第二章 レーブシャルダン家 第二話

文字数 2,991文字

 26段からなる大階段は、舞台後方におさまっている、そのためかなり急で、一段一段の幅が狭い。出演者はつま先を肩と並行に開くいわゆるバレエ足で、重心をかかとに置いて降りてくる。

 だが、時々階段を踏み外して、落ちる人がいる。といっても、池田屋の階段落ちのようにはならない。後ろ側に尻もちをつくように倒れたら、滑り台のように少し滑り落ち、適当なところで足が引っかかって立ち上がれる。正面から見ていれば、いつもの通りの立ち姿はかわらず、音楽よりも早く階段を下ったように見える。気が付かない観客もいるくらいだ。

 もちろん大怪我につながるケースも少ない。なので階段から落ちたというのは、生徒の間ではよくある失敗談だった。

 夢園(ゆめぞの)さゆりも例にもれず、ハイヒールのかかとが空を踏み、そのまま後ろに倒れた。その直後、後頭部にガツンと衝撃が走った。

 運が悪かったのか、それとも注意力散漫だったのか。倒れた時に多少頭を持ち上げていればよかったのに、羽飾りのついたヘッドピースにあおられて、頭が後ろにのけぞってしまった。そして階段の角に思いっきりぶつかってしまった。

 衝撃は一瞬だったが、寺の鐘が音を立てているように、頭のなかでその衝撃が反響しているようだった。足が引っかかって立つことができてもなお、頭の中はぐわんぐわんし、目に入る舞台とその向こうの客席はマーブル模様のように歪んでいた。自分がまっすぐ歩けているかもわからず、今、舞台上にいることも曖昧になってくる。

 だが、舞台上で倒れるわけにはいかない。夢園さゆりは階段を降り切って、舞台の前方まで進み、片足を折って優雅にお辞儀をした。パレードは毎公演ある。階段を下りてきて、頭を下げて一度袖に引っ込むという動きは、もはや寝ていてもできるくらい体に染みついている。朦朧とした意識でも、ロボットのようにこなして見せた。

 同期二人と一緒に袖に引っ込む。眩しいライトが遮断された暗い場所に来ると、夢園さゆりの頭も真っ暗になった。

「えっちゃん!」

 同期二人の悲鳴に近い呼びかけを聞いたのを最後に、完全に意識を手放した。

 
 目覚めると見慣れない木目の天上が目に飛び込んできた。

(あれ、わたしは何をしていたんだっけ?)

 確か舞台に立っていた気がするが、頭がぼうっとして定かではない。そもそも舞台とは何だったか? なぜ自分は舞台に立っていた? 自分は何者なのだろうか? 

(私の名前は、大原悦子……いや、夢園さゆり。大原悦子で、芸名が夢園さゆりだったんだ。なんで芸名なんて、しかもこんな派手派手な名前をつけたのか……。バレエ? 違う、なんだかもっと電飾とかが派手な舞台で、踊りだけじゃなくて、歌ったり、お芝居したり……。そうだ、宝川歌劇団だ)

 天上を凝視したまま、一つ一つ思い出して、ようやく自分が宝川歌劇団の娘役夢園さゆりであったと思い出す。曖昧だった自分の存在がはっきりと輪郭を取り戻してゆく。

 では今なぜここにいるのだろうか。体は柔らかい感覚に包まれていて、髪の毛はひっ詰めて整髪料で固めておらず、頬にもファンデーションを塗りたくった感覚がなく、瞼にもつけまつげの重みがない。舞台衣装の下に着ているベージュのタイツやボディーファンデーションの締め付けもない。舞台に立つ姿ではないようだ。

 どうも仰向けになっているらしい。自分の状態を確かめるために起き上がろうとする。そこで右手が重いことに気が付いた。重いというか、誰かに握られているような。

「まぁ、リゼット! 目を覚ましたのね!」

 と言う安堵と喜びの混じった声が、右側から聞こえる。顔を右に傾けてみると、栗色の髪の白人女性が夢園さゆりの手を取って、柔らかい笑みを浮かべている。

 驚いたのはその姿形が、普通の現代日本で目にする白人女性とは異なっていることだ。青地に白いユリの模様のドレスを着ているのだが、襟ぐりは四角く開いていて、胸元からウエストまでV字に繊細なアンティークレースのフリルで飾られている。そしてスカートはふわりと膨らみ、足許まで隠れている。まるで結婚式のドレスのような。

(衣装みたいな)

