太子と爵位の高い貴族の男性たちを招いて狩りをした。その集まりで他の貴族たちに孫たちの様子を話して聞かせた。
サビーナの父、エテスポワール伯爵は溜息をついて娘の行動を嘆いていた。
「娘は自分の披露する曲よりも、リゼット嬢とパメラ嬢の伴奏の練習をしています。まったく、これでは自身の腕前を披露できずに終わってしまいますよ。
人のことより自分のことをしろと叱ったら、“裁判で大変な時に支えられなかった埋め合わせだ。伴奏は自分で望んでやっているのだから、口を出さないでくれ。”などと、生意気なことを言うのです。どうしてこうなってしまったのか。わたしは娘のために言っているのに」
「まぁまぁ。助け合いは美しいではありませんか。わしはブランシュがあんなに楽しそうにしているのが嬉しくての。そりゃあ、これまでもしょっちゅう楽しく過ごしていたようだが、最近は少し活発になったというか、積極的になったというか。リゼット嬢から刺激を受けているのだろうな。あの娘はドレスやアクセサリーのデザインをしたりと、良い意味で才能と行動力があるからの。芸術祭でも特別なバレエを披露するつもりらしいですぞ」
ポーラック卿が他の貴族たちと離れてしまうと、エテスポワール伯爵は苦々し気に付け加えた。
「まったくです。リゼット嬢が娘に影響を与えています。悪い方に」
最近社交界へ復帰したソンルミエール公爵は、彼の愚痴を聞き逃さなかった。
そして一番気に入ったのはは空と川の青。青い絵具は貴重で、伯爵令嬢のリアーヌであっても普段は節約している。だが、今回は画材店で最高級の青の絵の具を濃淡三色もそろえた。青を美しく表現することで、芸術家たちを唸らせようというのだ。
川の流れを描くために目線を落とすと、川べりにリゼットとパメラがいた。
(あの二人、何をしているのかしら)
リゼットはあの日、何件も問屋を回って、やっと加工に耐えうるコルクの塊を手に入れた。そしてその日は夜遅くまで工房でカミーユと一緒につま先にはまる形になるよう削り出していた。パメラも成り行きでその作業を見守っていた。
削り出しはカミーユに任せて、リゼットはレッスンに励むことにしたが、物置だと狭すぎる上に下の階の工房に迷惑なので、外に出てきた。ちなみに流石に下着姿ではなく、ノエルが急遽作ってくれた、稽古用の動きやすいドレスを着ている。
川に沿うように、シェネ、シャッセ、グランジュッテ、アラベスク。バーを離れたフロアでの練習をしてから、今度は川を正面に見立ててジゼルのバリエーションを細かく区切って何回か繰り返し、最後に通して踊ってみた。
「素晴らしいわ。この前劇場で見たバレエよりも動きが大きくて軽やかで。これもリゼット様がご自身で工夫されたのですね」
パメラは拍手喝采してくれた。まだ一つ一つの動きの完成度は高くないのに、しかもリゼット自身が思いついた動きではないのに。
「それほどでも、まだまだ練習が必要よ。あ、それよりもパメラ、あなたがどうするか、全然考えられてないわ」
浮かれた気持ちを振り払うべく、パメラの出し物を考える。
「なにか得意なことはないかしら。小さいころから習っていたこと以外でもいいわ」
と水を向けてみても、彼女は俯いて言いよどむばかりだ。
「あ、ねぇ、前から歌が好きって言っていたわよね。歌うのはどう?」
「う、歌う? わたくし歌ったことはありませんわ」
「だけど、歌だったら身一つでできるし、何とか形にできるんじゃないかしら。好きこそ物の上手なれっていうしね。試しに何か歌ってみて」
最初は恥ずかしがっていたパメラだが、リゼットが根気よく勧めると、お耳汚しですけれど、と断ってから、素朴なメロディーの童謡を口ずさんだ。リゼットはそれを聞いて固まった。
透き通った綺麗なソプラノ。自信なさげでも澄み切った響きが川辺に木霊する。
(めっちゃ歌うま! リアル天使の歌声! ちゃんと発声練習とかしたら、もっと上手くなるわ)
歌が終わってもリゼットが固まったままだったので、てっきりへたくそだったのだと思い込んで、パメラは後ろ向きな言葉を並べたが、突然リゼットがその手を握って、興奮した様子で褒めちぎったので、驚いて思わず身を引いた。
