第八章 恋心 第二話
文字数 2,972文字
リゼットは翌日、キトリィの元を訪ねた。
「令嬢らしくないことをすると、皇太子殿下に変に思われるかもしれないと心配していらっしゃるのね」
アンリエットは隣に腰掛けて穏やかな表情で話を聞いてくれた。
「こればかりは、リゼット様が自らのお心で決めることですわ」
「そうですわよね。自分で決めなければならないのに」
リゼットは溜息をついた。
「もしかして、皇太子殿下に直接訊ねたいと思っているのではないですか? そういうことをしても、変に思わないかどうかと」
本音を見透かされてリゼットはタジタジになった。今日ここへ来たのも、あわよくばルシアンに出くわさないかと、それを期待していたのだった。
「皇太子殿下はお忙しいですから、王女様もおいそれと面会することはできませんわ。でも、確か殿下は毎週木曜日に近衛隊の騎馬隊の訓練を監督なさるはず。近衛隊の馬場は王宮の外側にありますから、そこへ行けば、もしかしたらお会いになれるかもしれませんわよ」
「まぁ、本当ですの? ありがとうございます」
良い情報を手に入れた。リゼットはその後すこしキトリィの相手をしてから仕立屋へ戻った。
仕立屋ではカミーユが慌ただしくお針子に仕事を振っていた。芸術祭以降、またドレスやアクセサリーの注文が増えたらしい。もしリゼットが劇場の演出を受けてしまい、衣装制作まで請け負ったら、この店はパンクするのではないか。
そこへパメラが尋ねてきた。彼女も劇場の支配人に、歌手にならないかと打診されていた。それを引き受けるべきか迷っているという。
「わたくしは、リゼット様みたいに素晴らしいところが何もなくて、妃選びに残っているのもほんのまぐれで、きっと最後に選ばれることは無いでしょう。これまで歌ったことがなかったので、声を褒められたのは初めてでした。これもまぐれだと思っていたんですけれども、劇場の支配人の口ぶりは、おべっかとも思えなくて。本気にしてもいいのかなと」
「ええ。あなたは本当に才能があるわ。専門的な練習をすれば、プロの歌手として通用するわ」
「歌は好きですし、こうして幸運にも機会に恵まれたのなら、挑戦してみるのもいいかと思ったんですけれど、母が許してくれなくて」
あの強烈な母親は、娘を皇太子妃にすることに固執しているらしい。
「母がそうなったのには理由があるのです。母は貴族ではなくて平民なんですわ。近頃は、貧乏な貴族が裕福なブルジョワと結婚して、家の財政を立て直すことがあるでしょう。母もそういう目的で嫁いできたそうなんです。
ただ、母の姉は貧乏とはいっても爵位が高い家に嫁ぎ、しかも嫁いだ後にきちんと資金繰りをして裕福になったのです。母の境遇はそれと真逆で、悔しかったんですわ。だからわたくしにはなんとしても玉の輿に乗ってほしいと思っているようで。妃選びに参加させたんです」
「そうだったのね」
娘を幸せにしたいという母の愛なのだ。少々やりすぎな気もするが。
「お母様のいうこともわかるんですわ。歌手にだって、なれるかどうかわからないし、なったとして成功できる保証はありません。皇太子殿下でなくても、誰かほかの殿方に嫁ぐのが、堅実なのかもしれません。だから母の言う通りにするべきかもしれないと思うのです」
彼女の迷いはもっともだった。リゼットは前世で宝川歌劇団に入団したはいいが、その他大勢に甘んじている。好きだから、熱意があるからといって、成功が約束された世界でないことはよくわかっている。無責任に勧めることはできなかった
一緒になって悩んでも決断には至らなかった。パメラは悩ましい顔で帰って行った。
翌日は木曜日だった。リゼットは朝早くにおしゃれをして、近衛隊の馬場へ向かった。
宮殿の後方にある低い山裾に、開けた台地がある。そこに厩舎が置かれ、馬たちの調教と兵士の乗馬訓練が行われている。
リゼットは入り口から少し離れた馬房の影から訓練の様子を見つめた。軍服に身を包んだ兵士たちが、馬にまたがって整列している。その先頭に白い軍服を着たルシアンがいた。
ルシアンの号令で、兵士たちは馬に駆け足をさせ、一糸乱れぬ動きで動く。春が去り、少々強くなった日差しの下で、爽やかな風が吹き抜け、ルシアンの帽子の羽飾りを揺らしていた。
凛々しい姿に見とれていると、馬は動きを止め、兵士たちは下馬した。いつの間にか昼時になったようだ。訓練は終わったのか、それとも休憩にはいったのか。みな、馬の手綱を引いて馬房へ戻ってくる。ルシアンも白馬の手綱を引いてくる。リゼットに気が付くと、隣にいた兵士に馬を預けて馬房の影へやってきた。リゼットはお辞儀をして迎える。
「どうしたのだ。こんな所に」
「申し訳ございません、突然押しかけてしまって」