 宝川の芝居の衣装のようだった。つまりは18世紀ごろのヨーロッパ貴族のような身なりだった。現代日本で、こんな服装をする人がいるだろうか。

「リゼットが目覚めたって?」

「お嬢様が? ようございました」

 続けて、左側から声が聞こえる。目を向けてみると、ブラウンでフリルやブレードのついたロングコートを着て、白髪の混じった暗い茶色の巻き毛を長く垂らした、これまた18世紀の貴族のような身なりの男性と、黒いワンピースに白いエプロンをつけたメイドがこちらを覗き込んでいる。

「ほら、はやくシモンを呼んできなさい」

 男性はメイドにそういいつけて、夢園さゆりの左手をとった。

「ああ、よかった! 本当によかった! 私たちの可愛い娘が、もう目を覚まさないのかと」

「む、娘? わたしが、あなたの娘? っていうか、なんで日本語が通じるの?」

 夢園さゆりは思わず体を起こした。左右の二人は慌ててその体を優しく支える。

 起き上がってみると、自分はベッドに寝かされていたようである、白く柔らかいが少し薄く重い布団が、起き上がったはずみで膝の上に溜まっている。周りを見ると、木目の床と、白い壁の部屋で、縦長で上部が丸まっている窓が二つ並び、光が差し込んでいる。アンティークの木目調の箪笥やドレッサー、キャビネット、文書机などが適度に距離を保ちながら配置されていて、どれもドールハウスの家具のようにロマンチックで可愛らしかった。

「あの、ここはどこですか? 私どうしてこんなところに?」

 疑問をそのまま口にすると、二人とも心底驚いたような、傷ついたような顔をした。

「どこって、ここはあなたの家でしょう! まぁ、この子は自分のおうちを忘れてしまったの?」

「そうだぞリゼット。ここはお前の家、レーブジャルダン子爵家だよ」

「私の実家は神奈川県海老名市なんですけど……」

「“エビナ”? 聞いたことがない町だ」

「じゃあ、ここはどこなんです?」

「まぁ! ここかどこかもわからないなんて。あなた、この子はいったいどうしてしまったのかしら」

 女性はよよと泣き出してしまった。男性はベッドを回り込んで女性の肩を抱き、なだめる一方で、一緒に嘆きだした。一体どうすればいいのか、夢園さゆりは益々困惑を深めた。そこで、部屋の扉が開いて、先ほど出て行ったメイドが若い青年を連れて入ってきた。

 言うまでもなく、ヨーロッパの貴族のような恰好をした青年は、暗い茶色の髪の間から覗く青い目でちらりとこちらを見た。その視線が冷たく、鋭かったので、夢園さゆりはベッドの上でどきりと身じろぎした。

「父上、母上、きっと妹は目覚めたばかりで、まだ意識が混濁しているのですよ。しばらく休めば、きっと元通りになりますよ。昨日医者も言っていたでしょう。一時的に眠っているだけで何の問題もないと。あんなふうに転んで、まったく問題もなかったのは神様の思し召しだとも」

「そう……、そうね。先ほど目覚めたばかりですもの。まだ休んでいなくてはいけないわね」

 女性はそういうと夢園さゆりの肩を優しく押して、ベッドに身を横たえさせた。

「もう少し休みなさい、リゼット。何も心配はいらないわ。神様が助けてくださったのよ」
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登場人物紹介

リゼット・ド・レーブジャルダン

トレゾールの田舎クルベットノンの子爵令嬢。

前世は宝川歌劇団の娘役・夢園さゆり(本名は大原悦子)

シモン・ド・レーブジャルダン

リゼットの兄。子爵令息。

パメラ・ド・タンセラン

皇太子妃候補の男爵令嬢。

ブランシュ・ド・ポーラック

皇太子妃候補の公爵令嬢。

サビーナ・ド・エテスポワール

皇太子妃候補の伯爵令嬢。

ローズ・ド・エタミーヌ

皇太子妃候補の伯爵令嬢。

リアーヌ・ド・ブリュム

皇太子妃候補の伯爵令嬢。セブランの遠縁の親戚。

メリザンド・ド・ソンルミエール

皇太子妃候補の公爵令嬢。皇太子の幼馴染。

ルシアン・ド・グリシーヌ

皇太子。

セブラン・ド・メールヴァン

公爵令息。皇太子ルシアンの親友。リアーヌの遠縁の親戚。

ユーグ

皇太子つきの侍従。

キトリィ・ド・グリュザンデム

皇太子妃候補。リヴェールの第五王女。

アンリエット・ド・リュンヌ

キトリィの教育係の侯爵夫人。婚前はトレゾールの貴族令嬢だった。

ノエル

リゼットの侍女。

カミーユ

ノエルの兄。仕立屋。

皇帝

トレゾールの現皇帝。ルシアンの父。

皇后

トレゾールの現皇后。ルシアンの母。

ポーラック卿

ブランシュの祖父。

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