「素晴らしかったわ! お世辞じゃないわよ。あなたみたいな才能は100年に一度、現れるか現れないかだわ。ねぇ、芸術祭までの間に、本格的に歌のレッスンをしましょう。私が教えてあげるわ。きっとあなたを可憐で素敵なブーケに変えてみせる」
「ま、まぁ、詩的な表現ですわね……」
パメラはまだ戸惑っていたが、リゼットは感激した勢いのまま、彼女の手を引いてサビーナの屋敷を訪ねた。
「ちょっとピアノを貸していただけないかしら」
突然の申し出にサビーナも驚いていたが、快くピアノのある部屋に通してくれた。そこでもう一度先ほどの歌を歌ってもらうと、サビーナも知っている曲で、伴奏ができると言った。
「それじゃあ、本番でも伴奏をしてもらえないかしら」
サビーナは事情を知ると快く伴奏を引き受けた。パメラは遠慮していたが、これは裁判の時リゼットを助けられなかったから、埋め合わせで引き受けるのだと言われて、頼むことにした。
リゼットはパメラに立ち方と発生方法を教えた。もちろん宝川歌劇団仕込みの。少しやっただけでパメラの声はぐっと良くなった。
「肺活量を鍛えた方がいいわね。後は丹田に力を入れるコツも身に着けないと。ねぇ、明日から私と一緒にバレエの練習をしない? 簡単なバーレッスンだけでいいのよ。バレエの立ち方って、けっこういろんなところが鍛えられるから、歌う時の姿勢も良くなるはずだわ」
サビーナはリゼットがバレエを踊ると知って、こう提案してきた。
「そのジゼルとかいう演目、聞いたことがないわ。楽譜がある演目だったら、事前に申請して楽団員に演奏してもらうことができるけど。ないようだったら、わたしが曲をつけて伴奏してもいいわ」
願ってもない申し出だった。リゼットがジゼルのバリエーションの音楽をハミングして聞かせると、サビーナは白紙の五線譜の上にメロディラインを書き写して、それに合わせて適当に伴奏をつけてくれた。コンクールの時はオーケストラの演奏の録音を使っていたので、それを完全に再現はできなかったが、サビーナのつけた伴奏でも十分だった。
翌日からリゼットは河原でパメラと一緒にバレエのレッスンをした。といっても初心者のパメラは、簡単なポーズをキープするだけだったが、そのおかげで段々と声が通るようになってきた。
ブランシュはリゼットのバレエも観たいしパメラの歌も聞きたいと、家に招いた。ブランシュがバイオリンを練習する部屋は無駄に広くて、片側の壁は大きなガラス張りの戸が並んでいた。そこに姿がうっすらと映るのを発見したリゼットはこの部屋で練習させてほしいと頼んだ。ブランシュに否やはなく、ピアノもあることだからと、サビーナとパメラもここで練習することになった。
ポーラック卿は、仲良しの四人が集まって練習しているのを微笑ましく見守っていた。ある時、皇帝が皇太子と爵位の高い貴族の男性たちを招いて狩りをした。その集まりで他の貴族たちに孫たちの様子を話して聞かせた。
サビーナの父、エテスポワール伯爵は溜息をついて娘の行動を嘆いていた。
「娘は自分の披露する曲よりも、リゼット嬢とパメラ嬢の伴奏の練習をしています。まったく、これでは自身の腕前を披露できずに終わってしまいますよ。
人のことより自分のことをしろと叱ったら、“裁判で大変な時に支えられなかった埋め合わせだ。伴奏は自分で望んでやっているのだから、口を出さないでくれ。”などと、生意気なことを言うのです。どうしてこうなってしまったのか。わたしは娘のために言っているのに」
「まぁまぁ。助け合いは美しいではありませんか。わしはブランシュがあんなに楽しそうにしているのが嬉しくての。そりゃあ、これまでもしょっちゅう楽しく過ごしていたようだが、最近は少し活発になったというか、積極的になったというか。リゼット嬢から刺激を受けているのだろうな。あの娘はドレスやアクセサリーのデザインをしたりと、良い意味で才能と行動力があるからの。芸術祭でも特別なバレエを披露するつもりらしいですぞ」
ポーラック卿が他の貴族たちと離れてしまうと、エテスポワール伯爵は苦々し気に付け加えた。
「まったくです。リゼット嬢が娘に影響を与えています。悪い方に」
最近社交界へ復帰したソンルミエール公爵は、彼の愚痴を聞き逃さなかった。