第二章 レーブジャルダン家 第九話
文字数 3,017文字
子爵は深い溜息をついて、転んだままの夫人を助け起こした。家令は俯いて押し黙っている。出てきたコックはそっと厨房へ戻っていった。メイド二人がせかせかと花瓶を片付けるのが、却って広間の気まずさを際立たせていた。茫然とするリゼットをシモンは引っ張って部屋へ連れ戻した。
バタリと扉を閉めて、リゼットを突き飛ばすようにしてベッドに腰掛けさせる。
「どうだ。さっき見たのはお前が尊敬するお父様とお母様の本当の姿だ。ノブレスオブリージュだか何だか知らないが、小さいころから領民が病気にかかったと言えば金を貸してやり、税が納められないといえば肩代わりしてやって、そうしていつの間にか借金まみれだ。貴族なんだから、領民たちから巻き上げて返してしまえばいいのに、却って我が家の取り分は免除するなんて馬鹿なことをするもんだから、借金は膨らむばかり。
どこの国に借金取りが屋敷にやって来る貴族がいる。金がないから屋敷が古くなっても修繕もできやしない。食事は質素で、夏でも冬でも着たきり雀。都に別宅を構えるなんて無理だから、田舎に引きこもって、一人息子の出世の道さえも閉ざしている。
これでもお前は父上と母上を尊敬するというのか? 金もないのに家族をないがしろにして他人を助けるなんて、とても褒められたものではないだろう」
「アンティークで良い感じって思ってたけど、お屋敷はおんぼろだったてわけ? まぁ、確かに扉とか軋んでるけど。洋服もこれ一着しかないの? 可愛いけどこれだけっていうのはちょっと……。食事はまぁ、わたしからしたら豪華だったけど、普通はもうちょっといい物を食べるってことなのね。やっぱり、転生しても庶民感覚って抜けないものね」
「そりゃそうだ。お前なんて、貧しい農民の娘なんだからな」
「は? どういうこと?」
リゼットが目を丸くしていると、シモンは組んでいた腕を解いて、人差し指を向けてきた。
「お前はレーブジャルダン家の令嬢なんかじゃない。数か月前にわたしが拾ってきた農家の娘だ。両親を亡くして一人きりになり、女衒に売り渡されそうになっていたところを助けてやった。可哀そうな娘だから家に置いてやってくれと言ったら、父上も母上も大層同情して、二つ返事で養女にしたさ。全くどこまでお人好しなのか」
「せっかく貧しい暮らしから抜け出せたというのに、行儀見習いとシモン様の講義を嫌がって、夜中に脱走しようとしたんです。それで外れかかっていた階段で躓いて頭を打って。記憶を失っているようだったから、最初からこの家の令嬢だと信じ込ませて、色々教えこんだ方が都合がいいと考えていたのに、怠け心を出してあれもこれも嫌だと言い出して」
「ええ? ちょっと、また情報量が多いんだけど。わたしって貴族のお嬢様に転生したんじゃなかったの? それにしても、わざわざわたしを引き取って、この家の養女にした理由ってなに? 行儀見習いをするのと、何か関係があるの?」
リゼットの問いに、シモンは文書机に腰掛けて、勿体つけて答えた。
「お前をわたしの妹にしたのは、この春から都で行われる、皇太子妃選びに参加させて、皇太子妃にするためだ。
我が国が今年建国500年を迎えることは前に話した。祝賀の行事の一つとして、皇太子ルシアン殿下のお妃選びがある。通常皇太子妃となれば、他国の王家から嫁いでくるものだが、今年は建国500年を祝い、国内の良家の子女から審査を経て選ばれることになってる。審査基準は国一番の淑女であること。まぁ、つまりは貴族の未婚の娘の中から品行方正で教養があり美しい娘を選ぶと、そういうことだ。
わたしはこのまま田舎貴族で終わるつもりはない。妹が皇太子妃、つまり未来の皇后となれば、当然レーブジャルダン子爵家にも運が向いてくる。借金なんてあっという間に帳消しにできるし、わたしも貴族社会で権力を握ることができる」
つまり、妹の力でもって、傾きかけた家の再興と、自身の立身出世を目論んでいるというのだ。
「そ、そんなこと考えてたの? だって国中の貴族の娘が参加するんでしょう。倍率高すぎ。田舎の農民のわたしが選ばれるわけないじゃない」
「養女にした段階で身分は問題ではない。選ばれるために行儀見習いをして、教養も叩き込むつもりだった。頭を打ったせいか知らないが、幸いお前は所作や言葉づかいはどうにかなっているから、可能性はかなり高くなったと思っている。まぁ、お前が落第点だったとしても、なにがなんでも皇太子妃にしてみせる」
