第十章 最後のダンス 第六話
文字数 2,988文字
それでもリゼットの眠気は去らない。キトリィは隣の席に座って、テーブルの下でリゼットの手をつねったり、足を踏んだりして、なんとか目を覚まさせていた。その甲斐あって居眠りは避けられたが、いつまで持ちこたえられるかわからない。
ルシアンは着席してからちらちらとリゼットを見ていて、なんだか元気がなさそうで心配になっていた。
「それではいただきましょうか」
全員が揃ったところで皇后が声をかける。例のスープが給仕たちによって運ばれた。皇后は何も疑わずに、スープを飲んだ。
「それにしても、最近はぐっと涼しくなってきて……クシュン!」
「お寒いのですか? 上着を持ってこさせましょう」
「ほほほ、わたくしとしたことが、そうね、少し薄着だったかしら……ヘックシュン!」
今度は大きなくしゃみだったので、怪訝な視線が皇后に集まった。皇后は取り繕おうと口を開いたが、その口からまた大きなくしゃみが飛び出す。侍女が上着を肩にかけても、くしゃみは止まらないどころか、喋ることができないくらい連続した。それにつられるように、審査員たちもくしゃみをし始めて、昼食会場はくしゃみの大合唱となった。
「一体どうしたことか。まぁいい。わたしが申し付けた茶があるだろう。あれを先にお出ししろ。喉が落ち着くかもしれないからな」
異様な光景に令嬢たちが戸惑う中、ルシアンは給仕に命じた。それこそユーグが厨房に持ち込んだ茶で、ちょっとした細工がしてあった。
茶が来ると皇后と審査員は熱いのも気にせずにすぐに飲んだ。そしてすぐに咽て顔を真っ赤にした。
「なんですこれは、ヘックシュン! 舌が痛い、ヘックシュン! は、鼻がツーンと、ヘックシュンは」
あの茶の中には異国から届いた香辛料やらミントやらが沢山仕込んであったのだ。同じ茶を飲んだ審査員たちも、茶の辛さと、鼻にツーンと抜けるような香りにすっかり参って、そのうえくしゃみが止まらないとあって、誰も彼も食事どころではなくなった。
令嬢たちも茶を口にしてしまっていた。ある者は吐き出してしまいそうになって、慌ててハンカチで口を押えた。ある者は思わず舌を出した。ある者は強烈な味に絶えられず泣き出した。
リゼットはというと、キトリィに起こされて、うつらうつらしながらカップを口につけた。確かに不味い。ただその刺激のおかげで眠気は一気に撃退された。油断ならないので、もう一口飲むと、頭の先からつま先まで雷が落ちたように覚醒し、バチっと目が開いた。
(なんだかよくわからないけど、どうしちゃったのかしら)
しゃっくりと茶のせいで椅子の上で苦しむ審査員たち、口を押えたり顔をしかめている令嬢たち。彼らの介抱のためにてんてこまいの使用人たち。とても優雅な昼食会とは言えない。
そんな中、リゼットと同じく正気を保っていたルシアンは立ち上がってリゼットを部屋の外へ連れ出した。どさくさに紛れて彼女と二人で話すために、あんな茶を出させたのだった。
ルシアンの真意を知ると、リゼットはそうまでして逢引したかったのかと喜んだ。しかしルシアンからは恋人と過ごす甘い雰囲気は全く感じられなかった。
「騒ぎを起こしたが、そう長く時間は稼げない。単刀直入に言おう。リゼット嬢、君はレーブジャルダン家の養女なのか」
リゼットは石像のように固まった。出自を問われた。元は農民の娘で、本来こんなドレスを着て王宮になどいてはいけない身分なのかと糺された。
そもそも転生してきた時点以前の記憶はなかったし、これまでレーブジャルダン家の娘で通ってしまっていたので、出自を気にすることなど無かった。だが考えてみれば、皇太子妃になるのに一番の障害は、礼儀作法や教養といった淑女らしさよりも、元は平民という身分に他ならない。本来なら一番最初に向き合うべき問題が、ここへきて顔を出したのだった。リゼットは困惑した。
(そうじゃないって嘘をつくべき? でもこうして訊ねるということは、殿下は全て知ってしまったのかもしれない。だったら嘘をついても意味はないかも。それに、好きな人に嘘をつくなんて、誠実じゃないわ)
リゼットは迷った。時間がないと言ったのに、ルシアンは急かすではなく、じっと見つめてくる。その透き通る紫の瞳を見たら、嘘偽りなどとても言えなかった。
「……ええ。殿下のおっしゃる通り。わたくしは養女なのです。元はクルベットノンの農民で、貧しく身寄りがなかったので、両親が憐れんで屋敷に迎えてくれたのですわ。
申し訳ございません。隠したり、騙そうとしたわけではございません。その、両親はわたくしを本当の娘のように遇してくれましたし、お兄様から色々とお教えいただき、すっかり貴族の令嬢になったつもりでいましたの。でも、見かけは取り繕えても、中身は変わりませんものね。わたくしのような娘は、殿下のお側にいる資格はないですわね」