リゼットはいざ要件を切り出したが、話している途中で、こんな私的なことを相談するのはお図々しくはないかと恥ずかしくなって、だんだん声が尻すぼみになってしまった。
却って変に思われたのではないかとルシアンの顔色を窺ったが、彼は笑うでもなく顔をしかめるでもなく、至って真面目な顔をしていた。
「劇場の演出の仕事を引き受けるか迷っていると」
「と、いうよりも、それを引き受けたとして、そういうことをする貴族の令嬢を、殿下はどうお思いになるか、奇妙だとか、出しゃばりとか、生意気だとか、そういうことをお感じになるか、是非お伺いしたくて」
「そうか。だが、あなたがそれを気にする必要があるのか? どうもあなたはやってみたいと思っているようだが、それならばその気持ちのままやってみればいいのではないか。他人にどう見えるかなど気にする必要はない。あなたがそういうことを気にするとは思えないのだが」
「そんなことはございません。わたくしだって他のご令嬢みたいに、良く見せようと必死ですわ。これまでは色々と状況が許さずに、残念な結果になっただけで。本当は私だってメリザンド様みたいに、優美で上品なんですわよ」
思わず反論した物言いが面白かったのか、ルシアンは白い手袋をはめた手を上品に口元に寄せて笑った。優美で上品と言った口でそれに反する行いをしてしまい、リゼットは赤面した。
「いや。笑ってすまなかった。ただ、あなたは人の目を気にせずに自然体でいる方が似合うと思ったのだ。
劇場の仕事を引き受けたとして、別に悪い印象は抱かない。あなたならむしろ、また面白いことをしてくれるのではと期待してしまう。面白いというのは滑稽という意味ではなく、興味深いという意味だ。
自分の気持ちに正直になって、やれるだけやってみたらいい。あなたの演出する舞台なら見てみたい。成功するよう応援している」
そこで時間が来たのか、兵士似呼ばれ、ルシアンはリゼットの前から去った。リゼットはその背に慌てて礼を言った。
(わたしの気持ちに正直に……)
その言葉はリゼットの背中を押すに十分だった。リゼットは静かに馬房を後にした。
二人が顔を合わせていたのはごく短い間だったが、それは近衛隊の兵士たちに目撃されていた。
「あれは芸術祭で斬新な踊りを披露したリゼット嬢じゃないか。ほほう、殿下は彼女をお気に召したようだな」
近衛隊の仕官はだいたい貴族の子息だった。ルシアンがリゼットと密会していたことは、数日で社交界に広まることとなる。
「令嬢らしくないことをすると、皇太子殿下に変に思われるかもしれないと心配していらっしゃるのね」
アンリエットは隣に腰掛けて穏やかな表情で話を聞いてくれた。
「こればかりは、リゼット様が自らのお心で決めることですわ」
「そうですわよね。自分で決めなければならないのに」
リゼットは溜息をついた。
「もしかして、皇太子殿下に直接訊ねたいと思っているのではないですか? そういうことをしても、変に思わないかどうかと」
本音を見透かされてリゼットはタジタジになった。今日ここへ来たのも、あわよくばルシアンに出くわさないかと、それを期待していたのだった。
「皇太子殿下はお忙しいですから、王女様もおいそれと面会することはできませんわ。でも、確か殿下は毎週木曜日に近衛隊の騎馬隊の訓練を監督なさるはず。近衛隊の馬場は王宮の外側にありますから、そこへ行けば、もしかしたらお会いになれるかもしれませんわよ」
「まぁ、本当ですの? ありがとうございます」
良い情報を手に入れた。リゼットはその後すこしキトリィの相手をしてから仕立屋へ戻った。
仕立屋ではカミーユが慌ただしくお針子に仕事を振っていた。芸術祭以降、またドレスやアクセサリーの注文が増えたらしい。もしリゼットが劇場の演出を受けてしまい、衣装制作まで請け負ったら、この店はパンクするのではないか。
そこへパメラが尋ねてきた。彼女も劇場の支配人に、歌手にならないかと打診されていた。それを引き受けるべきか迷っているという。
「わたくしは、リゼット様みたいに素晴らしいところが何もなくて、妃選びに残っているのもほんのまぐれで、きっと最後に選ばれることは無いでしょう。これまで歌ったことがなかったので、声を褒められたのは初めてでした。これもまぐれだと思っていたんですけれども、劇場の支配人の口ぶりは、おべっかとも思えなくて。本気にしてもいいのかなと」
「ええ。あなたは本当に才能があるわ。専門的な練習をすれば、プロの歌手として通用するわ」
「歌は好きですし、こうして幸運にも機会に恵まれたのなら、挑戦してみるのもいいかと思ったんですけれど、母が許してくれなくて」
あの強烈な母親は、娘を皇太子妃にすることに固執しているらしい。