その自信はいったいどこから来るのか、リゼットには全く理解できなかった。参加するのはリゼットであって、シモンではない。しかも審査基準は国一番の淑女であることなんて、全く明確ではない。一番美人とか、ダンスコンテストの一位とか、教養クイズの優勝者とか、そういうことだったらまだ理解できるし、合格するために努力のしようもあるが、曖昧極まりない基準を設けられて、とにかく教養と所作を磨くなんて、娘役力を磨け、と言われているのと同じではないか。
「冗談じゃないわ。出世したいなら自分で頑張ってよ。っていうか皇太子妃の家族になれば借金がチャラとか、出世できるとか、職権乱用じゃない」
「貴族社会でものをいうのは爵位と家の財力だ。わたしは自力で都の大学へ入ったが、結局あそこでも金持ちの貴族やブルジョワが幅を利かせていて、実力でできることなんてたかが知れていた。それに、借金がどうにかできれば、お前の尊敬するお父様たちを救うことができるんだぞ。その後は貧しい人々への施しでも何でも好きにやればいい」
「でも、わたしは皇太子妃になんてなりたくない。だって将来皇后様になっても、幸せになれるとは限らないじゃない。宮廷のしきたりでがんじがらめになるかもしれないし、皇帝が浮気するかもしれないし。っていうか、そのルシアンって皇太子のこと何も知らないんだけど、まさか錠前づくりが趣味なんてことはないわよね?」
「別にいいだろう、幸せにならなくても。わたしがほしいのは皇太子妃の兄の地位であり、将来の皇帝の伯父の地位だ。お前だって皇后になって贅沢三昧の暮らしができるなら文句はないだろう。わたしが拾ってやっていなかったら、今頃場末の酒場で男に股を開いて日銭を稼いでいたんだからな。貧乏とはいえ、貴族にしてやったんだから、礼と思って協力しろ」
幸せを捨てて手駒になれなど、本人を前によく言えたものだ。ノエルまでシモンの言うことを聞くよう意見してきたから、リゼットは絶句した。
(家は借金まみれで、兄に出世の道具にされそうになってるなんて。新しい人生では幸せになろうと思っていたの、これじゃあ台無しじゃない!
とにかく、この家にいたら、せっかくの第二の人生を謳歌できないわ。もう、出て行くしかない)
良くしてくれた子爵夫妻には申し訳ないが、脱走を決意したリゼットは、夜中にマントを羽織ってこっそり部屋を出た。転生する前のリゼットも脱走を試みて階段から落ちたというから、今度は慎重に降りて、玄関をそっと開けて屋敷の外へ飛び出した。
今夜は満月で、歩くのに困らないくらいあたりが照らされていた。昼間馬車の窓から見た風景と、目の前の暗がりに浮かび上がる風景を照らし合わせて、とりあえず町に向かって歩き始めた。途中、民家のまばらなところで、狼の遠吠えが聞こえて、恐ろしくなり、知らずに走り出していた。
バタリと扉を閉めて、リゼットを突き飛ばすようにしてベッドに腰掛けさせる。
「どうだ。さっき見たのはお前が尊敬するお父様とお母様の本当の姿だ。ノブレスオブリージュだか何だか知らないが、小さいころから領民が病気にかかったと言えば金を貸してやり、税が納められないといえば肩代わりしてやって、そうしていつの間にか借金まみれだ。貴族なんだから、領民たちから巻き上げて返してしまえばいいのに、却って我が家の取り分は免除するなんて馬鹿なことをするもんだから、借金は膨らむばかり。
どこの国に借金取りが屋敷にやって来る貴族がいる。金がないから屋敷が古くなっても修繕もできやしない。食事は質素で、夏でも冬でも着たきり雀。都に別宅を構えるなんて無理だから、田舎に引きこもって、一人息子の出世の道さえも閉ざしている。
これでもお前は父上と母上を尊敬するというのか? 金もないのに家族をないがしろにして他人を助けるなんて、とても褒められたものではないだろう」
「アンティークで良い感じって思ってたけど、お屋敷はおんぼろだったてわけ? まぁ、確かに扉とか軋んでるけど。洋服もこれ一着しかないの? 可愛いけどこれだけっていうのはちょっと……。食事はまぁ、わたしからしたら豪華だったけど、普通はもうちょっといい物を食べるってことなのね。やっぱり、転生しても庶民感覚って抜けないものね」
「そりゃそうだ。お前なんて、貧しい農民の娘なんだからな」
「は? どういうこと?」
リゼットが目を丸くしていると、シモンは組んでいた腕を解いて、人差し指を向けてきた。
「お前はレーブジャルダン家の令嬢なんかじゃない。数か月前にわたしが拾ってきた農家の娘だ。両親を亡くして一人きりになり、女衒に売り渡されそうになっていたところを助けてやった。可哀そうな娘だから家に置いてやってくれと言ったら、父上も母上も大層同情して、二つ返事で養女にしたさ。全くどこまでお人好しなのか」
「せっかく貧しい暮らしから抜け出せたというのに、行儀見習いとシモン様の講義を嫌がって、夜中に脱走しようとしたんです。それで外れかかっていた階段で躓いて頭を打って。記憶を失っているようだったから、最初からこの家の令嬢だと信じ込ませて、色々教えこんだ方が都合がいいと考えていたのに、怠け心を出してあれもこれも嫌だと言い出して」