きっと幻滅され、別れを切り出される。妃選びの次の招待状は来ない。そう悲観して項垂れたリゼットの手を、ルシアンは力強く握った。
「そんなことはない。出自がどうあろうと、君が心優しく寛大で、尊敬に値する素晴らしい人間であることは変わらない。君は恋は身分や立場を超えると教えてくれた。つまり、人と人の間にある感情は身分に阻まれない。そうではないか? 私はこれからも側にいてほしいと思っている」
「殿下、勿体ないお言葉ですわ」
リゼットは思わず涙ぐんだ。ルシアンは安心させるようにその肩を撫でる。
「だが気がかりが一つある。メリザンドが父親と一緒に、君の出自を暴こうとしているらしい。恐らくは次の妃選びの場になる国王の銅像お披露目式で暴露するつもりだろう。社交界の連中は君を引きずりおろそうとするはずだ。止める手立てはないものか……」
それはリゼットにとっては窮地だったが。だが、メリザンドはなにもリゼットを陥れているのではない。真実を暴いているのだ。それを止めるのはつまり、嘘をつき続けるということだ。
(わたしが貴族でないと知ったら、多くの人が騙されたと思うでしょうね。ブランシュたちも、もう友達ではないというかもしれない。妃選びはもちろん失格になるし、ポーッラク卿だって、気分を害してお兄様の仕官の話を白紙にするかもしれないわ。
だからといって、真実を突き止めたメリザンドを何とかするなんて、それこそずるよ。ずるはしないと言った張本人が、身分を偽り続けるなんて、そんな勇気はないわ)
リゼットは意を肩を落としたまま言った。
「メリザンド様のなさりたいようにさせてください。隠しても、きっといつか明るみ出ることですわ。わたくしは先ほどの殿下のお言葉をいただけだけで満足ですから、殿下はどうか、真実の隠蔽などなさらないで、堂々としていてくださいませ」
もうルシアンと会えるのはこれっきりかもしれない。名残惜しかったが、所詮この世界でも自分はその他大勢、皇太子妃など分不相応だったのだと自らに言い聞かせ、愛しい皇太子の手を離して控えの間へ戻っていった。
結局、昼食会は途中でお開きになった。皇后と審査員は、夜になってもくしゃみが止まらなかったそうだ。正気を保っていたのはリゼットだけだったと聞いて、でかしたとシモンは褒めた。だが、リゼットはいつになく沈んでいた。不審に思ったシモンに問い詰められ、リゼットは全てを話した。
ルシアンは着席してからちらちらとリゼットを見ていて、なんだか元気がなさそうで心配になっていた。
「それではいただきましょうか」
全員が揃ったところで皇后が声をかける。例のスープが給仕たちによって運ばれた。皇后は何も疑わずに、スープを飲んだ。
「それにしても、最近はぐっと涼しくなってきて……クシュン!」
「お寒いのですか? 上着を持ってこさせましょう」
「ほほほ、わたくしとしたことが、そうね、少し薄着だったかしら……ヘックシュン!」
今度は大きなくしゃみだったので、怪訝な視線が皇后に集まった。皇后は取り繕おうと口を開いたが、その口からまた大きなくしゃみが飛び出す。侍女が上着を肩にかけても、くしゃみは止まらないどころか、喋ることができないくらい連続した。それにつられるように、審査員たちもくしゃみをし始めて、昼食会場はくしゃみの大合唱となった。
「一体どうしたことか。まぁいい。わたしが申し付けた茶があるだろう。あれを先にお出ししろ。喉が落ち着くかもしれないからな」
異様な光景に令嬢たちが戸惑う中、ルシアンは給仕に命じた。それこそユーグが厨房に持ち込んだ茶で、ちょっとした細工がしてあった。
茶が来ると皇后と審査員は熱いのも気にせずにすぐに飲んだ。そしてすぐに咽て顔を真っ赤にした。
「なんですこれは、ヘックシュン! 舌が痛い、ヘックシュン! は、鼻がツーンと、ヘックシュンは」
あの茶の中には異国から届いた香辛料やらミントやらが沢山仕込んであったのだ。同じ茶を飲んだ審査員たちも、茶の辛さと、鼻にツーンと抜けるような香りにすっかり参って、そのうえくしゃみが止まらないとあって、誰も彼も食事どころではなくなった。
令嬢たちも茶を口にしてしまっていた。ある者は吐き出してしまいそうになって、慌ててハンカチで口を押えた。ある者は思わず舌を出した。ある者は強烈な味に絶えられず泣き出した。
リゼットはというと、キトリィに起こされて、うつらうつらしながらカップを口につけた。確かに不味い。ただその刺激のおかげで眠気は一気に撃退された。油断ならないので、もう一口飲むと、頭の先からつま先まで雷が落ちたように覚醒し、バチっと目が開いた。
