第二章 レーブジャルダン家 第一話
文字数 2,929文字
「辞めよっかな」
この一言がこぼれ出た後、夢園さゆりは自らの退団の意思を自覚した。
夢の舞台に憧れて歌舞校に入ってからここまで、狭い宝川の世界で前だけを見て一心不乱にやってきた。その一本の糸のような精神力が、プツリと切れてしまったようだった。退団してゆく人たちが、退団を決意した瞬間について、自分の中で鐘が鳴ったと表現するが、もしかしたら、糸が切れたような感覚を美化して言ったに過ぎないかもしれない。
葛藤はあった。狭き門を突破して夢の舞台に立ったのに、たった七年で去るのか。
だが、宝川歌劇団に入団してみれば、一年で退団する者も、七年経たずに退団する者もいる。理由は様々だ。同期を見送ったことだって何度かある。七年は決して短くない。なんなら在団した年数なんて意味をなさない。その他大勢なのだから。
退団者は本公演の千秋楽に退団セレモニーを行う。歌劇団の生徒の正装である、黒紋付に黄色の袴姿で、一人一人大階段の真ん中を下りてきて、ファンへ別れの挨拶という名のスピーチをする。トップスターの退団となると公演そのものが退団セレモニーと化し、挨拶の前にサヨナラショーなる特別ステージが付くものだ。
夢園さゆりはご挨拶だけになるだろう。フィナーレの衣装そのままの藤組の全ての生徒が居並ぶ中、組の最年長者である組長が進み出て、退団者の挨拶がある旨を客に告げ、そして一人一人紹介する。
「夢園さゆりがご挨拶します。えっちゃん!」
「はい!」
元気よく答えた自分は、一度も降りたことがない大階段のど真ん中をゆっくり降りていく。髪型はシンプルなシニョンで、控えめに花をつけている。途中でスポットライトが当たり、そこで一礼。階段を下りると、組からと同期から、それぞれ二つに分解したキャスケードの花束を渡される。花は頭に飾った者とお揃いだ。ブーケを合わせて持って、舞台中央のマイクの前で一礼。
「踊りが好きだったわたしが、歌舞校を受験して、奇跡のようなめぐりあわせで、この夢の舞台に立つことができました。楽しいことだけではなく、辛く、挫けそうになることもありましたが、そのたびに、素晴らしい上級生の方々、頼もしい同期、可愛い下級生たち、そして諸先生方、スタッフの皆さまが、私を助け、励まし、導いてくれました。なにより、こうして劇場へ足を運び、応援してくださるファンの皆様のお力があったからこそ、今日まで走り続けることができました。ここで出会った全ての方に、感謝の気持ちでいっぱいです。七年間、本当にありがとうございました」
そこで妄想は途絶えた。感謝の言葉も空虚に感じてしまう。礼儀として感謝を伝えるべきだとは思う。だが心にネガティブな感情を抱きながら、晴れやかな表情でこんな言葉を発するのは白々しくてたまらない。芝居と思えばやれないことはない。だがそれでは却って感謝を伝えるべき人に失礼になる。
大体、非路線の娘役が仰々しく挨拶する必要があるだろうか。多くのファンにとっては、ああそんな人もいたのね、程度の存在なのに。
そもそもこのセレモニーは公演後に行われるので、舞台スタッフやオーケストラは残業扱いになり、残業代は卒業する生徒自身が支払うことになる。退団者がたった一人ということはないだろうから、数人で負担することになるが、けっこう大きな額だ。ちなみにトップスターが退団する場合は、トップスターが全ての費用を持ってくれるので、同じタイミングで退団する生徒が多い。
当然、このセレモニーを逃れる術もある。それは別箱退団か、集合日退団だ。
別箱退団は、別箱の公演を以て退団するということ。劇団自前の劇場の公演ではないため退団セレモニーなどできない。この場合は千秋楽のカーテンコールで、その公演の出演者の中で最年長者に当たる人間か、主演者が気を使って紹介してくれた時に、一言挨拶すれば済む。次に別箱公演がひかえているから、ちょうどいいかもしれない。
(もう一公演、わたし、できるかな……)
それだけの気力が自分に残っているか不安だ。というより、気持ちが切れてしまった今、この公演の千秋楽まで何とか持たせるのが精一杯かもしれない。
ならばいっそ集合日退団だ。集合日とは次回公演の稽古の前に出演者が集まる日を指す。その日をもって退団するということになるので、その翌日から始まる稽古には参加せず、舞台にも立たず、静かに去ることになる。今の夢園さゆりにとって、これが一番ベストな選択肢ではないか。