「ええ? ちょっと、また情報量が多いんだけど。わたしって貴族のお嬢様に転生したんじゃなかったの? それにしても、わざわざわたしを引き取って、この家の養女にした理由ってなに? 行儀見習いをするのと、何か関係があるの?」
リゼットの問いに、シモンは文書机に腰掛けて、勿体つけて答えた。
「お前をわたしの妹にしたのは、この春から都で行われる、皇太子妃選びに参加させて、皇太子妃にするためだ。
我が国が今年建国500年を迎えることは前に話した。祝賀の行事の一つとして、皇太子ルシアン殿下のお妃選びがある。通常皇太子妃となれば、他国の王家から嫁いでくるものだが、今年は建国500年を祝い、国内の良家の子女から審査を経て選ばれることになってる。審査基準は国一番の淑女であること。まぁ、つまりは貴族の未婚の娘の中から品行方正で教養があり美しい娘を選ぶと、そういうことだ。
わたしはこのまま田舎貴族で終わるつもりはない。妹が皇太子妃、つまり未来の皇后となれば、当然レーブジャルダン子爵家にも運が向いてくる。借金なんてあっという間に帳消しにできるし、わたしも貴族社会で権力を握ることができる」
つまり、妹の力でもって、傾きかけた家の再興と、自身の立身出世を目論んでいるというのだ。
「そ、そんなこと考えてたの? だって国中の貴族の娘が参加するんでしょう。倍率高すぎ。田舎の農民のわたしが選ばれるわけないじゃない」
「養女にした段階で身分は問題ではない。選ばれるために行儀見習いをして、教養も叩き込むつもりだった。頭を打ったせいか知らないが、幸いお前は所作や言葉づかいはどうにかなっているから、可能性はかなり高くなったと思っている。まぁ、お前が落第点だったとしても、なにがなんでも皇太子妃にしてみせる」
その自信はいったいどこから来るのか、リゼットには全く理解できなかった。参加するのはリゼットであって、シモンではない。しかも審査基準は国一番の淑女であることなんて、全く明確ではない。一番美人とか、ダンスコンテストの一位とか、教養クイズの優勝者とか、そういうことだったらまだ理解できるし、合格するために努力のしようもあるが、曖昧極まりない基準を設けられて、とにかく教養と所作を磨くなんて、娘役力を磨け、と言われているのと同じではないか。
「冗談じゃないわ。出世したいなら自分で頑張ってよ。っていうか皇太子妃の家族になれば借金がチャラとか、出世できるとか、職権乱用じゃない」
「貴族社会でものをいうのは爵位と家の財力だ。わたしは自力で都の大学へ入ったが、結局あそこでも金持ちの貴族やブルジョワが幅を利かせていて、実力でできることなんてたかが知れていた。それに、借金がどうにかできれば、お前の尊敬するお父様たちを救うことができるんだぞ。その後は貧しい人々への施しでも何でも好きにやればいい」
「でも、わたしは皇太子妃になんてなりたくない。だって将来皇后様になっても、幸せになれるとは限らないじゃない。宮廷のしきたりでがんじがらめになるかもしれないし、皇帝が浮気するかもしれないし。っていうか、そのルシアンって皇太子のこと何も知らないんだけど、まさか錠前づくりが趣味なんてことはないわよね?」
「別にいいだろう、幸せにならなくても。わたしがほしいのは皇太子妃の兄の地位であり、将来の皇帝の伯父の地位だ。お前だって皇后になって贅沢三昧の暮らしができるなら文句はないだろう。わたしが拾ってやっていなかったら、今頃場末の酒場で男に股を開いて日銭を稼いでいたんだからな。貧乏とはいえ、貴族にしてやったんだから、礼と思って協力しろ」
幸せを捨てて手駒になれなど、本人を前によく言えたものだ。ノエルまでシモンの言うことを聞くよう意見してきたから、リゼットは絶句した。
(家は借金まみれで、兄に出世の道具にされそうになってるなんて。新しい人生では幸せになろうと思っていたの、これじゃあ台無しじゃない!
とにかく、この家にいたら、せっかくの第二の人生を謳歌できないわ。もう、出て行くしかない)
良くしてくれた子爵夫妻には申し訳ないが、脱走を決意したリゼットは、夜中にマントを羽織ってこっそり部屋を出た。転生する前のリゼットも脱走を試みて階段から落ちたというから、今度は慎重に降りて、玄関をそっと開けて屋敷の外へ飛び出した。
今夜は満月で、歩くのに困らないくらいあたりが照らされていた。昼間馬車の窓から見た風景と、目の前の暗がりに浮かび上がる風景を照らし合わせて、とりあえず町に向かって歩き始めた。途中、民家のまばらなところで、狼の遠吠えが聞こえて、恐ろしくなり、知らずに走り出していた。