(なんだかよくわからないけど、どうしちゃったのかしら)
しゃっくりと茶のせいで椅子の上で苦しむ審査員たち、口を押えたり顔をしかめている令嬢たち。彼らの介抱のためにてんてこまいの使用人たち。とても優雅な昼食会とは言えない。
そんな中、リゼットと同じく正気を保っていたルシアンは立ち上がってリゼットを部屋の外へ連れ出した。どさくさに紛れて彼女と二人で話すために、あんな茶を出させたのだった。
ルシアンの真意を知ると、リゼットはそうまでして逢引したかったのかと喜んだ。しかしルシアンからは恋人と過ごす甘い雰囲気は全く感じられなかった。
「騒ぎを起こしたが、そう長く時間は稼げない。単刀直入に言おう。リゼット嬢、君はレーブジャルダン家の養女なのか」
リゼットは石像のように固まった。出自を問われた。元は農民の娘で、本来こんなドレスを着て王宮になどいてはいけない身分なのかと糺された。
そもそも転生してきた時点以前の記憶はなかったし、これまでレーブジャルダン家の娘で通ってしまっていたので、出自を気にすることなど無かった。だが考えてみれば、皇太子妃になるのに一番の障害は、礼儀作法や教養といった淑女らしさよりも、元は平民という身分に他ならない。本来なら一番最初に向き合うべき問題が、ここへきて顔を出したのだった。リゼットは困惑した。
(そうじゃないって嘘をつくべき? でもこうして訊ねるということは、殿下は全て知ってしまったのかもしれない。だったら嘘をついても意味はないかも。それに、好きな人に嘘をつくなんて、誠実じゃないわ)
リゼットは迷った。時間がないと言ったのに、ルシアンは急かすではなく、じっと見つめてくる。その透き通る紫の瞳を見たら、嘘偽りなどとても言えなかった。
「……ええ。殿下のおっしゃる通り。わたくしは養女なのです。元はクルベットノンの農民で、貧しく身寄りがなかったので、両親が憐れんで屋敷に迎えてくれたのですわ。
申し訳ございません。隠したり、騙そうとしたわけではございません。その、両親はわたくしを本当の娘のように遇してくれましたし、お兄様から色々とお教えいただき、すっかり貴族の令嬢になったつもりでいましたの。でも、見かけは取り繕えても、中身は変わりませんものね。わたくしのような娘は、殿下のお側にいる資格はないですわね」
きっと幻滅され、別れを切り出される。妃選びの次の招待状は来ない。そう悲観して項垂れたリゼットの手を、ルシアンは力強く握った。
「そんなことはない。出自がどうあろうと、君が心優しく寛大で、尊敬に値する素晴らしい人間であることは変わらない。君は恋は身分や立場を超えると教えてくれた。つまり、人と人の間にある感情は身分に阻まれない。そうではないか? 私はこれからも側にいてほしいと思っている」
「殿下、勿体ないお言葉ですわ」
リゼットは思わず涙ぐんだ。ルシアンは安心させるようにその肩を撫でる。
「だが気がかりが一つある。メリザンドが父親と一緒に、君の出自を暴こうとしているらしい。恐らくは次の妃選びの場になる国王の銅像お披露目式で暴露するつもりだろう。社交界の連中は君を引きずりおろそうとするはずだ。止める手立てはないものか……」
それはリゼットにとっては窮地だったが。だが、メリザンドはなにもリゼットを陥れているのではない。真実を暴いているのだ。それを止めるのはつまり、嘘をつき続けるということだ。
(わたしが貴族でないと知ったら、多くの人が騙されたと思うでしょうね。ブランシュたちも、もう友達ではないというかもしれない。妃選びはもちろん失格になるし、ポーッラク卿だって、気分を害してお兄様の仕官の話を白紙にするかもしれないわ。
だからといって、真実を突き止めたメリザンドを何とかするなんて、それこそずるよ。ずるはしないと言った張本人が、身分を偽り続けるなんて、そんな勇気はないわ)
リゼットは意を肩を落としたまま言った。
「メリザンド様のなさりたいようにさせてください。隠しても、きっといつか明るみ出ることですわ。わたくしは先ほどの殿下のお言葉をいただけだけで満足ですから、殿下はどうか、真実の隠蔽などなさらないで、堂々としていてくださいませ」
もうルシアンと会えるのはこれっきりかもしれない。名残惜しかったが、所詮この世界でも自分はその他大勢、皇太子妃など分不相応だったのだと自らに言い聞かせ、愛しい皇太子の手を離して控えの間へ戻っていった。
結局、昼食会は途中でお開きになった。皇后と審査員は、夜になってもくしゃみが止まらなかったそうだ。正気を保っていたのはリゼットだけだったと聞いて、でかしたとシモンは褒めた。だが、リゼットはいつになく沈んでいた。不審に思ったシモンに問い詰められ、リゼットは全てを話した。