気になるのはファンに別れの挨拶ができないことだ。ファンからすれば、最後の姿を目に焼き付けたいだろう。それがこれまで支えてくれたことに対してのお礼にもなるのに、その機会を奪うのは気が引ける。
しかし、純粋な夢園さゆりのファンなど数えるほどしかいない。この前のお茶会に来てくれた28人全員が、心から退団を惜しんでくれるだろうか。最後の姿を目に焼き付けたいと願うだろうか。自分がそこまで求められていると思うほど夢園さゆりはうぬぼれていない。
春海さんは心から惜しんでくれるだろう。彼女には申し訳ないが、懇ろにお礼状を書いて、三島さんに頼んで舞台稽古で撮った写真を数枚プレゼントすれば、お礼として十分ではないか。そもそも、一番気持ちが強いであろう彼女でさえ、初観劇でたまたま目の前にいたからファンになってくれただけだ。もし他の生徒だったらその生徒のファンになっていたはずだ。
集合日退団で気持ちは固まった。後は退団することを両親に話す。三島さんにも話して、それから同期にも。もう決めたことなので、話すというより報告だが。
自分の退団後、三島さんが他につくべき生徒の当てがないのなら、晴日 つばめを勧めよう。もともと三島さんはお手伝いしていた上級生の代表で、上級生が退団するときに紹介されたのだった。最後に尊敬する人の真似事をするのもいいだろう。
そんなことをつらつらと舞台袖で考えていた。公演はもうラスト、出演者全員が豆電球の光る大階段を下りてきて挨拶をするパレードに入った。
夢園さゆりは紫貴 ゆうや、秋月怜央 に挟まれて待機する。赤いビスチェのマーメイドドレスで、頭のてっぺんから大きな羽が生えたようなヘッドピースをつけている。後頭部にはもちろん衣装に合わせて作ったお団子キャップ。今回、娘役は小さめの背負い羽がつくので、それをランドセルのように背負っている。宝川娘役らしい、オーソドックスなレビュースタイルだ。
手にはシャンシャンと呼ばれる独特の小道具を持つ。ショーのイメージに合わせた小さなオブジェクトに長いリボンが付いていて、片手にオブジェクト、片手にリボンを持って、揺らしながら階段を下りる。今回はオブジェクトが虹色の円盤になっていて、その上にショーのタイトル『Radiant TAKARAGAWA 』の金の文字が横切っている。
路線の男役と音輝 めいが主題歌を歌いながら中央を降りてゆく時に、三人は上手側の端を横並びで降りる。
いつも通り笑顔で音楽に乗って足を運ぶ。が、階段のちょうど真ん中あたりで、かかとが滑って階段を踏み外してしまった。
「あっ」
小さな悲鳴が聞こえたのは両隣の同期二人だけだった。
この一言がこぼれ出た後、夢園さゆりは自らの退団の意思を自覚した。
夢の舞台に憧れて歌舞校に入ってからここまで、狭い宝川の世界で前だけを見て一心不乱にやってきた。その一本の糸のような精神力が、プツリと切れてしまったようだった。退団してゆく人たちが、退団を決意した瞬間について、自分の中で鐘が鳴ったと表現するが、もしかしたら、糸が切れたような感覚を美化して言ったに過ぎないかもしれない。
葛藤はあった。狭き門を突破して夢の舞台に立ったのに、たった七年で去るのか。
だが、宝川歌劇団に入団してみれば、一年で退団する者も、七年経たずに退団する者もいる。理由は様々だ。同期を見送ったことだって何度かある。七年は決して短くない。なんなら在団した年数なんて意味をなさない。その他大勢なのだから。
退団者は本公演の千秋楽に退団セレモニーを行う。歌劇団の生徒の正装である、黒紋付に黄色の袴姿で、一人一人大階段の真ん中を下りてきて、ファンへ別れの挨拶という名のスピーチをする。トップスターの退団となると公演そのものが退団セレモニーと化し、挨拶の前にサヨナラショーなる特別ステージが付くものだ。
夢園さゆりはご挨拶だけになるだろう。フィナーレの衣装そのままの藤組の全ての生徒が居並ぶ中、組の最年長者である組長が進み出て、退団者の挨拶がある旨を客に告げ、そして一人一人紹介する。
「夢園さゆりがご挨拶します。えっちゃん!」
「はい!」
元気よく答えた自分は、一度も降りたことがない大階段のど真ん中をゆっくり降りていく。髪型はシンプルなシニョンで、控えめに花をつけている。途中でスポットライトが当たり、そこで一礼。階段を下りると、組からと同期から、それぞれ二つに分解したキャスケードの花束を渡される。花は頭に飾った者とお揃いだ。ブーケを合わせて持って、舞台中央のマイクの前で一礼。