「母がそうなったのには理由があるのです。母は貴族ではなくて平民なんですわ。近頃は、貧乏な貴族が裕福なブルジョワと結婚して、家の財政を立て直すことがあるでしょう。母もそういう目的で嫁いできたそうなんです。
ただ、母の姉は貧乏とはいっても爵位が高い家に嫁ぎ、しかも嫁いだ後にきちんと資金繰りをして裕福になったのです。母の境遇はそれと真逆で、悔しかったんですわ。だからわたくしにはなんとしても玉の輿に乗ってほしいと思っているようで。妃選びに参加させたんです」
「そうだったのね」
娘を幸せにしたいという母の愛なのだ。少々やりすぎな気もするが。
「お母様のいうこともわかるんですわ。歌手にだって、なれるかどうかわからないし、なったとして成功できる保証はありません。皇太子殿下でなくても、誰かほかの殿方に嫁ぐのが、堅実なのかもしれません。だから母の言う通りにするべきかもしれないと思うのです」
彼女の迷いはもっともだった。リゼットは前世で宝川歌劇団に入団したはいいが、その他大勢に甘んじている。好きだから、熱意があるからといって、成功が約束された世界でないことはよくわかっている。無責任に勧めることはできなかった
一緒になって悩んでも決断には至らなかった。パメラは悩ましい顔で帰って行った。
翌日は木曜日だった。リゼットは朝早くにおしゃれをして、近衛隊の馬場へ向かった。
宮殿の後方にある低い山裾に、開けた台地がある。そこに厩舎が置かれ、馬たちの調教と兵士の乗馬訓練が行われている。
リゼットは入り口から少し離れた馬房の影から訓練の様子を見つめた。軍服に身を包んだ兵士たちが、馬にまたがって整列している。その先頭に白い軍服を着たルシアンがいた。
ルシアンの号令で、兵士たちは馬に駆け足をさせ、一糸乱れぬ動きで動く。春が去り、少々強くなった日差しの下で、爽やかな風が吹き抜け、ルシアンの帽子の羽飾りを揺らしていた。
凛々しい姿に見とれていると、馬は動きを止め、兵士たちは下馬した。いつの間にか昼時になったようだ。訓練は終わったのか、それとも休憩にはいったのか。みな、馬の手綱を引いて馬房へ戻ってくる。ルシアンも白馬の手綱を引いてくる。リゼットに気が付くと、隣にいた兵士に馬を預けて馬房の影へやってきた。リゼットはお辞儀をして迎える。
「どうしたのだ。こんな所に」
「申し訳ございません、突然押しかけてしまって」
リゼットはいざ要件を切り出したが、話している途中で、こんな私的なことを相談するのはお図々しくはないかと恥ずかしくなって、だんだん声が尻すぼみになってしまった。
却って変に思われたのではないかとルシアンの顔色を窺ったが、彼は笑うでもなく顔をしかめるでもなく、至って真面目な顔をしていた。
「劇場の演出の仕事を引き受けるか迷っていると」
「と、いうよりも、それを引き受けたとして、そういうことをする貴族の令嬢を、殿下はどうお思いになるか、奇妙だとか、出しゃばりとか、生意気だとか、そういうことをお感じになるか、是非お伺いしたくて」
「そうか。だが、あなたがそれを気にする必要があるのか? どうもあなたはやってみたいと思っているようだが、それならばその気持ちのままやってみればいいのではないか。他人にどう見えるかなど気にする必要はない。あなたがそういうことを気にするとは思えないのだが」
「そんなことはございません。わたくしだって他のご令嬢みたいに、良く見せようと必死ですわ。これまでは色々と状況が許さずに、残念な結果になっただけで。本当は私だってメリザンド様みたいに、優美で上品なんですわよ」
思わず反論した物言いが面白かったのか、ルシアンは白い手袋をはめた手を上品に口元に寄せて笑った。優美で上品と言った口でそれに反する行いをしてしまい、リゼットは赤面した。
「いや。笑ってすまなかった。ただ、あなたは人の目を気にせずに自然体でいる方が似合うと思ったのだ。
劇場の仕事を引き受けたとして、別に悪い印象は抱かない。あなたならむしろ、また面白いことをしてくれるのではと期待してしまう。面白いというのは滑稽という意味ではなく、興味深いという意味だ。
自分の気持ちに正直になって、やれるだけやってみたらいい。あなたの演出する舞台なら見てみたい。成功するよう応援している」
そこで時間が来たのか、兵士似呼ばれ、ルシアンはリゼットの前から去った。リゼットはその背に慌てて礼を言った。
(わたしの気持ちに正直に……)
その言葉はリゼットの背中を押すに十分だった。リゼットは静かに馬房を後にした。
二人が顔を合わせていたのはごく短い間だったが、それは近衛隊の兵士たちに目撃されていた。
「あれは芸術祭で斬新な踊りを披露したリゼット嬢じゃないか。ほほう、殿下は彼女をお気に召したようだな」
近衛隊の仕官はだいたい貴族の子息だった。ルシアンがリゼットと密会していたことは、数日で社交界に広まることとなる。