「踊りが好きだったわたしが、歌舞校を受験して、奇跡のようなめぐりあわせで、この夢の舞台に立つことができました。楽しいことだけではなく、辛く、挫けそうになることもありましたが、そのたびに、素晴らしい上級生の方々、頼もしい同期、可愛い下級生たち、そして諸先生方、スタッフの皆さまが、私を助け、励まし、導いてくれました。なにより、こうして劇場へ足を運び、応援してくださるファンの皆様のお力があったからこそ、今日まで走り続けることができました。ここで出会った全ての方に、感謝の気持ちでいっぱいです。七年間、本当にありがとうございました」
そこで妄想は途絶えた。感謝の言葉も空虚に感じてしまう。礼儀として感謝を伝えるべきだとは思う。だが心にネガティブな感情を抱きながら、晴れやかな表情でこんな言葉を発するのは白々しくてたまらない。芝居と思えばやれないことはない。だがそれでは却って感謝を伝えるべき人に失礼になる。
大体、非路線の娘役が仰々しく挨拶する必要があるだろうか。多くのファンにとっては、ああそんな人もいたのね、程度の存在なのに。
そもそもこのセレモニーは公演後に行われるので、舞台スタッフやオーケストラは残業扱いになり、残業代は卒業する生徒自身が支払うことになる。退団者がたった一人ということはないだろうから、数人で負担することになるが、けっこう大きな額だ。ちなみにトップスターが退団する場合は、トップスターが全ての費用を持ってくれるので、同じタイミングで退団する生徒が多い。
当然、このセレモニーを逃れる術もある。それは別箱退団か、集合日退団だ。
別箱退団は、別箱の公演を以て退団するということ。劇団自前の劇場の公演ではないため退団セレモニーなどできない。この場合は千秋楽のカーテンコールで、その公演の出演者の中で最年長者に当たる人間か、主演者が気を使って紹介してくれた時に、一言挨拶すれば済む。次に別箱公演がひかえているから、ちょうどいいかもしれない。
(もう一公演、わたし、できるかな……)
それだけの気力が自分に残っているか不安だ。というより、気持ちが切れてしまった今、この公演の千秋楽まで何とか持たせるのが精一杯かもしれない。
ならばいっそ集合日退団だ。集合日とは次回公演の稽古の前に出演者が集まる日を指す。その日をもって退団するということになるので、その翌日から始まる稽古には参加せず、舞台にも立たず、静かに去ることになる。今の夢園さゆりにとって、これが一番ベストな選択肢ではないか。
気になるのはファンに別れの挨拶ができないことだ。ファンからすれば、最後の姿を目に焼き付けたいだろう。それがこれまで支えてくれたことに対してのお礼にもなるのに、その機会を奪うのは気が引ける。
しかし、純粋な夢園さゆりのファンなど数えるほどしかいない。この前のお茶会に来てくれた28人全員が、心から退団を惜しんでくれるだろうか。最後の姿を目に焼き付けたいと願うだろうか。自分がそこまで求められていると思うほど夢園さゆりはうぬぼれていない。
春海さんは心から惜しんでくれるだろう。彼女には申し訳ないが、懇ろにお礼状を書いて、三島さんに頼んで舞台稽古で撮った写真を数枚プレゼントすれば、お礼として十分ではないか。そもそも、一番気持ちが強いであろう彼女でさえ、初観劇でたまたま目の前にいたからファンになってくれただけだ。もし他の生徒だったらその生徒のファンになっていたはずだ。
集合日退団で気持ちは固まった。後は退団することを両親に話す。三島さんにも話して、それから同期にも。もう決めたことなので、話すというより報告だが。
自分の退団後、三島さんが他につくべき生徒の当てがないのなら、
そんなことをつらつらと舞台袖で考えていた。公演はもうラスト、出演者全員が豆電球の光る大階段を下りてきて挨拶をするパレードに入った。
夢園さゆりは
手にはシャンシャンと呼ばれる独特の小道具を持つ。ショーのイメージに合わせた小さなオブジェクトに長いリボンが付いていて、片手にオブジェクト、片手にリボンを持って、揺らしながら階段を下りる。今回はオブジェクトが虹色の円盤になっていて、その上にショーのタイトル『
路線の男役と
いつも通り笑顔で音楽に乗って足を運ぶ。が、階段のちょうど真ん中あたりで、かかとが滑って階段を踏み外してしまった。
「あっ」
小さな悲鳴が聞こえたのは両隣の同期二人だけだった。